2. 忘れていた約束
それは、私が姉の家…葉山家で世話になりながらアルバイトを始めて1ヶ月半程、夏の始めの頃だった。
義兄の巧さんと姉の小春、中学1年生の姪すみれと一緒に、田舎で暮らす両親のところへ遊びに行って、夕食を囲んでいる時の話だ。
「麗ちゃん、ケータイなってるよ?…ん?『こーすけ』って誰?『明日ヒマ?ヒマなら夜メシどう?』だってさ…麗ちゃん、新しい彼氏出来たの!?デートのお誘い?」
私が放置していたスマホのアラートに気付いたすみれ。ロック画面に現れた文字を読みながらニヤけ顔で私に手渡してくれた。
「残念。『こーすけ』は山内くん。綺麗な奥様も可愛い娘もいるってすみれも知ってるでしょ。」
「なーんだ…つまんないの。でもさ麗ちゃん、辛い恋愛を乗り越えるには新しい彼氏が必要だよ!?恋しなくちゃ!もっと良い男見つけて幸せになって…そして博之を見返してやるんだからね?だからさ…」
「「すみれ!!いい加減にしなさい!!」」
姉夫婦に一蹴され口を閉じたすみれ。
すみれの発言には思わず笑ってしまった。最近の中学生ってませてるんだな…なんて。
私にメールをくれた山内 康介くんは、高校3年間、奇跡的にクラスが一緒だった友人だ。私の親友の貴子と遠い親戚であったし、博之とも仲が良かったため、高校卒業後も顔を合わせることが多かった。
数年前、ウェディングプランナーとして彼の結婚式を担当したのをきっかけに、奥様の舞ちゃん、その後産まれた娘の彩ちゃんともすごく親しくさせてもらっている。
もちろん博之との事も知っていて、今日みたいなお誘いメールを頻繁にくれるので、私はそれに甘えて舞ちゃんの手料理をご馳走になってばかり。その事はすみれはもちろん、姉夫婦も両親も知っている。
当時(今でもだけど…)、父の前で博之の名は禁句だった。
彼の裏切りには私以上に怒っていたし、魂の抜けて正常な判断の出来なかった私に代わって、別れる際の話し合いを進めてくれたのが父だった。
すみれも言ってしまった後、「しまった」という顔で父、彼女にとっては祖父の顔色を伺っていた。
案の定、博之の名前を聞いた途端、それまで上機嫌で義兄と酒を飲んでいた父の様子が一変。
眉間の皺はいつも以上に深く濃く刻まれ、不機嫌極まりない、そんな表情だ。
「麗…お前が立ち直ったら…いや、立ち直らなくとも1年経ったら見合いをしなさい。結婚相手の候補は私が決める。麗には…その中から選ぶ権利くらい与えてやろう。」
「お父さん、いくらなんでも…」
「そうですよ、あなた…」
異論を唱えようとした姉と母を睨み付け、父は続けた。
「私は本気で言っているんだ。いいか、麗、分かったな。恨むなら奴を恨め。」
それだけ言うと、父は席を立ち、自室へこもってしまった。
「麗ちゃん…ごめんなさい…。」
「いいよ、気にしないで。結局のところ、私に見る目がなくて、浮気にも気付かなかった訳だし…。今だって彼氏どころか、好きな人とか気になる人がいるわけでもないしね。しばらく恋愛する気もないしさ…意外とお見合いの方が上手くいくのかもしれないよ?」
「もし、今後そういう人が現れたらどうするの?」
姉の心配は杞憂に終わる、当時の私はそう信じて疑わなかった。
「多分そんな人が現れる前にお父さんがお見合い写真持ってくるから大丈夫だよ。」
「麗ちゃん…やっぱりまだ博之くんの事…好きなんだね?」
巧さんの指摘通り、まだ私の心の中には博之が居座っていた。
あんなに酷い別れ方をしたというのに、まだ大好きで、忘れることなど出来ずにいたのだ…。
「1年を目処に、ちゃんと気持ちの整理をしてから、お見合いして…いい人だったら結婚っていうのもアリなんじゃないかな?」
「麗は…本当に…それで良いの…?」
「もし、好きな人が出来たらどうするの?」
母と姉が心配してくれるのはありがたいけれど、博之以上に好きになれる人なんていない、そう思っていた。
「その可能性…低いと思うよ。もし、万が一そんな人が現れたら…その時考えるよ。」
「その時は、すぐ私に相談しなさいよ?1人で抱え込んだら怒るからね?」
「お姉ちゃん…ありがと。その時はよろしくね。」
「俺も力になるよ。」
「ちゃんと周りに相談するのよ…。」
***
急にあの日の事が鮮明に思い出された。
後3ヶ月もすれば、博之と別れて1年が経つ。そしたら、私はお見合いをするんだった。
そんな約束、すっかり忘れていた。
お見合い…そんなものしたくない。
約束を思い出した途端、私はそう思ってしまった。
なんでだろう?浅井くんが好きだって気付いたから?
でも、浅井くんに対する自分の気持ちに自信がない。
ただ単に、博之意外の男の人に対する免疫がないだけで、必要以上に動揺しているだけ、きっとそうなんだ…。
万が一私の気持ちが動揺だけじゃなくて彼に惹かれているとしても、本当の本当に好きで、お付き合いをして結婚に結びつく相手だとは限らない。浅井くんは本当にいい人だ。いい人だけど、私が良く知る浅井くんは12年前の彼で、数回食事しただけでは彼が全く変わっていないとは言い切れない。例え彼が昔と変わらず、天真爛漫で真っ直ぐなままでも、好みとか相性だってあるし、価値観が同じ、もしくは歩み寄れるとは限らない。そして何より、彼の気持ちだってあるじゃないか…。
浅井くんだって、きっとあの場の空気に流されただけ。
海外生活のそこそこ長い彼なら、キスもハグも日常茶飯事なんだって、きっと。
毎週誘ってくれるのだって、集まった高校のメンバーの中で地元に残っていて結婚していないのが私くらいだったから…私が誘いやすいだけ。当時も割と仲良かったし。
深く考えるのはやめよう。
これは一時的な…気の迷いだ。
久しぶりに男の人に抱きしめられて…キスして動揺しているだけ。
好きになった訳じゃない。
浅井くんは友達なんだから…。変に期待して、気まずくなったら浅井くんだけじゃなくて、他の友人達…山内くんとか、親友の貴子とか、山内くん同様、私が結婚式の担当をして家族ぐるみで仲良くしてくれている岡崎 啓くんだって気まずい思いをしてしまう。
実際、私との一件のせいで彼らはあんなに仲の良かった博之と連絡を取ることさえやめてしまったのだから…。
来週も浅井くんとは食事の約束をしている。
それは今まで通り、友人として食事をしよう。
世間話をして、昔話をして、笑って、食事をして別れるだけ。それでいいんだ。
彼だって、それ以上を望んでいないはず。
バスタブに張ったお湯も随分ぬるくなってしまった。
急いでシャンプーをして、体も洗い、バスタブのお湯を抜いてシャワーで流してバスルームを後にした。
部屋のソファに座り、髪を乾かしながらなんとなくテレビをつける。
この部屋で、唯一、博之と別れる前に使っていたものがこのテレビだ。
博之が転勤で同棲していた部屋を引っ越してから、それまで使っていたテレビが壊れたので買ったもの。
毎週末、私のところに帰って来てくれて、一緒にこのテレビを観ていた。私と博之が好きだったバラエティーとか、夕食の時なんとなくつけるとやっている国民的アニメとか、そしてレンタルのDVDとか。
まだ新しい事と、博之が引っ越してから私が買った物だったので、父も渋々処分せずに使う事を許してくれたテレビ。
一人暮らしのこの部屋には大きすぎる42インチの液晶テレビ。
特に面白い番組も見つからず、ザッピングしながら観ていると、スマホが鳴った。
貴子からの着信だった。
『もしもし、麗?今度の日曜休みだよね?遊ぼうよ!女子会しよ、女子会。』
やたらとハイテンションな貴子。後ろがザワザワしているので、どこかで飲んでいるようだ。
「貴子、飲んでるでしょ?」
『分かる?今ね、岡崎家。舞ちゃんは彩ちゃんが熱出しちゃって来てないんだけど、こーすけはいるよ?それで、ゆかりちゃんと女子会したいね…って話になってさぁ。啓もこーすけも、娘たち面倒見てくれるっていうし、昼間からパァっと飲もうよ?』
ゆかりちゃんは、岡崎くんの奥さんで、小柄で可愛らしい人。ゆかりちゃん、舞ちゃんは子どもがいるし、飲むなんてなかなか機会がないからすごく魅力的なお誘いだったけれど、あいにく先約がある。
「ごめん…すごく魅力的なお誘いなんだけど、今度の日曜は先約があって…。」
『そっか。そりゃ残念。その後は日曜日の予定がみんな合わないんだよね〜。仕事夕方からの日ってないの?せっかくこんな話が出たわけだしさ、ランチだけでもしようよ?』
「ちょっと待って…確認するから。」
私が働いているリストランテは、日曜が定休日。オフィス街のど真ん中なので、日曜はあまり需要が無いのだ。
同じように、GWとかお盆、年末年始にも店を閉めるのでまとまったお休みがあるし、休みではないけれど、月に4日程夕方からの出勤の日がある。飲食にしては条件の良い仕事なのだ。
「来週の火曜日が一番近いかな。その次は再来週の木曜日。」
『…じゃあ、来週の火曜日ランチしようよ?……ゆかりちゃんも舞ちゃんもOKだってさ。』
「来週の火曜日ね…うん、OKだよ。」
『じゃあ、お店予約したらメールするね!バイバーイ!』