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29. 認めざるを得なかった事

 その日、春ちゃんは「予定外の仕事が入りそうで、色々準備しなくちゃいけないから…」との事で、私はそのまま家まで送ってもらい、いつもよりも少し早めに彼と別れた。


 まだ16時すぎ。どこか出かけようと思えば出かけられるけれど、とてもそんな気分じゃない。かと言って、何かする事があるわけでもない。


 久しぶりにバスタブにお湯を張って、ゆっくりお風呂に入ろうかな?


 最近は暑いので、もっぱらシャワーで済ませてしまう。お湯に浸かった方が疲れも取れることはわかっていても、夏場はどうしても回数が極端に減ってしまう。


 メイクを落とし、バスタブに栓をしてバスジェルを垂らして、そこへ目がけて一気にお湯を落とす。

 数分後、フワフワの泡が溢れんばかりのバスタブ。バスルームに立ち込めるシトラスの香り。適当に音楽も流して…リラックスタイムの始まり始まり。


 よく冷えたガス入りのミネラルウォーターと、読み始めたばかりのエッセイを持ち込んで、余計な事を考えないようにしたつもり。


 読み初めは良かった。

 職種は違えど、仕事に対するスタンスとか、共感できる部分も沢山あり、すごく勉強になって、夢中で読み進めていた。


 しかし、どうやら持ち込んだ本の選択を間違えたらしい事に途中で気付く。


 前半は仕事についてのみ書かれたものだったのに、後半に行くにつれて、恋愛とか結婚に関する話ばかり。あれ?おかしいな?この本ってそんな内容だったの?と気付いた時にはすでに後の祭り。


 寝取り寝取られた話。恋人への携帯チェック。男性にとっての仕事と恋愛。正直読み進めるのが辛くなってしまった。


 余計な事を考えないために持ち込んだ筈なのに、明らかに逆効果。嫌でも色んな事を思い出してしまう。


 本を閉じて、すっかりぬるくなったミネラルウォーターを一気に飲み干し、全身を洗ってバスルームを後にした。


 よく冷えたシートマスクを顔にのせて気分転換を図ってみたものの、私の頭の中は思い出したくない事ばかりで埋め尽くされていく。




 そして私はある事実を認めざるを得ない事に気付いた。


 悔しいけれど、博之を完全に忘れるのはまだ無理そうだという事。


 勿論彼に対する好意や愛情はもう無い。

 しかし、彼に対する負の感情は未だに消えていない。

  わたしはそれを忘れて乗り越えられたつもりでいた。けれど、全然そんな事はなくて、これからもそれがふとしたキッカケで私の前に立ちはだかるに違いない。

 それを不安に思えば思う程、怖いと恐れれば恐れる程、思い出してしまう。海夏さんの事もそうだ。海夏さんを思い出してしまう時点で、博之を忘れてはいないということ。


 それが例え好意でなくとも、春ちゃんに申し訳ない。

 春ちゃんは、私が博之を思い出して苦しんでいる事に胸を痛めているのに。忘れさせようと助けてくれているのに。

 なのに、私はなぜ博之を忘れることができないんだろう。


 またあんな辛い思いをしたくない。寂しくて、悲しくて、苦しくて、惨めな思いをするのはもう嫌だ…。


 ああ、海夏さんを思い出した時に感じた怖さや、漠然とした不安や恐怖はこれなんだ。


 寂しくて、悲しくて、苦しくて、惨めな気持ちに対する恐怖。

 結局自分が惨めな思いをしたくないだけ。惨めな思いをするのが怖いだけ。


 もしかして、野沢さんに対しても、彼女が春ちゃんに思いを寄せている事に気付いた瞬間に以前の出来事と重ね合わせてしまい、そんな危機感を無意識のうちに抱いてしまったのかもしれない。しかもたまたま彼女と海夏さんの服装や背格好が似ていて余計に強く結びついてしまったんだ。


 私、馬鹿みたいだ。

 馬鹿みたいだけど、そんな恐怖に打ち勝つ自信なんてない。


 今後、それを思い出すきっかけはきっと野沢さんだけじゃない。


 春ちゃんがきっかけで思い出してしまう可能性だって否定出来ない。

 否定出来ないどころか、今の私はきっとそんな状況になってしまったら間違いなく思い出してしまうだろう。


 そしたら、間違いなく私は春ちゃんを拒み、傷付けてしまうだろう。


 春ちゃんが大好きなのに。春ちゃんに愛されたいのに。


 自分に自信が持てない。多分、それが1番の原因。




 博之に浮気をされたのも、100%博之だけが悪いと言えるのだろうか?私にだって何か原因があったのでは無いか?

 1年前の私は、毎日そんな事を考えていた。そして、幾つか思い当たる節があった。

 だけど、それに対して私は私なりに歩み寄っていたつもりで、努力だってしていたつもりだった。


 結局、歩み寄っても、努力しても、『つもり』だったからダメだったんだけど…。


 もし、春ちゃんも博之と同じように、私に対して不満を抱いたらどうしよう?私は今度こそ本当に努力をして、歩み寄ることが出来るのだろうか?


 万が一、それが出来なかった場合でも、春ちゃんは私だけを見ていてくれるだろうか…。





 どれだけの時間、そんなくだらない事を考えていたんだろう。気付けば顔に乗せていたシートマスクはすっかり乾いてしまっていた。


 そんな時、スマホが鳴った。この音はメールの着信音。

 春ちゃんからだったらいいな…なんて期待しながら見ると、どうでもいいメルマガだった。


 春ちゃんはスマホ触られるの嫌なタイプだったのかな?もしかして、本当はアラームじゃなかったのかも…誰かからの着信?

 深い意味は無いとか、やましい事は無いって言ってたけど…。


 もうこれ以上考えるのはやめよう。ネガティブでは良いことなんてあるわけない。春ちゃんを疑うなんて…何考えているんだろう。

 きっと私も疲れているんだ。だからこんなに不安なんだ。まだ眠るのには早いけれど…今日はもう寝よう。以前は休みの日、1日中寝て過ごしている事もあった。けれど、ここ半年程はそんな事も無い。




 その日、普段なら仕事中で、忙しくサービスしているはずの時間であったのにもかかわらず布団に入った。気疲れしていたせいなのか、布団に入るとあっという間に眠ってしまった。






 ***


「かしこまりました。ご確認をお願いいたします。明後日、金曜日の午後7:00に5名様で季節のコースですね。いつもありがとうございます。個室をご用意してお待ちしております。お気をつけてお越しくださいませ。」


 日曜の夜、あんなにネガティブになってしまった私だったが、翌日からの仕事には特に支障なく過ごせている。

 まぁ、当たり前と言えば当たり前なのだが、いつもよりも調子が良いのはなぜだろう?ゆっくり休んだから?ネガティブとはいえ、今まで誤魔化してきた事をやめ開き直ったから?


 もしかしたら忙しいのも幸いしているのかもしれない。少し前の地元の情報誌のランチ特集でリストランテの方が載ったせいなのか、いつもと違う客層が増えた。今まで少なかったマダム層のお客様の来店が多い。


「新規のお客様が増えたのは有難いけれど、常連さんに迷惑かけているのは否定出来ないんだよな…。」


 ランチ営業を終え、予約の電話を受けていた私の隣にいつの間にかいた支配人がそう呟いた。

 支配人の言う通り、ランチの常連さんが来店されても混み合っていてそのまま帰ってしまったり、席が空くのを待っていていただいたのに、回転が悪くてご案内が遅れ、ゆっくり食事していただけない場面がちらほら見受けられるのだ。


「八重山、ご迷惑おかけした常連さん、可能な限り覚えておけよ?次いらしたらお詫びするから…。」

「はい。一応メモしてあります。お名前わからない方は特徴ですけど…。」


 私がメモを渡すと、支配人の表情が曇った。


「あー。重里様今日もいらしたのか…まずいなぁ…。」

「重里様から、今ちょうどご予約のお電話いただいたんです。明後日の19時から個室で5名様、季節のコースです。」

「そしたらその時お詫びして何かサービスしよう。お詫びは俺もするけど八重山がサービス担当な?しかし、あれだな…同じ日に常連さんの予約がこうも被るって珍しい。俺も長尾も同じ日に何組か常連さんの予約受けてるんだよ…。」

「金曜日とはいえそれは珍しいですね。…失礼の無いよう頑張ります。」

「おう、宜しくな。」


 重里様は、開店当時からの常連のお客様。50代前半の品の良い男性で、この近くにお勤めらしい。ランチにお1人でいらっしゃる事が多いが、時々、夜にもご予約を頂く。それにしても、5人なんて珍しい。ディナーも奥様と2人でお見えになる事がほとんどだ。

 とにかく、この店にとって大切なお客様。そんなお客様のサービスを任された以上、その期待に応えなくては。


 その前に、今日の仕事だってまだやっと半分。私は気合を入れ直して、夜の営業に備え準備を進めた。

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