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90. 大丈夫

 カーテンの隙間から覗く光を見れば、ずいぶん遅くまで寝ていたらしい。

 ノソノソと布団から這い出て、いつもの癖でカーテンを開けようと伸ばした手。しかし、慌てて引っ込める。

 エアコンつけたまま寝ていたせいで寒さを感じなかったけれど、今の私はカーテンを開けられる様な格好じゃあない。

 足の付け根に感じる違和感と、左手の薬指にはめたままの指輪、そして急に脳内で再生される数時間前の甘い囁きのせいで年甲斐もなく照れながら、音を立てぬ様にバスルームへ向かう。


 あぁ、頭が働かない。


 2日前のクラス会で貴子が言っていたこと。春ちゃんはあの日、友人達の態度にそれを感じていたらしい。その件について、昨日友人達を呼び出し、遅くまで話し合っていた。途中からはただの飲み会となり果ててしまったけれど、話し合うべき事の結論はきちんと出した。


 話し合いを仕切っていた春ちゃんは疲れているのだろう。…の割には帰宅後なかなか眠らせてくれなかったけれど。。。ともあれ、今はなるべくゆっくり寝かせてあげたい。




 お気に入りのシャンプーの香りに包まれて湯を浴びれば、ぼーっとしていた意識もだんだんとハッキリしてくる。

 熱いシャワーが気持ち良い。

 曇った鏡にシャワーをかける。一瞬だけクリアに映った自分の姿もあっという間にまた曇る。肩の辺りに痣が出来ていた気がしないでもないけれど見なかった事にしよう。

 フワフワのバスタオル1枚で部屋に戻れば、あどけない顔で眠る旦那さま。あまりの可愛らしさに、しばらく見つめて、そっと触れるだけのキスをした。

 どうやら、今は眠りが深いらしい。規則正しい寝息がそれを物語っている。


 今はまだ一緒に暮らしている訳じゃないけれど、もうすぐこれが日常になるのかと思うと嬉しくて思わず頬が緩んでしまう私。

 目を覚ませば大好きで大切な人がすぐ側にいて、こうして穏やかな寝顔を独り占め出来て、一緒に朝食を食べて、出かける。

 同じ家に帰って、一緒に夕食を食べて、同じ布団で寝る。

 そんな日が待ち遠しいし、今こうして同じ空間に居られる事すら幸せだと思ってしまう。


 かつて、これに近い生活をしていたはずなのに、当時はこんな風に思った事なんて無かった…。




 久しぶりに袖を通す、ごくシンプルな黒のスーツ。シャツを合わせるとリクルートっぽくなってしまうので、インナーはシフォンのブラウス。

 いつもよりもキッチリ纏めた髪。

 メイクは、念入りに。だけれど濃くならない様に。

 期待と緊張と不安の入り混じった顔をする、鏡の中の私。時間をかけて出来上がった、かつてのお仕事スタイル。当時はそれなりになっていると思っていたのに、久しぶりに見るせいかどうも落ち着かない。


 今日は私たちの担当プランナーさんの紹介で、彼女の上司に会うことになっている。

 面接ではなく、話を聞きに行くだけ。履歴書は不要であると言われたけれど、念の為に一応用意した。


 カーテンを開けば、雲ひとつない晴天。部屋中に、午後の太陽の光が差し込む。モゾモゾと布団が動き、ようやく目が覚めたらしい春ちゃんが起き上がった。


「ごめん、もう出かける?」

「まだ大丈夫。どこかで軽く食べる位の時間ならあるけど…遅めのランチする?」

「勿論。急いで支度するから、ちょっと待ってて。」


 新妻としては、彼が起きる前に何か用意しておくべきなのだけど、何日かぶりに帰宅した我が家の冷蔵庫は空っぽ。自分で食事を用意しようという気持ちの余裕もなくて。

 彼がシャワーを浴びている間、荷物を再度チェックする。大丈夫そう…まぁ、持ち物っていう程大層なものは特にないんだけど。気負う様なモノでは無いと佐伯さんに言われたけれど、どうしても緊張してしまう。現場からは随分離れてしまっているし、不安なのだから緊張してしまうのは仕方ないだろう。


 それに加えて、その後にももう1件予定が入っている。春ちゃんが竹内くんにお願いされて引き受けたもの。お互いの為にも、周りの為にも必要な事で、そのために昨夜話し合いをした。そちらについても不安が無いと言えば嘘になるけれど、きっと大丈夫、そう自分に言い聞かせて…。






 ***


 やっぱり私はコーヒーよりも紅茶派だなと、サンドイッチをつまみながら実感する。紅茶にサンドイッチ、それにスイーツをオーダーしたのだから、遅めのランチと言うより、もはやアフタヌーンティだ。

 温かい飲み物ってホッとする。お腹も膨れた事もあり、いつの間にか先程までの不安はもう無い。我が事ながら単純すぎる。そう、私は単純な女。単純なくせに、いろいろ考えすぎて素直になれない。

 物事はシンプルに考えたらいい。この1年で幾度となく学んだことなのに、また忘れていた。


「大丈夫、緊張するなって。終わったら連絡しろよ?じゃあ、行ってらっしゃい。」

「ありがとう、行ってきます。」


 そして何より、彼の「大丈夫」という言葉と大好きな笑顔が私の背中を押す。お蔭で、いい意味での緊張を残したまま、驚く程軽い足取りで先方に向かう事が出来た。


 今日お約束しているのは、私たちが式を挙げる予定の料亭と同じ会社が経営しているフレンチレストラン。

 大きなビルの最上階で、眺望を売りにした高級店。今は営業時間外だが、レセプションの女性をつかまえて取次ぎをお願いした。


「お待たせ致しました。担当の小野と申します。」


 1分も待たないうちに現れたその人、小野さんは静香さんとは違うタイプの、具体的にはショートカットで長身の中性的な美人で、頼れる上司な空気をまとった人だ。

 彼女に案内されたのは、打ち合わせに使っているであろう部屋で、テーブルには複数の資料まで用意されていた。


「簡単にで結構ですので、経歴など教えて頂けますか?」

「不要と伺っていたのですが、念のため用意いたしましたので…」


 口で説明するよりも見てもらったほうが早いだろうと、履歴書を渡す。小野さんはそれにさっと目を通すと、「へぇ…」と小さく呟いた。


 その後は資料をもとに、一通りの説明を受ける。

 5月末オープン予定のレストランは、ジャパニーズイタリアンで、昭和初期に別荘として建てられた、日本庭園の中に佇む洋館を利用した店だそうだ。

 ウェディングのターゲット層としては、佐伯さんから聞いていた通りで大人向け。

 業務内容としては、プランナーとしての仕事が主だが、レストランの予約状況によってはレストランサービスもする。

 契約社員のため、正社員と比べたら福利厚生が手厚いとは言えないけれど、契約社員にしては悪くない。

 仕事はシフト制。自分の担当のお客様との打ち合わせをうまく調節できれば、土日の休みも可能らしい。


「3月末もしくは4月頭から研修、その後既存の店舗でアシスタントという形で現場に立って頂きます。理想としては、プランナー業務だけでなく、サービスの研修、一通りの業務を覚えてから新店舗のオープニングスタッフとして働いて頂く、以上が新卒の方や未経験の方の予定スケジュールです。ですが…経験者に関してはこの通りではありません。3月末に挙式されるとの事…この度はご結婚おめでとうございます、新婚旅行なども行かれますよね?その点は配慮いたしますので、実際働いて頂くのは4月末か5月の連休明けになると思います。」


 佐伯さんにも春ちゃんにも大丈夫だと言われていたけれど、想像していたよりもはるかに好感触。後日、面接の日時が決まったら連絡をもらえることになった。しかも面接も形だけのものになるらしい。

 ディナータイムが始まるギリギリまで、小野さんとお話しさせてもらう。後半は説明を受けると言うよりも、あちらの希望とこちらの希望の擦り合わせに近い内容だった。


 小野さんにお礼を言い、レストランを後にしたのは、次の予定の待ち合わせ時間になろうかというところ。ここからは乗り換えを考えれば30分ほどかかるが、全く問題ない。むしろ、私は遅れて行った方が都合が良いのだとさえ言われたのだから。




 約束通り、春ちゃんに電話をかける。

 3コール待たぬうちに繋がり、私は小野さんと話した内容をかいつまんで伝える。言いたいことがたくさんあって止まらない。そんな時に限って、どうして駅に早く着いてしまうんだろう。ホームに電車が入ってきたので電話を切った。

 話している間は時間の流れが速かったのに、電話を切った途端、遅く感じてしまう不思議。

 乗り込んだ電車が混雑しているから余計そうなのかもしれない。乗車時間がやたらと長く感じる。途中、乗り換えをして2駅。約束の店は駅からすぐらしい。そんな僅かな時間さえ話をしたくて再び電話をかければ、寒いのに外まで迎えに来てくれた春ちゃん。


「お疲れ。なかなか条件良さそうで良かったな。」

「うん。毎週は無理だけど、土日も休めるみたい。もし受けて受かった場合、私の場合は勤務開始日も融通利かせてくれるって言ってもらったよ。」

「面接の日、決まったら向こうから連絡くれるって?」

「うん。」


 嬉しいことがあったせいで気が大きくなっている事が、今の私にとってはプラスに働いている気がする。いつもよりも自分に自信が持てるから。


 私には春ちゃんがいて、彼が大好きで、今が幸せで。

 過去を無かった事にしたい訳じゃないし、博之と付き合っていた事を否定したい訳でもない。

 私はこれからの人生を共に歩いて行く人を見つけたこと、それが博之ではなくて春ちゃんだという事を伝えなくてはいけないのだ。


 あの出来事を、皆がいつまでも引き摺るべきではない――それが昨夜、私達と友人達の間で出した結論。

 以前の様な友人関係に戻る事は無理だけれど、お互いにその意志があれば、再び築く事は可能だ。少なくとも、昨日集まった友人はそれを望んでいた。




「じゃあ行こうか。」


 差し出された春ちゃんの手は暖かい。その暖かさで私は再度確信する。

 この人と一緒なら大丈夫だ、って。

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