80. 父の思惑
佐伯さんと春ちゃんに断りを入れ、電話を取るため席を立った。
父からの電話なんて珍しい。普段なら、用事があっても母経由で連絡があるのに。
近くまで来ているので、昼食でも一緒にどうか?
父からの電話はそんな内容だった。
今日は春ちゃんと一緒に式の打ち合わせをしている事を伝えると、遅くなっても構わないから2人で来るように店を指定された。
電話は素っ気なかったけれど、遅くなっても構わないから昼食を一緒に…なんてどうしたんだろう?
それに父が指定した店も気になる。
交通の便が特別悪いわけはないけれど、近くに用がない限り、わざわざという感が否めない。近くに用事でもあったのだろうか?
席に戻ると、春ちゃんと佐伯さんの様子が少しおかしい気がした。何か相談していたようにも思えたけれど、そんな事より父の件が気になったのであまり深く考えなかった。
***
「いらっしゃい!」
ガラガラと引き戸を開けると同時に、威勢の良い大将の声に迎えられる。
「麗ちゃん、久しぶりね。お父さんから聞いたわよ。本当に良かったわね、おめでとう!すっかり綺麗になっちゃって。」
「どこの綺麗なお嬢さんかと思えば麗ちゃんだったのかい。昔はいつも小春ちゃんの後ろに隠れてた小さな麗ちゃんがすっかり大人になって…そりゃ俺もジジイになるわけだ!」
「あんた何言ってるの、うちの恵と同級生なんだから当たり前でしょう?」
父に指定されたのは子どもの頃よく家族で食事していたお鮨屋さん。昔住んでいたマンションの近くで、小中学校時代の同級生の家でもある。
豪快で威勢の良い大将と、にこやかで社交的な女将さん。ここに来るのは随分久しぶりだけど、2人とも全然変わらない。
「麗ちゃん、おめでとう!麗ちゃんのお父さん、首を長くして待ってるよ。」
時々店のお手伝いをしているという同級生の恵ちゃんの案内で、父の待つ座敷へ。
恵ちゃんに会うのは数ヶ月ぶり。美咲ちゃんと倉内さんも一緒に行った花火大会の時に私を見かけたと電話をもらって、会って少し話した時以来だ。
「もしかして、花火の時に言ってた彼氏?」
恵ちゃんに春ちゃんを簡単に紹介して、今度ゆっくり会おうと言えば、恵ちゃんは「今より会いやすくなるもんね!」と、嬉しそうだ。
その意味を理解出来ずにいたら、「こっちの話だから気にしないで」なんて言われて…。
そして急かされるように、父の待つ座敷へと通されたのだった。
今日の父はいつも以上に喋らない。話があるからと呼び出されたにも関わらず、来てからずっと喋っているのは春ちゃんか私。父は相槌は打つものの一向に用件を話さない。
父が口を開いたのは、料理を8割ほど食べ進めた頃だった。
「その後、どうなったんだ?」
父からの質問は唐突で、漠然としていて、一体何を尋ねているのか分からない。
とりあえず、それらしい返答をする。
「今日の打ち合わせは、どんな招待状にするか決めてきたの。1月半ばには出来上がるから、末までに届くように郵送するつもり。」
「そうじゃなくて…住むところは決めたのか?」
「決めるなって言ったの…お父さんじゃない?」
「もちろんまだ決めてません。」
春ちゃんがそう答えると、父は満足そうな顔で鞄に手を伸ばした。
父が大きな鞄を持っているなんて珍しい。
会社勤めをしていた頃は当たり前の姿だったけれど、退職して今の家に引っ越してからは殆ど見た事がない。
そこから取り出したのは、厚みのあるファイルだった。一緒に雑誌が出てきたが、父はそれを鞄へと押し戻した。
「今貸している山田さん、家を建てるそうだ。先日、2月いっぱいで退去したいと申し出があった。」
「山田さんって…昔住んでたとこの?」
「ああ、そうだ。だからそろそろこれを麗に…と思ってな。」
父は複雑そうな顔をして、ファイルを差し出した。
「これって…」
受け取ったファイルを開いた私は驚いた。重要であろう書類がたくさん入っていて、そこに記されていたのは私の名前。
現在、以前住んでいたマンションの部屋を山田さんご家族に貸している。
家賃の振込はなぜか私の口座。あんな事があって、急に住むところがなくなったから、単に父が甘やかして援助をしてくれているのだと思っていた。なんとなく悪い気がして、手付かずになっているけれど…。
そういえば固定資産税の通知も私のところに届いたっけ。あまり深く考えず、今年もそんな時期か…程度にしか思わなかったけど…。
よく考えたら色々おかしい。
だけど、これなら辻褄が合う。
「麗のものだから、売って新しい家を買うなり、人に貸すなり、リフォームでもリノベーションでも、好きにしたら良い。」
「良いの…?」
「良いも何も…もうとっくに名義は変更してあるからな。それに小春にだって家を建てる時多少は援助している。これでまぁ平等って事にしてくれ。」
「お父さん、ありがとう…。」
「まぁ、良い思い出ばかりじゃあないから、正直渡す事を躊躇ったんだが…名義が変わっている以上、俺がどうにかする訳にもいかないから麗の良いようにしなさい。」
その後、父がポツリと呟くのを私は聞き逃さなかった。
「もし、興味があるなら部屋を見せてくれるそうだ。これから用事があって訪ねるんだが…行くか?」
どうやら父がこちらまで出て来た用事とは、山田さんの奥さんから連絡をもらっての事らしい。
浴室の換気扇が壊れてしまいどうしたら良いのか…そんな相談を受け、父が業者を手配したのだが、貸している家が色々気になるのと、山田さんのご主人が不在で奥さんだけでは大変だからという事もあり、その修理に立ち会うのだという。
それならば指定された店も納得できる。歩いて5分とかからないし、落ち着いて話せる個室もある。きっと大将や女将さんにも会いたかったのだろう。
住むにしても住まないにしても、とりあえず見学しておいて損は無いから見たい、との春ちゃんの希望で、父について行く事になった。
「麗…本当に良いのか?見たいって言ったのは俺だけど…麗が嫌なら行くのやめても良いんだぜ?」
「大丈夫。辛い事もあったけれど…私の育った家だもん。」
「なら良いけど…。」
あれ以来、私がここへ来るのは初めてだ。
嫌な事を思い出してしまうから来たくない、そう思っていた時期もあった。だけど、それ以上にここへ来る理由も機会も無かっただけ。
そもそも、博之と同棲していたのなんて、たった2年。彼が転勤してから週末だけ帰ってくるようになった期間を入れても3年。
この家は、私が小学生の頃から暮らしていたのだから、その時間はここで過ごした時間の2割にも満たない。
辛い事や嫌な事よりも、楽しかった事や嬉しかった事がたくさんあるんだから。
厳しいけれど、なんだかんだで私を可愛がって甘やかした父。マイペースでいつも優しい母。怒られたり、ケンカしたりで、泣く事もあったけれど、姉とは昔から仲良し。楽しい思い出もたくさん。
巧さんが姉と結婚したいってほぼ毎日通ってベロベロに酔わされながら父の許しを請うたのもこの家。
姉のお腹には子どもがいるから心配だって父が言うから、結婚してからしばらくは一緒に暮らした。巧さんもうちに泊まる事が多くなって、毎日賑やかで楽しかった。
すみれが産まれて、退院してやってきたのもここ。
そんな思い出がいっぱい詰まった家が他人の家になっているのはとても不思議な感じ。
「結構広いよな…南東の角部屋だから日当たりも良くて明るいし…。」
「そうなの。風もよく通るし、割と静かだし、住んでて気持ちの良いところだよ。」
「大きい公園も近いですし、子どもを育てるのにもすごく良い環境で…それに交通の便も良いですしね。私はずっとここに住みたいくらいですけど、主人は家を持つなら一軒家が良いって。」
現在の住人、山田さんの奥さんがお茶を出して下さりながら話に加わる。
私が山田さんご夫妻にお会いするのは初めて。奥さんは父の知り合いの娘さん。ご主人の急な転勤で地元に帰ってくる事になったけれど、住むところが見つからないという話を彼女のお父様から聞いた私の父が、どうせ私もいなくなるから…とここを貸したのだった。
なんでもご主人は、マンション暮らしが性に合わないらしい。もしもまた転勤があっても、単身赴任すれば良いからと、奥さんの実家近くに家を建てる事にしたそうだ。
因みにご主人曰く、矛盾しているようだが、単身赴任での寮生活は全く平気らしい。
ここに来てから双子も産まれ、今も時々来てもらって子育てを手伝ってもらっているそうだけれど、自分の実家の近くに住んで、日常的に親の手を借りたい事も大きいそうだ。
双子ちゃんは、先程見学させてもらった寝室でスヤスヤとお昼寝中。寝ていると天使だけど、起きているときは本当に大変だとも笑いながら話してくれた。
どうやら春ちゃんはすっかりここが気に入ってしまったらしい。彼女の話も熱心に耳を傾けている。
私としても、またここに住めるなら嬉しい。
***
父と別れマンションを後にする。
冬至まで半月もないこの時期は、日が暮れるのも早い。まだ5時前だというのに、イルミネーションが点灯した街の雰囲気は夜のそれに限りなく近い。
今日は中学時代の友人との約束があるという春ちゃん。今日はもうすぐさよならだ。
何か考え事でもしていたのか、先程からずっと黙っていた彼が急に口を開く。
「なぁ、麗はどうしたい?」
目的語が抜けている質問だが、今日の出来事を考えればそれは明確。
そして、おそらく彼の中で答えは出ているのだろう。
それに私が無理に合わせる必要もないし、無理に合わせようとも思っていない。それはきっと彼も望んでいない事で、彼がすごく気にしている事。
おそらく、彼の答えと私の希望は大きくは違わない。根本的に同じだと思う。
「えっと…家の事?」
「そう、家の事。」
「…売りたくは…無いかな。」
「そっか。」
「…あの家に人が住んでるの、すごく不思議な感じだった。だから、貸すのもちょっと…ね?」
「なんかわかる気がする。俺も、実家の自分の部屋が物置になってただけで結構ショックだったし。」
そんなのと一緒にしたら失礼か…と春ちゃんは笑う。だけど、多分そんな感じだ。
「春ちゃんさえ良ければ…住みたい、かな。」
「俺も麗さえ良ければ、あそこが良いな。だけど…麗が嫌な事思い出すのは嫌だ。」
「多分大丈夫。」
「多分?」
「春ちゃんと一緒だから大丈夫。」
「本当に?無理してない?」
「無理はしてないよ。だけど、せっかくだしリノベーションしない?もう全然別の場所みたいになるように。私もそうだけど…春ちゃんだって、そのままは抵抗あるよね。」
春ちゃんは、少し気まずそうに苦笑して言った。
「全然平気…とは言えないな。確かに麗の言う通りだよ。」
「でしょう?色々ガタがきてるはずだから、良い機会だと思うの。当初はね、山田さんに貸す前にリフォームって話もあった。だけど、私の引越しと、山田さんの入居希望日が近くてそのままになっちゃってたんだよね。」
「だけど…良いのか?お父さん、ボソッと言ってたじゃん…思い出の場所だから出来れば残したいって。」
「きっと大丈夫だよ。そっくりそのまま残しておきたいってわけじゃないと思う。私、父の鞄の中に気になるもの見つけちゃったんだよね。」
父の鞄のファイルの奥にチラリと見えた雑誌。それはリノベーションを特集した物だった。それに、恵ちゃんが「会いやすくなる」と言ったのは、私があの家に住む事になったら実家暮らしの彼女とはご近所になるという事。そんな言葉が出るという事はつまり、私達が到着する前に父が大将や恵ちゃんとそんな話をしていたという事だ。
「父もそうして欲しいって事でしょう?」
「じゃあ、決定だな!」
「うん、決定だね。」
「そしたら善は急げ、だ。麗、この後時間あるか?専門家に相談しに行こうぜ?」
「あるけど…春ちゃん、お友達と会う約束してるって…約束までもう30分無いよ?」
「それは全く問題無い!」
心配する私をよそに、春ちゃんは不敵な笑みを浮かべた。




