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69. 帰り道

 予定よりも随分帰りが早くなったので、途中、両親の家に顔を出して帰る事にした。

 牧場からもそんなに遠くないし、帰りの方向と一緒なのでちょっとした寄り道感覚。突然の訪問にも関わらず、父も母も嬉しそうな顔で迎えてくれ、お土産を渡して帰るつもりが夕食まで一緒に食べる事になった。




「帰りは麗が運転して帰ればいいだろう?」

「あなたが飲ませるとその程度じゃ済まないでしょう?明日は2人共お仕事なんだからやめて下さい。それとも浅井くんにお仕事休ませる気ですか?」


 春ちゃんと一緒に飲みたくて仕方なさそうな父だったが、母に諌められ、渋々1人で飲み始める。一瞬、安堵の表情を浮かべた春ちゃんに思わず私と母は笑ってしまった。


 電話では報告しているが、式場の事や結納の事、婚約指輪の代わりに腕時計を買った事などを改めて両親に報告をする。

 終始笑顔の父と、気になった事はすぐに尋ねてくる母。母の質問に答える春ちゃんの話を、父も平然を装いながらも熱心に耳を傾けていた。






 ***


「春ちゃん、話があるの。」


 翌日のことがあるので、早めに両親の家を後にする。出発した頃はまだ明るかったはずの空も、いつの間にかすっかり日は沈み星が輝いている。

 一定の間隔でオレンジがかった光に照らされる穏やかな横顔。

 表情は変わっていないはず。なのに、同じ間隔で闇に包まれた途端、その横顔は物憂げに見える。


 私は意を決して彼に切り出した。このまま逃げ続けたら、きっと不安が現実になってしまうだろう。


 彼を傷付けたくない。


 貴子の後押しがあったのがやはり大きいけれど、言わない方が心配だと、暗に言われていた事に気付かされた事が1番の動機だった。

 春ちゃんから伝わってくる緊張感。もしかしたら私のそれが伝染したのかもしれない。


「付き合う前にさ、アボカドのハンバーガー食べた時に話した事覚えてる?」


 春ちゃんは、正面を向いたまま、小さな声で、ため息混じりに「あぁ…」と答えた。


「今でも、不安で…『吐き気がする』までとはいかないけれど…怖いよ…。結局ね、浮気される原因は私にもあったんだ。私じゃ満足させられなかったんだよね。」


 春ちゃんは無言だった。こんな話、聞かされて気分が良いわけ無い。苦虫を噛み潰した様な、眉間にくっきりと縦皺を刻んだ、普段見た事のない春ちゃんの表情に胸が痛む。

 だけれど、ちゃんと伝えなくちゃ前には進めない。


「別に、それはもう済んだことだから良いんだ…。だけど、何が怖いって、春ちゃんにもそう思われたらどうしよう…って事。そんな雰囲気になった時、不安になって拒んでしまって春ちゃんを傷付けてしまったらどうしよう…って事。実際、ディープキスだけで怖くなっちゃった。それに……自分で気付くのと、当事者に聞かされるのはやっぱり…。きっと貴子から聞いてるよね。私があの日、飲み過ぎた理由。」


 声が震える。泣きたくない。泣きたくない一心で、私は無自覚のうちに笑っていたらしい。耳に入る、私の乾いた笑い声。白々しくて、軽薄で、不快なそれに自分でも嫌気が差す。


「笑うなよ。すげぇ気分悪い。」


 自分ですら不快感を覚えるのに、聞いている彼がそう感じない訳はない。冷たく言い放たれたそんな一言が、心臓を抉るようだったけれど不思議と涙はこぼれなかった。

 ただ、彼の気分を害してしまった罪悪感と、怒らせてしまった心苦しさでいっぱいになる。


「あいつと一緒にするなよ。覚えてたよ、麗がそういう事に嫌悪感持ってた事くらい。それに、あいつにどんな酷い事されたかだって聞いてたよ。あの日、酒が弱くないはずのお前が、あんなになるまで飲んだ理由だって知ってた。だから、苦しそうな顔を見る度、辛かった。話して欲しかったけれど、気軽に話せない内容だって理解してたから仕方ないと思った。だから、こうして話してくれたのは素直に嬉しいよ。俺に言うのだって覚悟が必要だっただろう?でもさ、何で笑うんだよ?笑う必要ないだろう?なんでそんなに自分を傷付けるわけ?苦しかったら笑うなよ、素直に泣けよ!笑った方が良いって言ったけどさ…そういう意味じゃねぇよ。バカじゃねぇの。」


 運転中だから仕方ない…そう自分に言い聞かせる。

 私の方を見ようともせず、吐き捨てる様な彼の言葉にショックを受ける。いや、私がショックだなど言う資格などあるはずもない。


 何も言い返せない私と、普段とはまるで様子の違う彼。

 沈黙が続くから重い空気が漂うのか、重い空気が漂うから沈黙が続くのか。

 言葉はもちろん、ため息も涙も出ない。ただ、息を殺してうつむくだけ。




 どのくらいそんな時間が流れただろう。

 カチカチと聞こえる短いウィンカーの音と、私の身体に僅かにかかる遠心力に気付いた少し後、車は停車した。


「ちょっとお互い落ち着こう。コーヒー買いに行くけど…どうする?」

「私も…行く。」


 外の空気が吸いたかった。それに、ずっと気が張っていたせいか喉がカラカラだった。

 いつもの、とまではいかないものの、先程と比べたら随分穏やかな彼の声に少しホッとした事もあり、私は車を降りた。




 連休最終日の夜9時過ぎともなれば、人もそんなに多くない。ましてや、サービスエリアに隣接した遊歩道に少し入ったところに設置されたベンチの周りには人気(ひとけ)などない。

 話の続きをしようにも、車に戻っては息が詰まってしまいそうだった。きっと同じ事を考えていたのだろう。アイスコーヒーを手に、私達の足は自然とベンチに向かっていた。


 街灯だけでなく、月が照らしているせいか意外と明るい。


 ベンチに腰を下ろし、よく冷えたコーヒーを口に含む。コーヒーとはこんなにも苦い飲み物だっただろうか?

 想像以上の苦さに少し戸惑いながら飲み込むと、ふぅ…とおもわずため息がもれてしまう。それとほぼ同時に聞こえた、私以外のため息。驚いてそちらを向けば、同じように驚いた春ちゃんと目が合った。


「さっきは言い過ぎた…。ごめん。」

「私こそ嫌な気分にさせてごめんね。」


 目が合ったものの、なんだか気不味くてついそらしてしまう。すると、すぐに彼の両手が私の頬を包み、顔を彼の方へと向けられた。


「ちゃんと顔見て聞いて欲しい。」


 私が頷くと、頬から手が離れる。


「キスした時に麗が固まった事、気付いてた。その時じゃなくて、後からだけど…。セックスに不安感とか嫌悪感を抱くのだって…あんな事があったら仕方ないと思うし、それを俺なりに理解していたつもり。だから、夜は極力麗の家に上がらないようにしてた。麗からのキスするのをやめて欲しいって言ったのもそう。不意打ちでキスなんてされたら、歯止めがきかなくなりそうだった。俺だって健全な男だし、麗はすげぇ魅力的だし、麗の事…だ…大好きだから…麗に…ふ…触れたいとか、ほ…欲しいと思ってしまうわけで…。だけど、そんな事して麗を傷付けるくらいなら、いくらでも我慢するし…現状、手をつなぐとか、抱きしめるとか、普通のキスで満足だし…。もう、いっそ俺の隣で心の底から笑ってくれさえすればそれで十分だから。だけど、あの日は、結婚を許してもらえたのが嬉しくて俺もどうにかしてて…本っ当に悪かった。不安にさせてごめん!」


 しばらく頭を下げ続ける春ちゃん。顔を上げて欲しいと言ってもなかなか上げてくれないので、私も彼がしたように、両手で彼の頬を包み込み、強引に顔を上げさせた。そして、そっとキスをした。

 久しぶりのキスは、ほんのり苦かったけれど、柔らかくて、私を幸せな気持ちにしてくれた。


「ありがとう。」


 自然と笑みがこぼれる。

 私が思っていた以上に、春ちゃんは私の事を考えていてくれたことが、ちゃんと私を見ていてくれたことが嬉しかった。

 さっき、すごく怒っていたのも、私を思っていてくれたからこそなんだって、頭ではわかっていたけれど、今、やっと実感できた気がする。そしたら、不思議と後ろめたさも何処かへ行ってしまった。


「だから、麗からキスするのは反則だって。そんなことしたら襲うぞ?」

「春ちゃんはそんな事しないって信じてるよ?」


 赤い顔で、慌てる春ちゃんを見たのは久しぶりだった。相変わらず可愛い。思わず、からかいたくなってしまう程に。


「言っとくけど、俺は巨乳は好きじゃないからな!それと、あいつと一緒にするなよ?他に手を出すほど飢えてないし、そんな事出来るほどマメでも器用でもないぞ?それ以前に、麗意外に興味は無い!…なのにさ、さっきみたいなこと言われたら正直傷付くから。だけど、麗にそういう事拒否されたとしてもそう簡単に傷付かねぇし…。って、言ってる事ややこしいな。要するに、麗の事1番に考えてるから、俺を信じろ!って事。覚えとけよ?」


 春ちゃんの顔は、更に真っ赤になる。確かに、言ってる内容を考えたら恥ずかしい内容だ。聞いている私としても、それはとても恥ずかしい内容だけど、それ以上に嬉しい告白。


「おい、麗?泣いてるのか?泣くなって…本当によく泣くよな…ほら、笑えって。」


 春ちゃんに言われたら事が嬉しくて、普段の調子に戻った春ちゃんに安堵して、涙が止まらなくなってしまった。ついさっきまで不思議なくらい涙なんて出る気がしなかったのに。


「なんか俺、自分勝手だな。さっきは笑うなとか、泣けって言ったくせにさ。今は泣くなとか笑えなんてさ。」


 春ちゃんは私の涙を拭くと、優しく抱きしめてくれた。


「もっと自分に正直で良いんだよ。無理しなくて良いんだよ。じゃないと疲れてしまうだろ?俺は、良いところも悪いところも全て引っくるめて麗の事……」


 のぼせて倒れてしまいそうだ。これが漫画やアニメなら、間違いなく鼻血を出して倒れるシーンだ。


 さっきまでの口調は照れ隠しだったのだろう。ちょっぴり戯けつつ、勢いに任せているのを全面に出したような調子で喋っていたのに…。


 突然、真面目な雰囲気に変わって、しかも穏やかなトーンになって耳元で囁かれた甘い声にクラクラしてしまう。


「麗の事…愛してるから…。」

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