30. 予想外のお客様
「すみません…19時に重里で個室をお願いしているのですが…。」
「いらっしゃいませ…お待ちしておりました…。」
19時ジャストにご来店されて予約をしている事を申し出られたお客様と私はお互い顔を見合わせて驚いてしまっていた。
春ちゃんの同期で先日ランチをご馳走になった倉内さんだったのだ。よく見れば、ご来店されたお客様のうち、倉内さんを含め4人は知った顔。出来たら会いたくなかった野沢さんと、なぜかそれ以上に会いたくない常連のお客様がご一緒だった。
「失礼ですが、本日、重里様はいらっしゃらないのですか?」
「ええ。急な用事が入りまして。」
お互いどうにか状況を把握した倉内さんと私。
出来たら野沢さんと会いたくなかったとは言え、色々驚いてしまったせいか、あの日の光景が脳裏をよぎる事はなかった。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、彼女以上に会いたくなかったお客様に声をかけられる。
「最近見かけないから辞めてしまったものだと思っていたんだが…また今日会えて嬉しいなぁ。」
いやらしい笑みを浮かべながら立川様はそう言った。
「本当にお久しぶりでございます。」
笑顔を繕ってその一言を口にするのが精一杯な私を見て、立川様の秘書の男性が苦笑している。
立川様は、接客する度に愛人のお誘いを受けていたお客様。その都度丁重にお断りしていたものの、なかなか諦めて頂けず、彼の秘書にさえ「毎回申し訳ない」とこっそり頭を下げられていた。来店は必ず予約してからなのはきっと彼なりの気遣いなのだろう。
月に1度程度ご来店される際には私と極力顔を合わせないように支配人やフロアチーフが配慮して下さる程のしつこさだ。
私と立川様が顔見知りだと知り、倉内さんと野沢さんも驚いているが、私だって、2人と立川様が繋がっていた事に衝撃を受けている。この中で唯一平然としているのは、倉内さんの部下で野沢さんの先輩らしき男性だけ。
倉内さんにご予約されているコースに変更が無いかこっそり確認した後、ソムリエに接客を一時的に代わってもらう。その間に支配人に重里様はいらっしゃらない事を報告しに行くと、重里様がいらっしゃらない事も、立川様がご一緒だということにも気付いていた支配人。
「大丈夫か?」と心配されたが、急に担当が代わるのも不自然だし、お連れ様の人数も多いので大丈夫だと伝え、持ち場に戻る。
ソムリエが食前酒をサーブしていたので、フレンチで言うところのアミューズをお出しする。
そしてすぐにアンティパスト・ミストもサーブする。
季節のコースのそれはスズキのカルパッチョ、パルマ産の生ハムとメロン、タコとオリーブのマリネ、チェリートマトとボッコンチーニのカプレーゼの盛り合わせ。涼しげな硝子のプレートに彩り良く盛り付けられている。
久しぶりにお会いする立川様は相変わらずタチが悪い。
お尻を触るとかセクハラ以外の何モノでも無い。とは言え、今は必死で我慢する。極力笑顔が引きつらないように努力しているものの、彼の隣に座る倉内さんには目撃され、彼をよく知っているであろう秘書の方には何があったか気付かれてしまったらしい。
「八重山さん…大丈夫?」
「大丈夫じゃないですけど…トラブルになって仕事辞めるわけにもいかないので…見なかった事にしてもらえると助かります…。」
「浅井は…」
「すみません、仕事に戻ります…。」
途中、席を立った倉内さんに声をかけられそう答える。春ちゃんは知っているのか、そう聞きたそうな倉内さんを遮ってしまったが、それが意味する事を理解したのだろう。なんとも腑に落ちないといった顔の倉内さんだったが、いつもは立川様に会わないように上司に配慮してもらっているから大丈夫な事を告げると申し訳なさそうな顔で席に戻って行った。
別に減るもんじゃないし、この程度我慢するんだ私。以前ならこれに加えて愛人になれだの、番号教えろだの言われてたんだから、言われていない今日はまだマシ。
何度も、そう自分に言い聞かせ、再び料理を持って個室へ向かう。
プリモピアットは雲丹の冷製カッペリーニ。話に夢中になっているタイミングを見計らい、お触りを回避する。倉内さん、あからさまにホッとした顔をするのはやめてほしい。心配してくれるのはありがたいけれど、春ちゃんには知られたくない。口止めするべきだろうか?
春ちゃんにこれ以上無駄な心配をかけるのは避けたい。倉内さんや野沢さんと立川様がこうしてご来店されているという事は、春ちゃんだって立川様と知り合いの可能性は十分ある。
セコンドピアットはドライエイジングビーフと夏野菜のグリル。
立川様は引き続き話に夢中で今回もお触り回避できたが、聞こえてきた会話の内容に私の頭の中は真っ白になる。
「ここの店、浅井くんに連れて来てもらったのがきっかけで気に入って、今日も重里さんにリクエストしたんだ。浅井くんが担当じゃなくなってしまったのは残念だね。まぁ彼、仕事は出来るけど、面白味に欠けるからなぁ…。女遊びを勧めても全然乗ってこないからつまらないし。やたらサービスの良いオネエちゃんの店連れて行ってやるって誘っても必死で俺に謝って断ってさぁ、本当に帰っちゃうんだよ。どんだけ真面目だよ?結婚もしていないし恋人もいない癖にねぇ。相方の土屋くんは結構イケるクチだったから連れて行き甲斐があってさぁ。…あの2人、ずっと土屋くんが上だと思ってたよ。あの面で24は詐欺だよなぁ?」
お酒のせいか会話の内容が酷い。野沢さんもドン引き。聞いていないフリをして平然を装うのに精一杯の私。1人ご機嫌の立川様と、苦笑する彼の秘書、愛想笑いする倉内さんの部下、私と野沢さんの顔を交互に伺う倉内さん。
個室内は非常に微妙な空気が流れる。
そこにソムリエが現れ、赤ワインをサーブし、小ネタというかウンチクを語り始めたので、多少場の雰囲気が和んだ。しかしながら非常に気分が悪い。
皮肉にも、立川様がこの店を知ったきっかけが春ちゃんだったとは…絶対春ちゃんにセクハラの件は知られてはいけない…彼が知ったらいい気はしないはずだ…。気を遣われ、謝られるのだって嫌だ。
セコンドのサーブが終わった時点で、逃げるように個室を後にした私。なんか今日は無茶苦茶だ。どんな嫌がらせ?って言いたくなってしまう。今まで立川様を避けていたツケなのだろうか?
合間に他のスタッフの手伝いをしつつ、頃合いを見計らって個室に戻る。皿を下げ、コーヒー、紅茶、エスプレッソ、ハーブティーから食後のお飲み物をお選び頂き用意をする。コーヒーが3つ、エスプレッソが2つ。瀬田さんに伝え、早めにそれらを落としてもらう。
立川様は、ドルチェと同時にコーヒーをお出ししないといけない。いつもそう。こういう事を確実にやらないと無駄に絡まれてしまう。そんなのゴメンだ。
瀬田さんに手伝ってもらい、無事に同じタイミングでお出しして、にこやかに個室を後にする。
一気に肩の荷が下りる。まるで苦行を終えた後のよう…。
「八重山ちゃん…お疲れ…。」
「瀬田さん…本当にありがとうございました…。」
時計を見ると22:00を回っていた。金曜日とは言え、ラストオーダーの時間が過ぎ、続々とお客様もお帰りになっていく店内。
フリーのお客様のテーブルの片付けなどを手伝ってそろそろ様子を…と個室に戻ろうと近づいた時だった。
「お仕事中すみません…八重山さん、少しご相談させていただいても良いですか?」
野沢さんだった。
「何でしょうか?」
「ここではちょっと…少しこの部屋から離れた目立たないところでお話しさせて頂いても良いでしょうか?」
彼女がそう言うので、店の隅、目立たないところへ移動して、お話する事になった。
「今日は、何時にお仕事終わるんでしょうか?」
「あの、どういう事でしょう?」
「出来れば、早めに上がって頂くことは可能でしょうか?」
「すみません…仰っている意味が…。」
「ごめんなさい…単刀直入に言います。立川様が、八重山さんと一緒に飲みに行きたいから連れて来いと…。」
まさか、野沢さんにそんな事させるなんて…。野沢さんは泣きそうな顔をしている。
「こんな事お願いするのはおかしいってわかってます。わかってるんですけど…。」
「ごめんなさい。仕事、すぐには終わりそうにありません。店を閉めるのが22:30で、その後片付けなどがありますので…。」
「大体何時頃終わりますか?お迎えにあがります…。」
「日付けが変わる頃かもしれないですし…ごめんなさい、行けません。」
「…お酒を飲むだけで良いんです。後はどうにか…。助けて下さい…じゃないと私が…。」
「まさか寝ろとでも言われているんですか?」
野沢さんは涙目で頷いた。
「それだけじゃなくて、取引先を変えてもいいのか…って仰るんです。4月から、倉内さんと2人で担当を引き継ぎました。前任は浅井さんと土屋さんです…。せっかく浅井さんが築いてきた関係を私が壊してしまうのは嫌なんです…浅井さんにも迷惑かけてしまいますし…。」
私が協力しなければ、春ちゃんに迷惑がかかってしまう…。
「立川様が、八重山さんを連れて来いって。自分じゃ断られるから私に行けと…。八重山さんと2人なら、今まで通り取引をするし、今日一緒に飲んだ後、八重山さんも私も帰らせてくれるから…って仰るんです。」
「……私が行けば丸く収まるんですね。」
春ちゃんの名前を出された途端、行きたくはないけれど、私のせいで春ちゃんに迷惑をかけるのは嫌だ、そう思ってしまった。
「お客様、申し訳ございませんが、うちはそういった接客はしておりませんので。……八重山も自分の立場を考えろ。」
「野沢さん、八重山さんに言う前に上司に相談すべきだよね?」
私と野沢さんが揉めているところへやってきたのは支配人と倉内さんだった。
「でも…立川様に倉内さんには内緒で行って来いと…。」
「支配人、仕事終わってからなら問題ないですよね…。」
「「何を馬鹿なこと言っているんだ?」」
私と野沢さんは支配人と倉内さん、それぞれに怒られていた。
「「もっと自分を大事にしろ。」」
なぜか、同じ事を注意される。
「すみません、うちの野沢が八重山さんとトラブル起こしてこの店追い出された事にして下さい。ついでに今後何かあの人に尋ねられたら、出禁になった事にしておいて頂けると助かります。」
倉内さんが支配人に口裏を合わせて欲しいと申し出、支配人もそれを受け入れたようだった
。
「野沢はもう帰れ。担当も外す。初めから色々問題あったんだよ、あの人の担当が女性ってのは。」
「でも…せっかく引き継ぎしてもらったのに…。」
「八重山さんが絡むのは想定外だったけど、お前を担当から外すのは実は想定内。だから小林連れて来たの。俺も浅井も知らなかったんだけど…昨日重里さんに言われたんだよ、あの人の担当は女性じゃ無理だって。」
涙目の野沢さんと、心配そうな顔で説明する倉内さん。
そんなやりとりをする2人を見兼ねて、支配人が口を開いた。
「では、野沢様はおかえりください。……八重山も今日はもうフロアに出てくるな。1度そういうことすると次からもっとしつこくなる事くらいお前だってわかってるだろう?他のスタッフにも迷惑かけることになるぞ?同じようにしろって言われる奴が出てくるかもしれないだろう?後は俺に任せとけ。」
「野沢さんも帰って。あの人は俺が上手いことするから。」
「「すみませんでした…。」」
支配人と倉内さんに説得され、私と野沢さんは2人に頭を下げた。そして、それぞれ店内から立ち去ったのだった。




