85. 酔いしれる
私から言い出した上、先程了承もした。けれど心の準備というものが私には必要だった。幸い彼がコンビニへ着替えを調達に行くと言うので、その時間をそれに充てる事にする。
ぼーっとした頭をハッキリさせたくてシャワーを浴びる。しかし、熱いシャワーに打たれるうち、逆に酔いが回ってしまった。
飲んだのは2人でハーフボトル1本だけ。単純計算すると1人当たりの量は375mLの半分、187.5mL。グラスに1杯と半分の量で酔うほど、私は弱くなってしまったのだろうか?
きっと、私が酔ったのはアルコールだけじゃない。雰囲気にも、彼にも酔っているのだろう。
酔いは覚めるどころか、ますます回っていく。フワフワした心地良さに身を任せてみたくなった。
私は30歳。いい大人で、世間ではオバサンと呼ばれる様な年齢だ。過去の恋愛をいつまでも引きずって、ウジウジしていられる程若くない。
30歳を過ぎたら、時間の流れは早いのだ。ウカウカしていたら、あっという間に1年でも2年でも過ぎてしまう。
時には勢いも必要。若い頃は勢いに任せて失敗する事も多いけれど、もう勢いに任せなくてはキッカケが掴めず、前に進めない。
恋愛において、思い出の保存方法は、男女で違うのだという。
男の人は、別名を付けて保存、女の人は、上書き保存するそうだ。
言わんとしている事はわかる。だけど私はこれに少し違和感がある。だって、どんなに頑張って消し去ろうと、すべてを書き換えて上書きしたつもりでも、上書きされずに残ってしまうデータもあるのだから。
どうやって例えたら、上手く説明できるだろう?そう考えて、辿り着いたのは心をメールボックスに例える事だ。
男の人は、受信メールを、送信者ごとにフォルダ分けして保存している。
女の人は、それをしない。受信メールは、フォルダ分けされる事なく、受信メールボックスにどんどんたまっていく。受信メールボックスにはキャパがあり、古い思い出はどんどん自動で削除され、徐々に新しいメールでメールボックスが埋められてゆく。
時には、辛くて不要なメールを一気にゴミ箱に移動させる事もある。しかしながら困った事に、ゴミ箱に移動させても、ゴミ箱を空にする事は容易ではない。その為のボタンを見つける事が難しいのだから。
ゴミ箱が空にならなければ、忘れたくとも忘れられない。自分でも気付かぬうちに、いつの間にかボタンを押してしまっていて削除している事もあれば、忘れようと努力しているのにいつまで経ってもボタンが見つけられなくて削除できず、苦しみ続けなくてはいけない事もある。
かと思えば、自分でそのボタンを見つけられなくても、誰かが見つけて知らぬ間に楽になっていたり。
辛い思い出も、春ちゃんのお陰でもう辛くない。今の私が笑っていられるのは春ちゃんがいるから。きっと、私のメールボックスのゴミ箱を空にするボタンを、いつの間にか彼が見つけて押してくれたんだ。
気付けば、私のメールボックスは春ちゃんで一杯になっていた。
美味しいものを食べたら、彼にも食べさせたいと思い、良いことがあれば彼と共有したいと思う。似合いそうだな、好きそうだな、今何してるかな……何気ない時にも、ふっと頭の中に現れるのはいつも、春ちゃんのあたたかな笑顔。
泣いた日々もあった。無理に笑った日々もあった。辛くて、苦しくて、もがいて、自分の感情を抑えつけて、壊れてしまいそうになって。だけど、それは無駄じゃなかった。
だから、大丈夫。
怖がる事なんてない。
怖がる様な歳でも無ければ、怖がる様な相手でもない。大切で、大好きで、これからもずっと側に居たい、そんな相手だ。
もし万が一、どうにかなってしまっても、話し合えば分かり合える筈だから。
彼が信頼できる人だって、私を大切にしてくれる人だって、それを1番知っているのは私なのに。今まで、何を悩む事があったのだろう。
***
バスルームから聞こえるシャワーの音をBGM代わりに、髪や肌の手入れをする。
火照った顔に、冷たいシートマスクが気持ち良い。
律儀に畳まれたスラックスをボトム用のハンガーに吊るし、ジャケットと共にシワ取り用のスプレーを吹きかける。
洗濯機に髪を拭いて濡れたタオルを放り込み、スイッチを入れる。
簡単に床を掃除して、布団を敷き、加湿器にアロマオイルを追加する。
手持ち無沙汰になった私は、ソファの上で膝を抱えて座り、左手の指輪をそっと外してみる。
ブリリアントカットの大粒のダイヤモンドがキラキラ輝く。やや細目のリングが、その大きさをより際立たせる。
ダイヤモンドよりも、内側に刻印されたメッセージが嬉しいなんて言ったら、春ちゃんは気を悪くするだろうか?いや、そんな事はない。きっと、嬉しそうに笑ってくれるだろう。
"SHUNTARO LOVES URARA"
指先で、その小さな文字をなぞる。
彼が、私の為に、用意してくれた。
決して、私以外の人には贈られる事のない指輪。
「"SHUNTARO LOVES URARA" かぁ…」
「それ、そんなに嬉しい?」
顔を上げると目の前に満面の笑みで私の顔を覗き込む彼がいて。
「ちょっと…その格好…」
「俺ってそんなに色っぽい?」
バスタオル1枚で現れた春ちゃんに動揺してしまった私をからかうように、いつもはしない表情で隣に座る。
濡れた髪と相まって、その表情も、程よく絞られた身体も、本当に色っぽいのだから困ってしまう。
「ちょっとそれ、貸して。」
指輪を摘み、私の左手を取ると、薬指にゆっくり白金の輪を通す。
「麗は要らないって言ったけど…俺は麗に贈りたかった。笑うかもしれないけどさ、男のプライドって言うか、見栄って言うか。俺のモノだって周りに知らしめたい…とか、指輪をつけてもらう事で、麗を俺に縛りつけておきたいとか、そんな俺の我儘。麗って昔からモテるからライバル多いし…牽制の意味も込めて…。だから、結婚指輪を交換するまで、出かける時はなるべく着けていて欲しい…仕事の時は無理だろうから仕方ないけどさ…。自分で言うのも変だけど、俺、結構独占欲強いかも。」
彼の言葉は素直に嬉しい。だけど同時に、ちょっと申し訳なく思えてしまう。
「意地張って要らないって言ってごめんね。春ちゃんの気持ち、全然考えてなかった…」
「いいよ。だけど、これからはもっと俺の事考えて?」
「私の頭の中は既に春ちゃんで一杯なのに?」
「うん。特に、今からは俺の事だけ考えて…あいつの事、思い出さないで。俺の事だけ考えてたら、怖くないから…俺は麗しか見れないから…麗以外なんて考えられないから…。」
返事をする代わりに、そっとキスをして。
「麗、愛してる…」
そんな彼の言葉に酔いしれながら…。
***
お腹の辺りがくすぐったい。規則的にうなじに感じる寝息。
背後から抱きしめられるような形で眠っていたらしい。直接肌が触れ、春ちゃんの温もりが背中に、首に、足に伝わる。
私のお腹に回された彼の手をゆっくり解き、起こさないようにそっと寝返りをうつ。
至近距離で、眠る春ちゃんの顔を眺める。整った眉、意外と長い睫毛、すーっと通った形の良い鼻、ちょっぴり大きな口。どれもこれも可愛らしい。このあどけなくて無防備な寝顔を、これから何百回、何千回と見る事が出来るんだと思うと嬉しくなった。
あんなに深くて激しいキスは初めてだった。だけど、すごく優しくて、時々もれる吐息がひたすらに色っぽくて、名前を呼ばれるだけでドキドキしてしまった。
愛する人に求められる事は、こんなにも幸せな事だったなんて知らなかった。
彼の腕に抱かれ、肌に触れ、身を委ねた。
昨夜の事はあまり覚えていないけれど、ただただ温かくて、優しくて、なのに情熱的で、心地よくて、幸せで。
とても春ちゃんの事以外なんて考えられないくらい、私の全ては彼で満たされてしまっていた。
「こんなに幸せで…良いのかな?」
幸せ過ぎて不安になるなんて、なんて贅沢な事だろう。現実だって確かめたくて、左手で彼の顔に触れてみる。幻じゃない。やっぱり目の前には春ちゃんがいる。彼に触れる度、キラリと光る薬指。そして、彼の唇にそっと触れるようにキスをした。
「"URARA LOVES SHUNTARO"って事、ちゃんと覚えておいてね?」
独り言のつもりで言ったその言葉。なのに、春ちゃんの口角が上がる。
「忘れるわけないじゃん?」
「ちょっと待って…起きてたの!?」
「おはよ、麗。そんな可愛い事言われたら、俺、我慢できないんだけど?」
聞かれない前提で口にした言葉。それを聞かれていたなんて、恥ずかしくて恥ずかしくて…。しかも、春ちゃんのキャラが違う!昨日の夜からなんかエロいよ!朝から色気だだ漏れだよ!
お願いだから、いつもの爽やかな春ちゃんに戻ってよぉ…。
気付けば、いつの間にやらがっちり抱きしめられていました。嬉しいけど…今はダメ!色んなとこにキスするのも止めて欲しい。じゃないと、もう色々収集つかなくなっちゃうから!
私のそんな願いが届いたのか、春ちゃんのスマホがタイムアップを告げる。寝る前にかけていたアラームだ。急いで支度をしたら、ギリギリ一緒にコーヒーショップで朝食を取れる。
「あーあ、残念。俺としては朝食が麗でも良いんだけど?」
「ダメだって。そんな事してたら遅刻しちゃうから!」
「そんな事ってどんな事?」
「もう…いつからそんなキャラになったの?」
「昨日の夜から?…麗の言うそんな事ってどんな事かわからないけどさー。昨晩は思いっきり楽しませて頂きました。」
ちょっと意地の悪い笑顔すら大好きだ。
そんな春ちゃんも、シャワーを浴びてスーツに着替えたらいつも通りに戻ってホッと一安心。
私がプレゼントした白いカラーにブルーグレーのピンストライプのシャツを着て、ブルーグレーとブラウンのストライプに白い小さなドットの入ったネクタイを締めてくれた。サイズも彼にぴったりで、本当に良く似合う。
「昨日と同じスーツでも全然印象変わるな。」
「すごく似合うよ?」
「麗が選んだんだから似合わないわけないだろ?」
春ちゃんのその言葉に、胸を張って同調したかったけれど、照れくさかったので笑ってごまかした。
それから、近所のコーヒーショップで一緒に朝食をとって、出勤する春ちゃんを見送った。
若干イチャイチャ控えたつもりですが、十分甘いかも…。
色々と匙加減が難しいですね。




