46. 念願の…
床から伝わる振動で目が覚めた。
壁に掛けられた時計を見れば、「おはよう」ではなく「こんにちは」と挨拶するような時間。
慌てて、振動の元であろうスマホを探す。音が鳴らず、これだけ長く振動しているという事は、おそらく着信だ。
布団から少し離れたフローリングの床に落ちていたスマホに手を伸ばした瞬間、振動が止まってしまった。
拾い上げ、画面をチェックすると母からだった。気づかなかったが、着信は1度や2度ではない。1番初めの着信は約1時間前。1時間で10回もかけてくるなんて何かあったのだろうか?
すぐに、折り返し電話をかける。呼び出し音が3回ほど聞こえたところで母は電話を取った。
「もしもし?麗?」
なんだか母の様子がおかしい。普段は落ち着いた声の母の声とは随分時違う。声がうわずっているというか、興奮気味というか…。でも、気が動転しているとかそんな雰囲気ではない。
「お母さん?どうしたの?何かあったの?」
「麗、おめでとう!」
状況が飲み込めず、黙り込んだ私。
「麗、聞いてるの?おめでとう!あと30分もすれば浅井くんは着くわよ?寝ていたなら早く布団を片付けて支度なさいな。」
「お母さん?泣いてるの?」
ハイテンションな上、母は涙声だった。
もしかして…もしかする!?
「嬉しかったら涙くらい出るでしょう?ほら、早く支度しなくちゃ浅井くんを待たせるわ。待たせたら可哀想でしょう。」
「お母さん、もしかして…お父さんが許してくれたの?」
「それは浅井くんから聞きなさい。待たせちゃダメよ。ほら、支度して。じゃあ電話切るわね。」
そのまま電話は切れてしまった。
なんだか変な感じだ。もしそうならばすごく嬉しい。でも実感がわかないというか、信じ難いというか…まるで夢みたい、そんな感覚。とにかく、もうすぐ春ちゃんが来てしまう。早く支度をしなくちゃ…。
慌てて布団をたたみ、先日買ったばかりのワンピースに着替える。髪を整えて、顔を洗って、いつもよりもちょっぴりだけ念入りにメイクをして…。
春ちゃんのプレゼントのピアスと、普段はつけない香水をほんのすこしだけつけてみる。
支度を終えたところで、簡単に床を掃除する。それも終えて手を洗っているとインターホンが鳴った。
モニター越しの春ちゃんの顔を見た途端、心臓が高鳴る。なんだか目頭まで熱くなってきた。
先程の母の電話はどう考えたって、そういう事だ。
再度、インターホンが鳴り、玄関のドアを開けると、そこにはすごく嬉しそうな顔でニッコリ笑う春ちゃんが立っていた。
そんな春ちゃんを見た途端、堪えていた涙がとめどなく流れてしまった。
「春ちゃん…」
思わず抱きついてしまった私を、彼は優しく抱きしめてくれた。
「ほら、もう泣くなって。立ち話も微妙だろ?これからどうする?」
しばらく抱きしめてくれ、私が落ち着いたのを確認してから、穏やかな声で春ちゃんは尋ねた。そんな彼を私は家の中へ招き入れ、水出しのアールグレイに氷をたっぷり入れて出す。
「何か話があるんでしょ?早く聞きたいな。」
「さっきの様子だとかほりさんに聞いてたんだろ?」
ちょっと残念そうな春ちゃん。だけど、私は母からの電話が無かったら今も寝ていたかもしれない。
「お母さんに電話はもらったけれど、『おめでとう』としか聞いてないよ?何が『おめでとう』なの?」
私がそう言うと、春ちゃんは苦笑した後、すぐに嬉しそうに口を開いた。
「『来週は土曜の夜、予定がある。だから日曜に麗を連れてこい。』…今朝、麗のお父さんにそう言われたよ。かほりさんの意訳によると…結婚を前提にした付き合いを認めてくれる、って。麗、俺やったよ!許してもらったんだよ!来週の日曜、一緒に挨拶に…結婚の申し込みに行こう。」
「春ちゃん…本当に今までありがとう…大変だったよね…」
「だからもう泣くなって。良い事なんだから笑わなきゃ。それに泣いてばっかじゃ化粧崩れるぞ?」
感極まってまた涙が溢れてしまった私に、笑顔で春ちゃんは言った。
もしかして泣いてパンダ目になっちゃった?
「ごめん、ちょっとお化粧直してく……え…?」
メイクを直そうとソファから立ち上がった私だったけれど、春ちゃんに手首を掴まれて、引き戻され抱きしめられてしまう。
不意打ちに弱い私。ドキドキが止まらない。
「まだ崩れてないし、麗はたとえ化粧が崩れても可愛いから大丈夫。それにせっかく会えたんだし…離れたくない…なんて。」
耳元でそんな言葉を囁かれては、もうダメだ。脈はどんどん速くなるし、耳まで熱い。
「麗…結婚しよう。式は…麗の誕生日に挙げよう。」
「春ちゃん…」
「だから泣くなって。」
「だって…嬉しいんだもん…。泣き虫な私ですが…よろしくお願いします…。」
「一緒に幸せになろうな。」
涙を見せたくなくて、春ちゃんに再び抱きついた私。優しく頭を撫でてくれる大きな手が心地良い。
「なんか麗…いい匂いする…。」
首筋に触れる唇。なんか春ちゃんの声がやたらと色っぽく聞こえるのは気のせいでしょうか…?
抱きしめられた腕が緩んだと思ったら、今度は肩に手を置かれ、優しく触れるキスを1回、2回…って3回目は触れるだけじゃない…?ちょっと待って…心の準備が…と思いつつも嬉しくて、それに素直に応じてしまっている私もいるわけで…。
だけど、もしこのままそんな雰囲気になってしまったら…嫌な事を思い出してしまいそうで怖い…どうしよう…こんな真昼間からさすがにそうはならないよね…?
思わず不安で体が強張ってしまう。それを不覚にも春ちゃんに気付かれてしまったらしく、触れていた唇が離れる。
そんな真っ直ぐな瞳で見つめないで欲しい。そんな瞳で見つめられたら、心の中を見透かされてしまいそうだから…。
「麗、どうした?」
春ちゃんの顔は少し不安そうだった。彼を傷つけてしまっていたらどうしよう…。
ピンポーン…
その時、インターホンが鳴った。
「ごめん、ちょっと行ってきます。」
立ち上がり、玄関に向かいドアを開け、荷物を受け取る。他の部屋にも配達があったのだろう。鳴らされたのはエントランスからではなく、部屋の前のインターホンだった。
「ごめんね、少し前にネットで注文した本が届いたの。」
「俺こそごめん。そこまで人が来てるのに全然気づかなかった。」
恥ずかしそうに笑う春ちゃんの顔からは不安そうな様子は消えていた。どうやら、私が固まったのは人の気配を感じたからだと誤解してくれたらしい。
「ねぇ、お腹減っちゃった。ゴハン食べに行かない?」
これ以上、この会話をしたくなかった私は食事に出かけることを笑顔で提案した。
なんだか後ろめたい気もしたけれど、もう1度深いキスをされてしまったら今度はもっと分かりやすく拒絶してしまいそうな自分が怖かった。かと言って、不安な気持ちを春ちゃんに打ち明けるのも気が引ける。
「そうだな、もう昼過ぎだし…何食べたい?行きたいところあれば車ももちろん出すし。」
「色々話したい事もあるし、ゆっくり話が出来るところが良いな。」
「じゃあついでにドライブでもしようか?」
そんな春ちゃんの提案に甘え、車で出かけることになった。
***
「昨日ね、フロアチーフと瀬田さんと飲んだの。それで、結婚したら仕事はどうするかって話になって…。私、そういう事今まで全く考えてなかった事に気付いたんだけど…。」
「今朝までいつ出来るか全く見通しがつかなかったもんな。で、麗の希望は?」
「結婚しても仕事はしたいなぁ…とは思っているけど、色々迷ってる…。」
「具体的にはどう迷ってる?」
「今の仕事を今のまま続けたい気もするんだけど…生活のリズムが違うからどうなのかな?って思うんだよね…。春ちゃんの希望は?」
「俺としては麗のしたいようにするのが良いと思うし、出来る限りの協力はするよ。」
「ありがとう…。」
「まぁ、今すぐ結論を出す事もないだろ?ゆっくり考えれば良いよ。…とは言え、早く一緒になりたいな。いつ籍入れようか?式はどんなとこで挙げたい?新婚旅行はどこが良いかな?どこに住もうか?どんな指輪が欲しい?」
「春ちゃん、そんないっぺんに言われても答えられないよ…。」
私のしたいようにするのが良いとか、ゆっくり考えれば良いと言ってもらえたのは嬉しかった。でも、それ以上に、早く一緒になりたいとか、いつ籍入れようか?と話す春ちゃんの嬉しそうな顔が嬉しい。
「じゃあ、どんなとこで式を挙げたい?」
「春ちゃんの挙げたいところ。」
「籍はいつ入れる?」
「覚えやすい日が良いなぁ…。」
「じゃあ1月1日とか?」
「なんかおめでたくていいね!春ちゃんっぽい。」
「なんだよ?それ。じゃあ新婚旅行はどうする?」
「行ってみたい所はたくさんあるよ。でも新婚旅行は1回キリだからなぁ…フランス?イタリア?ドイツ?スペイン?北欧も良いよね…タヒチとか、南国も捨てがたいし…それにカナダにも行ってみたい。前に留学してた時の事話してくれたでしょ?」
「どこ行くかはゆっくり考えようぜ?じゃあ新居は?どこに住む?因みに、うちの親との同居はないぞ?俺が結婚する時は実家出る事になってる。そのうち秀治夫婦が同居する約束だからな。」
「春ちゃんと一緒ならどこでも良いけど…やっぱり通勤に便利な所が良いよね。」
「いっそ麗のとこに俺が転がり込もうか?」
「狭いでしょ?単身者用だよ?」
「良いじゃん、狭いほうが近くにいられるし…ってさすがに無理か。契約上の問題もあるしな。じゃあさ、どんな婚約指輪が欲しい?結婚指輪は?」
「……婚約指輪はいらない。結婚指輪は2人でゆっくり選びたい…かな?」
「……婚約指輪いらないの?」
「…うん。」
「やっぱり前の事があるから?」
私は黙って頷いた。
そして、言おうかどうか迷ったけれど、思っていることを伝える事にした。
「前回ってさ、式場も、ドレスも、指輪も…私が物凄くこだわっちゃったんだよね。一応向こうの意見も聞いていたけど、ほぼ私のワガママを通しちゃったみたいな所があるし…。それでダメになっちゃってるでしょ?なんだか縁起が悪い気がしちゃって…。だから同じ事はしたくない…っていうか、春ちゃんの好みに合わせて、春ちゃんっぽい式にしたいなぁ…なんて思ってるんだけど…。」
「なんだよ?麗は俺色に染まりたいって事か?」
今の春ちゃんの言葉を文字に起こしたら、間違いなく語尾に(笑)とか www ってついているはずだ。
気を悪くしかねない私の発言にさえ、ユーモアを交えて笑い飛ばしてくれる。しかもそのユーモアが嬉しいような恥ずかしいような…。恥ずかしいけど、それに乗りたい、そんな気分。
「そうそう、染まりたいって事だよ?」
「よし、任しとけ!」
私と春ちゃんは顔を見合わせて笑った。
そんな春ちゃんになら思わずごまかしてしまった不安も話せる気がする。
だからと言って今すぐに言う勇気はないけれど、なるべく早く打ち明けよう、私はそう決めた。




