93. そわそわとお買い物
特別忙しいわけでもなく、かと言って暇なわけでもない1月最後の土曜日。18時に20名様のグループでのご予約が入っているものの、事前にお料理を決めていただいているため準備は万端。
こちらとしてはいつもの週末と変わらないか、他のお客様を含め、イレギュラーなリクエストもないため、いつもと比べてもむしろ楽。
忙しさはいつも通りかそれ以下だけれど、今日は皆がどことなく緊張している。
とりわけ誰よりもそわそわして落ち着かない様子なのが支配人だ。無駄にホールと厨房をウロウロしながら、幾度となく腕時計をチェックしている。
店の電話の呼び出し音には誰よりも早く反応しているし、普段は事務所に置きっぱなしのプライベート用のスマホが、こっそりポケットに押し込まれているなんて凄く珍しい。
その理由はいたってシンプル。
支配人は静香さんからの連絡を待っているのだ。支配人だけでなく、皆が同じように彼女からの知らせを待っている。
出産予定日を1週間過ぎても一向に産気づく気配の無かった静香さんは、病院の方針で今日の朝入院した。陣痛促進剤を使ってのお産になるそうだ。
支配人は今朝の時点からつきっきりでいるつもりだったが、静香さんに拒まれ出勤させられたらしい。
つきっきりでいるのは拒否されたものの、立ち会い出産を拒まれたわけではなく、いよいよ産気づいたら支配人が病院へ向かう算段になっている。
静香さんとしては、立会って貰いたいような貰いたいような複雑な心境らしい。醜態は晒したくないけれど、1人はやっぱり心細いと言う。
「母が分娩室入れたら良いんだけど…」と何度も静香さんが言っていたように、静香さんの希望はお母様に立ち会ってもらうこと。けれど、病院の決まりで旦那さん以外は分娩室に入れないのだとか。
「生まれる直前に立花が駆けつけて…ギリギリ出産に立ち会えたっていうのがベストかしらね?」
臨月に入った静香さんと連絡を取るたび、彼女のそんな希望を聞いた。
最後の最後は仕方ないにしても、あまりの痛さに理性を失った姿は見られたくないって気持ちはよくわかるし、私も同じ状況になったらそうしするだろう。
自分が出産するとき、誰に一緒にいてもらいたいか?――友人の誰かが妊娠する度に話題に上り、妄想として幾度となく酒の肴になっているが、私の本音としては、旦那さんだけじゃなくて姉にもいてもらいたい。経験者だから苦しみをわかってもらえるし、姉になら醜態を晒せる、それにこういう時って異性よりも同性の方が頼りになるって言うし……なんて考えてることを春ちゃんが知ったら拗ねちゃいそうだけど。
ここから静香さんの入院中の病院まで、上手くタクシーを拾えれば15分程かからない。因みに、ゆかりちゃんもその病院で出産予定だ。
ランチの営業が終わってから1度様子を見に行った支配人だったけれど、「初産は時間がかかるっていうし分娩室に入ってから向かっても出産には立ち会えるわよ」と静香さんに再び追い返されてきた。
陣痛促進剤を使ったからって、すぐに産まれるわけではないそうで、効果には個人差があるけれど、すぐに陣痛が始まったとしても生まれるまでに数時間かかるのが一般的。24時間以上経過してから陣痛が始まることも珍しくないんだって。
色々な友人からの情報によると、自然にくる陣痛は弱いものから始まりだんだん強く間隔も短くなるのに対し、促進剤の場合、薬が効き始めたら結構強いのがいきなり来るんだとか。
いよいよって時の陣痛は死ぬ程痛いと聞くけれど、そんなのがいきなり来るとか怖すぎる。
いろんな種類の腹痛と腰痛――具体的には起きてられないレベルの生理痛と、食あたりというかお腹の具合が急降下した様な苦しみと、激しい腰の痛み――というのが陣痛というものらしい。人によっては吐き気までついてくるとかこないとか。あまりの痛さに理性を保てなくなる…と追い討ちをかけられた。
数年前、産まれたてほやほやの彩ちゃんを幸せそうに眺める舞ちゃんからそんな話を聞いたとき、私と貴子は母になった舞ちゃんの強さに感動し、それと同時に出産の恐ろしさに言葉を失ったっけ。
因みに帝王切開だったゆかりちゃんからは、切開したあとの傷口が如何に痛いかを聞かされ、貴子と仲良く「子どもを産める気がしない」なんて感想を抱いたのだった。
「なんでこういう日に限ってオーダーストップギリギリに駆け込んできちゃうかな……」
「大丈夫ですよ、呼び出しがあったら気にせず病院へ向かってください。この程度なら支配人抜きでも余裕ですから。」
店には一応、閉店時間というものが設けられているが、食事中のお客様を追い出すことはしない。食事が終わって、おしゃべりに夢中なお客様には、お帰りいただけるように促すことはあるけれども。
静香さんのことだから、きっと連絡があるのはギリギリになってからだろう。連絡があった時、店を気にせず病院にすぐに向かって欲しいから、生意気にも強がれば長尾さんも瀬田さんも笑顔で同意してくれた。
「八重山も言うようになったと思わないか、長尾?」
曖昧に笑う長尾さんも、ディナー営業が始まってからずっとソワソワしっぱなし。唯一どっしり構えている瀬田さんが私をフォローしてくれた。
「八重山ちゃんの言うとおりですよ、支配人。私たち、結構有能ですから。それに陣痛で苦しんでる時は旦那さんの一挙一動に腹が立つらしいですよ?静香さんの性格上、ギリギリまで顔合わせない方がお互いのためなんですって。そう焦らなくたって、静香さんの子ですから。空気読んでくれますよきっと。」
「まぁ、義理の母もいることだし、俺がいても邪魔になるだけだよな……」
支配人は瀬田さんの言葉にちょっぴり傷ついたらしい。直後にバックヤードで静香さんにメールを打つ背中には哀愁が漂っていた。
***
「出産祝いって何が良いんだろう?って毎回悩むんだよね。」
洋服、靴、食器、ベビー用品…etc.
赤ちゃんの為のもの?ママになった友人の為のもの?家族みんなで使うもの?
残るもの?消えるもの?
せっかくならば、喜ばれるものを贈りたい。相手の好みに合わせて、あーでもない、こーでもないと悩むのはなかなか面白い。
洋服ならば、少し大きくなった頃のもの。
靴も、少し大きめの歩けるようになった位の子が履けるサイズ。
食器なら、長く使ってもらえる良質なものを。
ふんわり柔らかなオーガニックコットンのタオルやベビー用のバスローブも可愛い。
北欧ブランドのベビーチェアやベビーカーを連名でプレゼントした事もあったっけ。
気兼ねなく「何が欲しい?」と聞ける間柄の友人なら聞くんだけど…。大概「気持ちだけで十分」とか「何でもいい」と言われるけど、「それが1番困る…」と返せばリクエストしてもらえるし。
「ねぇ、春ちゃんは何がいいと思う?」
「なんだろうな……せっかくなら喜んでもらえる物が良いよなぁ…」
かれこれ1時間程、百貨店のベビー用品だとか子供服を扱っているフロアを徘徊している私と春ちゃん。
静香さんが入院した日、彼女からの連絡が入ったのは閉店直後。支配人は「あとは任せた」と言って、文字通り、すぐさま病院へ駆けつけた。日付が変わるとすぐに産声をあげた元気な元気な女の子。翌朝には写真付きのメールが届いた。これが2週間前の話。
今日は静香さんからのお誘いで、ご自宅にお邪魔することになっている。二次会の件を支配人と相談することにもなっているけれど、メインは静香さんと赤ちゃんに会いにいくこと。
その手土産というか、お祝いを只今物色中。
「赤ちゃんのものってミニチュアみたいで可愛いな。見てて飽きない。」
「ふふふ、見てて飽きないってわかる気がする。」
「思わず将来のために買ってしまいたくなるくらいにな!」
「それは春ちゃん、いくらなんでも気が早いでしょ?」
気持ちは分からなくもないけれど。だけど流石に妊娠しているわけでも、妊娠の予定もないというか、転職しようとしている現状として、暫くは妊娠したら困る…かも。
勿論、いずれは欲しい。
同じデザインもしくは同じ柄で、大人用とベビー用のサイズ展開している服を見たら、春ちゃんと子どもがお揃いで着てたら可愛いだろうな…私もお揃いで着ちゃうとかやりすぎかな?なんて妄想しちゃうくらいだから、春ちゃんに対する発言は「まだ早い」という自分への戒めでもあったりする。
じゃないと、買ってしまいそうな私がこわい。
「麗、ちょっとトイレ行ってきて良いか?」
「じゃあこの辺りで見てるね。」
水彩画のような優しい色合いのプリントが施されたワンピースが目にとまった店で待つことにする。
お祝いを買いに来るたびに思う。やっぱりお洋服は女の子の物の方が選び甲斐がある。
男の子の物は、多分私の好みの問題でもあるのだけれど、だいたいいつも同じ店の定番の物を、プレゼントする友人の好みに合わせている感じ。なのでサクッと決まる。
一方女の子の物だとそうはいかない。
友人の好きそうな系統のところをピックアップして回りつつ、移動の際に目に入った服も候補になる。
百貨店のワンフロアにショップが揃っているとはいえ、可愛い服があり過ぎて1着…もしくは1つのコーディネートに絞るのは結構大変なのだから。
今日みたいに、何をプレゼントするか大まかな方向性すら決まっていない場合は特に難しい。
なんとなく洋服ばかり見ていたけれど、以前お邪魔した雰囲気と静香さんから聞いてる支配人の様子だと、洋服は結構揃っていそうだし。お邪魔した時点でもそうだったけど、女の子と判ると追加で買ってきたっぽい。
そう言えば静香さんが、「服を選ぶ楽しみを奪われた…」って苦笑していた事を思い出し、服じゃない方が良い気がしてきた。
この辺りを見ていると春ちゃんに告げた手前、移動するのも良くないだろうと、彼が来るまでは引き続き洋服を見て待つことにする。
するとどうしても、こんなワンピースを着せたいな…とか、春ちゃん似ならこんな色合い似合いそう…なんて妄想が止まらない。
ついつい楽しくなって頬も緩んでしまう。
男の子の洋服もここのお店のは可愛い。
今まで、男の子用の服をここで見ることはほとんどなかったから気づかなかったけれど、結構好みかも。私が選ぶとどうしても、無地かボーダーかストライプ、もしくはチェックで面白みに欠ける。男の子の好きそうなモチーフで、こういう優しい風合いの柄はなかなかないから覚えておこう。
その時だった。背後から、聞き覚えのある女性の声がしたのは。
「麗ちゃん…よね?」
振り向いた私は驚いた。
それが誰なのかはすぐに分かったけれど。私のイメージの中のその女性とは随分雰囲気が変わってしまっていたのだから。
更に言えば、彼女の背後にいる男性も同じく、私の知っている当時のその方とは違う印象を受ける。私の知っている当時、と言ってもたかだか2年ほど前でしかないのだけれど、逆に言えば、そんな短い間に変わってしまったということ。
「ご無沙汰しております…。」
驚きのあまり、すっかりご挨拶が遅れてしまった。
驚きとは、お2人が変わってしまった事と、こんなところでばったり出くわしてしまった事、二重の驚きだ。
慌ててお辞儀をするが、失礼では無かっただろうか……。
私にとってお2人は、かつて大変お世話になった人。すごく可愛がってもらった事には感謝もしているけれど、それ以上に、その感謝の気持ちを伝えられないままフェードした事に、後ろめたいような申し訳ないような気持ちの方が大きくなっていた。
とは言え、私が会いに行ったり、連絡を取ったりすれば迷惑でしかないとは思うが、何か方法があったのではないかとも思ってしまう。
ここでこうしてお会い出来たのは良い機会だ。
謝罪をして、感謝の意を伝えたところで、それはただの自己満足でしかない。私の気持ちがスッキリするだけかもしれない。だけれど、声をかけて下さったのはあちらだから……きっと許されるのでは無いだろうか。
本来、謝罪も感謝も、こうして打算的に伝える物では無いはずだ。
だが、私とお2人の関係にそれは許されない。幾ら昔は良くして頂いて、『家族』になると思っていたのはもう過去の話。
「元気そうで何よりだわ…差し支えなければお茶でも飲みながらお話しできないかしら……」
関係を清算したはずなのにしきれていなかったのは、どうやら私だけではなかったらしい。
お読みくださりありがとうございます。
前回の投稿から間があいてしまい申し訳ありません。




