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88. ゆく年 くる年

 布団に包まれて微睡む時間って、なんて気持ち良いんだろう。

 目覚まし代わりにかけているスマホのアラームを止めて布団を頭からかぶれば、あっという間に再び夢の中。


 結果、目が覚めたのはお昼過ぎ。


 さて、これからどうして過ごそうか。

 年末だから大掃除、と気合いを入れてする程は汚れていない一人暮らしの部屋。以前に比べ、この部屋で過ごす時間は圧倒的に減った。それに伴い、料理する機会も随分減ったのだから大掃除の難所であるキッチンはそんなに汚れない。加えて、3〜4ヶ月後にはこの部屋を引き払うんだし、その時に気合いを入れてすれば良いかも?…なんて思ったりもして。

 まぁ、大掃除をするとしても単身用の1Kの部屋なんて、たかが知れているのだけれど。


 他にもやるべき事はあるにはあるが、必ずしもしなくてはいけないという訳でもなく、出来たらした方が良いんだろうな…その程度の事ばかり。ついダラダラしたくなる。


 たまには一日中寝て過ごすのも悪くないかも、なんて思いながら再び布団に戻る…つもりが、春ちゃんからの着信で予定を変更。

 とりあえず布団をたたんでクローゼットに押し込む。布団を押し込むならクローゼットじゃなくて押入れだろうと、1人でツッコミを入れたりして。

 なんだか妙にテンションが高い私。その勢いで部屋を掃除すればあっという間に片付いた。

 さっきまでダラダラするつもりだった私は何処へやら?


 つい数日前もここにやって来た春ちゃんが今からやって来る。ただそれだけなのに、こんなにもドキドキするなんて。

 私の中で、数日前の出来事がどんなに大きな意味を持っているのか、彼は気付いているのだろうか?


 快楽のためでも、ましてや好かれる為とか嫌われない為にするのでもなくて。

 恐怖心も、不安も、全て消し去ってくれて。

 大好きで、大切で、あたたかくて、しあわせで。


 ずっと悩んでいた事が解消された。貴子や美咲ちゃんに弱音を吐いて不安に思っていた事がこんなにも呆気なく解消されるなんて。頭で考えすぎていたのかもしれない。案ずるより産むが易しとはこの事か。

 兎にも角にも、籍を入れる前にスッキリして良かったと思う。このままズルズル、何年も悩んでいたらどうしようなんて思ったりもしたのが嘘みたいだ…。







 ***


 2人でソファに並び、温かいカフェオレを飲む。甘えたくて仕方ない私は、春ちゃんにぴったりくっついて、左手の指輪をニヤニヤしながら眺めてみたり。

 だけど、彼はどことなく固いというか、緊張しているというか。そんな春ちゃんの様子が気になって顔を覗き込むと、躊躇いがちに口を開いた。


「なぁ、麗。」

「なぁに?春ちゃん。」


 コトリ。

 カフェオレボウルをローテーブルに置く音が響く。

 コトリ。

 私も彼に倣ってカフェオレボウルを置く。


 大きく息を吐いた彼。なにか大切な話がある時、春ちゃんは深呼吸する癖があるから、そんな彼の行動に思わずソファの上で正座して、彼の方へ体を向ける。

 こちらに居直った彼はもう一度、今度は短く息を吐く。そして、遠慮がちに口を開く。


「こないだ、大介と会うって話…というかメールしただろ?」

「うん、私との事を竹内くんに報告したいってメールだよね?」

「そう、それな。麗と結婚するって言ったら、あいつまで喜んでくれて…おめでとうって。麗が元気そうで良かったって。大介も大介の彼女もすげぇ心配してたらしい。2人とも麗に会いたいってさ。」


 桜子ちゃん…私も会いたいな。

 クリクリとした大きな目が印象的な竹内くんの彼女の桜子ちゃん。年下で小柄な彼女は小動物みたいに可愛くて。あまりにも可愛い過ぎて、会う度にかまいまくっていたら、ものすごく慕ってくれるようになって。なのに、あの一件以来連絡を取っていない。…取ろうにも取りようがなかった、とも言えるけど。


「その、大介が麗をすごく心配していたのには…原因があるというかなんというか…だから…そう、麗はもう大丈夫…なんだよな?」


 ああ、そういうことか。言い淀む春ちゃんに代わって、その名前を出す。


「博之の事?竹内くん、何だって?」


 以前だったら、躊躇いなく博之の名前を出していた筈の春ちゃんだったのに、今日はどうしたのだろう?

 困ったような、それでいてホッとしたような表情を見せたかと思えば、再び小さく息を吐くと私の様子をチラリと窺ってから、真っ直ぐにこちらを見て話し始めた。


「麗が平気なら…俺と一緒に、博之に会って欲しいんだけど…。」


 珍しく弱気な春ちゃんの様子が気になるけれど、それはきっと必要な事なのだろう。

 博之と同じ会社の同期の竹内くんは今でも博之と付き合いがある筈で、今の博之がどんな状態なのか知っている。

 それを聞いたであろう春ちゃんが、躊躇いながらも口にするのだから、必要でない訳がない。


「博之、今でも麗の事を…。」


 それ以上聞きたくなくて思わず溜息を吐いて遮ってしまう。どうやら1年前と博之の心境は変わっていないらしい。


「大介が何度も説得をしているけど聞く耳持たないらしい。だから、現実を見るべきだって。麗の口から、今の麗の気持ちをきちんと伝えて欲しいって。」


 いつまでも引きずられるのは嫌だ。

 決して良い別れ方ではなかった。だからこそ、今会って話す必要があるのだろう。たとえこちらが一方的に話す事になっても、現状を、今の私の気持ちを知ってもらうべきだ。


 私には、もう彼に対する特別な感情は無い。

 強いてあると言うのならば、クラス会などで、彼の存在がなかったものとして扱われるようになってしまった事に対する罪悪感くらいだ。


「わかった。私もそれは必要だと思う。」


 不安そうな顔をする春ちゃんににっこり笑う。少しでも彼の不安を取り除きたい。


「でも麗は大丈夫なのか?」

「春ちゃん…私を信用してくれないの?私が愛してるのは春ちゃんだけ。」


 勢いに任せて我ながら凄いこと言ってしまったけれど…。慌てて照れ隠しで頬を膨らませて戯けて見せる。


「麗、そうじゃなくて…また傷付けられるかもしれないんだぞ?1年前の事を考えたら…俺、麗にあんな思いはもうして欲しくない。」


 大丈夫。私はもうあの頃の私じゃない。それに私の隣には春ちゃんがいるんだから…。

 今が幸せで、春ちゃんが大好きで。だから、何も恐れる事なんてない。何を言われたって私が傷付く必要は無いのだ。


「万が一傷付けられても、春ちゃんがすぐに慰めてくれるから大丈夫だよ。」


 そう言ったら、ようやく穏やかな笑みを浮かべてくれた。

 彼はいつも私の事をちゃんと見て、ちゃんと考えてくれている。それが私にとってどんなに嬉しくて、どんなに幸せな事か彼自身は気付いているのだろうか?


「もう、春ちゃん大好き!」


 甘えたくて仕方ない私は、彼の胸に顔を埋め、ぎゅーっと抱きついた。息を大きく吸い込めば、ふんわりと良い香り。爽やかで優しい、とても落ち着く彼の香りがした。


「ちょっ…麗、ストップ!!」


 彼の首に腕を回してキスしようとしたら阻止されてしまう。


「やっぱり私からキスしちゃダメなの?」

「…ダメじゃないけど、心の準備が。」

「心の準備って…なんか乙女だね、春ちゃん。」


 可笑しくてクスクス笑ったら、彼は不機嫌そうに口を尖らせてしまった。


「麗?そういう事言っちゃうわけ?」


 …なんて悪戯っぽく笑ったと思ったら…押し倒されて唇を塞がれた。何で塞がれたかって…勿論彼の唇で。

 わざと音を立てて唇を離した春ちゃん、表情がやたらとエロいですよ!

 ちょっと待って、真昼間から盛るほど私は若くないんだから!!


 再び近付く唇から逃げる為顔をそらしたのは完全に失策。首筋に、耳に落とされるキスは甘い吐息を含んでいて、艶かしい音が大音量で聞こえてくるので赤面せずにはいられない。


「恥ずかしがる麗、可愛い。こっち向いて?」


 恐る恐る言われた通りに視線を向ければ、細めた目元がやたらと色っぽい彼にキスされて。


「心の準備、必要だろ?」


 いつもとキャラの違う春ちゃんにそう言われれば、頷く事しか出来ない私なのだった。







 ***


「麗ちゃん、本当に器用ね〜!」

「だろ?」

「…春太郎、あんた邪魔よ?ただでさえ狭いキッチンなんだから手伝わないなら出て行って頂戴。」


 心の準備の大切さを思い知らされた数日後、大晦日。私は1日、浅井家のキッチンで過ごした。

 前日から春ちゃんの家でお世話になっているのだけれど、私にできる事は御節作りを手伝う事くらい。

 幸い春ちゃんのお母様にお褒め頂き、可愛がって頂いております。


「本当に春太郎には勿体ないわぁ…。」


 この2日間、何度聞いた事だろう。その度に臍を曲げる春ちゃんは、家族の目を盗んでイチャイチャしようとする。もう、心臓に悪すぎて悪すぎて…。むしろ私に春ちゃんは勿体ないです!なんて言っても浅井家の皆様には受け入れてもらえず…。終いには先程の台詞が、お母様の口癖となりつつあるのが怖い。




 夕方には、弥生さんと宗一さん、秀治さんと涼子さんもやってきて、一気に賑やかな雰囲気へと変わる。

 一緒に食事を…とか女子会を…なんて言っていたのに、こうして会うのは結局結納の時以来。女が3人集まれば姦しいなんて言うけれど、同世代で共通の話題があれば尚更だ。


 メインはすき焼き。それに皆が持ち寄ったおつまみ、ビールに日本酒、焼酎、ウィスキー、ワイン。

 たくさんの料理とドリンクがテーブルの上に所狭しと並べられ、宴会スタート。

 先ずはビールで乾杯して。

 炬燵で飲むキンキンに冷えたビールなんて最高に贅沢だし、グツグツ音を立てて煮える甘辛い香りに包まれながら紅白を見ていると、今年も終わるんだな…という実感が湧いてくる。




「まさか春が結婚するなんてね〜。」

「確かに、今年1番のニュースというか衝撃だった…」


 弥生さんと秀治さんにそう言われ、春ちゃんは豪快に笑った。


「それ、何気に俺が1番驚いてるから。1年前は結婚したいとすら思ってなかったからなぁ…」

「意外とそういうタイプの方があっさり結婚出来ちゃうんですよね〜。麗ちゃんだってそういうタイプなんじゃない?」


 涼子さんの言う通り。1年前の私には想像すら出来なかった春ちゃんとの結婚。


「とにかく良かったわよ〜、これで我が家も全員片付くわね。」

「お母さん、片付くとか嫌な言い方やめてよ〜!」

「弥生、仕方ないじゃない。だって残っていたのは残念な春太郎よ?」

「…相変わらずひでぇ。俺、残念じゃないし!」


 浅井家の鉄板ネタに、春ちゃんは笑いながらもちょっぴり不満そう。


「未だ残念な俺な訳だし、麗に逃げられる前に籍入れないといけないなぁ…」






 ***


 遠くで除夜の鐘が聞こえる。

 空気の澄んだ真冬の夜中、上弦の月よりも少し太った月が照らす街。

 時折吹く風は冷たいけれど、繋いだ右手は暖かい。


 春ちゃんの腕にしっかり抱えられているA4の封筒の中には、大切な書類が3通。


 私が、彼の妻になる為の書類。


 役所に到着したのは、ちょうど108回目の鐘の音を聞いた時だった。

お読み下さりありがとうございます。

2016年もどうぞよろしくお願いいたします。

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