59. 彼女が抱えていたもの(春太郎視点)
『今日の帰り、時間作れる?』
昼休み、受信した中村からのメール。
そのメールに、即返信する。すると、間髪入れず、立て続けにメールを2件受信する。
『こないだ、麗を送った後、浅井くんがこーすけ達と飲んだ店に19:30で。』
『中村で予約済み。この前も話したけど、今日の事は麗には内緒でお願いします。もちろんこーすけ達にも…。』
***
約束の時間の5分前に店に到着し、少し早いが予約した中村の名前を店員に告げる。すると案内されたのは店の奥まったところに設けられた半個室のような席だった。
間接照明のみで薄暗い店内はなかなか雰囲気がある。先日康介達と来た時には酒が回っていたし、男5人だったせいかあまりムーディな雰囲気を感じることはなかったが、こうして1人、店内の様子を眺めていると、モテる奴はこういうところで女の子を口説くんだろうな…とか考えてしまう。
モテる奴…で俺の頭の中に思い浮かんだのは倉内、そして博之だった。
先日、康介、委員長、オガちゃん、長谷川に聞いた博之の話は酷いものだった。
少なくとも、俺の知っている彼とは遠くかけ離れていたし、皆が麗には聞かせられないと言っていたのはもっともだと思わざるを得なかった。
浮気の常習、麗に対する不満、暴言。
しまいには自分の蒔いた種で起こってしまった事だというのに、自分のやってきたことを棚に上げ、逆ギレした挙句、不本意だとか、自分には麗しかいないだとか、麗以外と結婚する気は無いだとか言う始末だったらしい。
その中には麗から聞いていた、浮気相手…つまり今の奥さんを堕胎させてでも麗とやり直したい…そんな話もあった。
改めて聞いても背筋に寒気が走る。むしろ、麗の口から聞いた時よりも生々しく、不快だった。
そんな話を聞いた直後、中村から康介にかかってきた電話を代わった時、何とも言えぬ不安感に襲われた。
中村は、自分が飲ませすぎたと笑ってごまかしていたが、彼女の目は笑っておらず、それが余計に不安を煽る。
本当ならば、麗を家まで送った後、朝まで俺が側にいたかった。
だが、中村の有無を言わさぬ口調と眼光に、麗を彼女に託すことにした。俺以上に、麗の事をよく知っていて、麗の理解者である中村に任せるべきだとの俺なりの判断だった。
間違いなく、あの日、麗には何かあったのだ。それを知らない俺よりも、知っている中村の方が麗は安心なのではなかろうか。
案の定、何があったか尋ねれば「長くなるから後日話す」と言われ、こうして今、中村を待っている訳なのだが……一体麗に何があったのだろうか?
高校時代、麗に彼氏がいなかったのは、彼女が博之へ一途に思いを寄せていたという事や、巧さんを麗の彼氏だと皆が誤解していた事が大きいが、それ以上に中村の存在が大きかったらしい。
俺は知らなかった…というか気付かなかったが、中村は裏で『番犬』だとか、『害虫駆除』だとか、『お父さん』とか揶揄されていたらしい。
麗に近づく男を寄せ付けない、近づこうとする悪い虫を退治する、まるで父親の様な威圧感を放っている…そんなイメージを持たれていたらしい。
「あいつ自身、自分が男だったら麗と付き合いたい、結婚したいって何度も言ってたからな…。」
そう康介も言っていたし、他の3人も、例に漏れず、当時中村に恋愛相談して一蹴されていたらしい。恐るべし、中村。
「ごめん、帰り際上司につかまって…こっちから時間指定してたのに申し訳ない。」
そう言って中村がやってきたのは約束の時間を20分程過ぎた頃だった。
「構わないよ。で、早速だけど…あの日何があった?」
「本当に早速だね…。まぁとりあえず1杯飲ませてよ。ちょっと素面では話しにくい内容だし…。こんな奥まった席、わざわざ指定して予約した程…にね。浅井くんも、心の準備しといて。あ、でも酔って暴れるとか感情がコントロールできなくなるタイプなら飲まないでくれる?」
「暴れないし、感情がコントロール出来なくなるまで飲むつもりねぇよ。…そんな事言われるとなんか聞くの怖いな…。」
「まぁ、知らない方が幸せっちゃ幸せかも。怖いならやめとく?それなら2〜3のお願いっていうか忠告で終わりにするけど。」
「いや、聞くよ。聞かないと後悔すると思う。」
「きっと聞いても後悔すると思うよ。それでも聞く覚悟はある?」
「あぁ。聞かないで後悔するなら聞いて後悔した方が良い。」
やたらと勿体振る中村が正直怖かったが、これも麗の為だと腹をくくる。そもそも、中村と会うことは麗には内緒にして欲しいという時点で、悪い話である事は想像するに容易い。
あまりアルコールの強くないものが良いだろうと思い、俺はジントニックを注文。
中村はモヒート、それから料理を数品注文した。
ドリンクはあっという間に出てきた。中村は喉が渇いていたのか一気に飲み干すと2杯目にドライマティーニを注文していた。…ドライマティーニって…随分男前だな…。
「こないだは、2人のデート邪魔してゴメンね。麗が心配でさ…前日に色々聞いてたから。…とか言って私が失言しちゃったりもしたんだけど。」
あの日、確かに中村の言動は不自然だった。やたら麗の顔色を伺うというか、俺と麗の会話に無理やり入ってくるとか…。
正直、旅行の件は邪魔が入った…と一瞬思ってしまったが、なんとなく表情の曇った麗と強引な中村の様子に何かあるのだろうな…と思わざるを得なかった。
「温泉の話もそうだったんだろ?」
中村は苦笑した。
「やっぱ気付くよね…。その事なんだけど、麗と浅井くん、康介と舞ちゃん、彩ちゃん、私と旦那の7人で行く事になりそう。啓のとこはゆかりちゃん悪阻が重いからやめとくって。みどりちゃんの時もずっとだったみたいだし、温泉って滑ったり危ないからね。それに妊婦NGな温泉もあるし。部屋も男女別で2部屋ね。申し訳ないけど…。」
「残念だけど、構わないよ。それはそれで楽しそうだし。で、こないだ何があった?」
中村は、ドライマティーニを一口飲むと溜息を吐く。そして、一瞬眉間に皺を寄せてから話し始めた。
「あの日、麗に聞かせたくなくて黙ってた話をさ、最悪の形で聞かせてしまったんだよね。」
「それってもしかして…」
「そう。浅井くんがこーすけ達から聞いた話。」
「最悪の形…って?」
「あの日、男女分かれた後、こっちは6人で飲んだんだよ。偶然、近くに知り合いがいて、相席したら私達4人が離れずに飲めるから一緒に飲まないか?って。苗字忘れたけど…同じ高校で3年の時4組だった美希と美穂子って覚えてないかな?」
「悪りぃ…わからん。」
2人の名前を聞いたがさっぱりわからなかった。
「雪子と奈津子とよくツルんでた、ソフトテニス部のギャル2人組って言ったら?」
「あぁ、わかった。ヤマンバ手前くらいだった派手な2人な。今も黒いのか?」
「ヤマンバは言い過ぎでしょ…確かに黒かったけど…。今はもうそこまでじゃないよ。焼いてるっていうより地黒って程度。」
その2人なら覚えている。とにかく目立っていた。主に悪い意味で。軟式テニス部(略して軟テ)の彼女達が、硬式テニス部(略して硬テ)が練習している近くでギャーギャー騒いでいるのが非常に迷惑だった。硬テの女子部員とトラブルも多かったらしい。
夏休みには、硬テの大会に2人が応援に来たものの、顧問に「そんな格好で応援に来られては迷惑だ」と追い返されていたり、正直印象は悪い。裏で密かに「原住民」なんてあだ名が付けられてしまう程、硬テ部員から敬遠されていた。
「なんでそいつらが関係あるんだ?」
「初めはね、普通に飲んでたんだよ。…ただ、あの2人、麗の事あんまりよく思っていなかった…って言うか、妬んでたんだと思う。1人が博之の事が好きだったみたいで、もう1人がどうも浅井くんに興味があったらしいんだよね。それで、麗が浅井くんと結婚するって話が出た途端、悪意とか害意丸出しな感じで…変なこと聞いて…。」
「変な事?」
「麗に、博之と浅井くんならぶっちゃけどっちが上手いの?って。つまり、どちらの方がエッチ上手か…って。」
思わず、口に含んでいたジントニックを噴き出しそうになる。それを必死にこらえ、無理やり飲み込んだら思いっきり咽せてしまった。
「最低だな。」
そう吐き捨てるのが精一杯の俺。しかし、中村の口からは想像を超える事実が告げられる。
「それはまだ序の口だったの。麗が呆気に取られてたら、『冬田くんはめっちゃ上手いから、浅井くんはどうなのか興味がある』って…」
「いや、それ意味わからんし…。だいたい博之が……ってまさか…」
「そう。そのまさか。そこから博之と寝ただの、浮気相手は自分だけじゃなかっただの、そりゃ酷かったよ。ここぞとばかりに麗に嫌味言ってさ…博之が麗の事、こう言ってたとか、ああ言ってた…とか笑いながら言うんだから…。」
「まさか…身体の相性が悪い…とか?」
「そう。博之は巨乳好きとか、麗じゃ物足りないとか、それが麗と博之が同棲してた頃の話だ…とか。」
開いた口がふさがらない。一体麗はどんな気持ちで聞いていたのだろうか…。
「なんでそんな話をするのか理解に苦しむでしょ?麗はさ、ずっとニコニコ笑ってた。あんな怖い笑顔初めて。しまいには『色々教えてくれてありがとう』って。そんな麗が面白くなかったのか、その直後、博之と浮気してた方は不機嫌そうにして、もう1人が慌てて連れて店を出て行ったんだけど…。」
中村はバッグからハンカチを取り出し、目頭を押さえていた。
「その後はこっちまで辛くなっちゃって。麗に、ぱぁっと飲んで忘れようって提案したの。だけど忘れられるわけ無いよね。もともと、あの子、博之に劣等感とかコンプレックス植えつけられれるんだよ。付き合ってるうちは良かったんだけどね…言いたいことは何でも話して良い関係を…って感じだったし。麗は、博之にすごく大事にされてるんだって本人も私達も思ってたもん。だけどね…ああなってしまった以上そうは思えないよね。……セックス恐怖症っていうか…嫌悪感とか不安感で…トラウマになっちゃったみたい。当時の博之にとっては冗談のつもりで、当時の麗には愛情の裏返しって思えた事でも…あんな別れ方した後だよ?今の麗にとってはとても冗談には思えないよね。あんな事思い出したら…自信なくすよ…それを今になって浮気相手に色々言われて…当時、努力もしてたのに…ベロベロに酔わされてから…とかリクエストにも応じてたみたいだし。確かに酔った麗は可愛いけどさ…悪趣味だよね。あの日以来、努力の意味無かったんだって余計に自信無くしてる。」
「そこまで酷かったのかよ…。」
頭を抱えてしまった。酷い…酷すぎる。今となってはもう遅いが、あの時、男女に分かれて飲むべきではなかった…。麗の側を離れるべきではなかった…。
「ここから大事なことね。あの子にとって、博之が知り合いと浮気してたとか、浮気相手が複数いたって事はもうどうでも良いことらしいのよ。麗が今悩んでるのは…浅井くんとの事なんだよ……」
「俺との事…?」
残念ながら、俺には中村が言っていることがよくわからなかった。




