1. 気付いてしまった気持ち
バスタブに栓をして、バスジェルを入れる。そこに勢いよくお湯を落として…。
私は、ただぼーっとそれが泡立ってゆくのを眺めていた。
バスルームに広がるジャスミンの香り。バスタブ一杯に、溢れんばかりに満たされる泡。
蛇口をしっかり締めて、さっと身体を流してからそこに足を入れる。
いつもよりも熱めに入れたお湯。身体が冷え切っているせいかすごく熱く感じてしまう。
身体は冷え切っているけれど…なんだろう?心は寒くない。
今日はずっと変だ。こんな気持ちは…味わった事が無い…わけじゃない。
ゆっくり肩までお湯に浸かると、少し慣れてきたせいか、熱さが心地よく感じる。
鼻をくすぐるジャスミンの香りにだんだんリラックスしてきて、私の上瞼と下瞼が仲良くしたいと近づいていく。
抗えない…抗うのはやめよう…ゆっくりと目を閉じる。
瞳を閉じた瞬間、そこに思い浮かんだのは…浅井くんだった。
自分でも驚いてしまった。なんで彼の姿なんだろう。
一気に目が醒める。
いつもだったら、こういう時現れるのは間違いなく博之の筈なのに…。
博之との9年間は長すぎた。
20歳の誕生日を迎える少し前、私は博之と付き合い始めた。
高校3年間、付き合うことを諦めてはいたけれど、心の底ではずっと好きだった博之。
29歳の誕生日を少し過ぎた頃、私は彼と別れた。別れさせられたとも言えるが…。別れた事に関しては後悔はしていない。こうする以外の選択肢がなかったのは否定出来ないけれど。
泣いて縋ってでも、彼と別れたくはない…彼にしがみついて意地でも別れない…なんて事、私には出来なかった。ただ黙って身を引く、私はそうする事を選んだし、それが最善だったはず。
10ヶ月程の時間をかけて、必死で彼への恋愛感情は消し去ったつもりだ。しかし、愛情とか好意と言うものは、恋愛感情以外にだってある。
いくら一緒に生活していた時の部屋を出て、思い出の品やその時使っていたものを殆ど処分したといっても、心の中の思い出はそう簡単に捨てられない。
それでもどうにかしなくてはと思い、思い出はなるべく心の隅にしまった筈なのに…。
少し前に偶然にも彼に会ってしまった。
それ以来、以前にも増して、ふとした瞬間に私の頭の中に現れる博之の姿に苦しめられている…。
彼にはもう、妻も子もいて、家庭があるのだ。そう考えて忘れようとしても忘れられなかった。
だと言うのに、さっき急に現れたのは博之じゃなかった。
博之を忘れる事は喜ばしい事のはずなのに、何で動揺してしまったのだろうか…。
浅井くん。
彼は不思議な人だ。
今月の初め、高校の時のクラスメイト達と集まって飲んだ時に顔を合わせた。
その時、私に酷いことを言って傷付けてしまった、そのお詫びがどうしてもしたいと食事に誘われて…押しの強さに負けて行った1回目。
1回目の別れ際にまた食事しようと誘われて、断る理由が無かったから行った2回目。
2回目はとても楽しかった。ただ世間話とか思い出話しながら食事をするだけだったのに…。また一緒に食事しても良いかも…なんて思っていたらその日も別れ際にやっぱり「また会おう」って誘われて…。
それで、今日が彼との3回目の食事だった。
「お勧めのリストランテを予約するつもりだったけど今日は残念ながら休みだった…」
そんな話から、彼のお勧めの店が偶然にも私の職場という事がわかりそこからお互いの仕事の話になった。
そこからおかしな方向に話が進んでしまったんだ…。
私は浅井くんに打ち明けてしまった。両親にも、姉にも、親友にも言えなかった気持ちを。
そして取り乱した姿を浅井くんに見せてしまった…。
高校の時のクラスメイトといっても、先日、卒業以来約12年振りに再会したばかりで、その日をカウントしたって会うのはまだ4回目。再会して1ヶ月も経っていないというのに…。
どうして浅井くんに…私がずっと誰にも言えずに1人で隠して抱えていた弱くて、みっともなくて、未練がましい本音をぶちまけてしまったのだろう。
泣いて取り乱した姿を見せることになるのは目に見えていたのに…。
彼と一緒にいると、不思議と自分の感情に素直になってしまう気がする。
1回目より2回目、2回目よりも今日…その傾向はどんどん強くなっていく。
博之への気持ちを吐き出して、私は嗚咽を上げて泣いてしまった。
彼は何故、そんな私を抱きしめてくれたのだろう…。
抱きしめられても不思議と嫌な感じはしなかった。
暖かくて、力強くて、心地よかった。嬉しかった。あまりに心地よくて、つい甘えてしまった。今もなんとなくだけど、二の腕のあたりに彼の腕の感覚が残っている気がする。
彼の着ていたシャツは、私の涙で濡れてしまったというのに、浅井くんはちっとも嫌な顔などせずに、優しく微笑んで気にするなと言ってくれた。
私は、そんな彼の笑顔をじっと見つめてしまったんだ…。
すごく優しい瞳で、吸い込まれてしまいそうだった。
そしたら、彼の顔が近づいてきて…私はなぜか目を瞑ってしまって…気付いたらキスされて…ううん、違う。完全に受身って訳じゃなかった…私も受け入れていたに違いない…あの状況で目を瞑るとか同意している事となんら変わりはない…キスされたんじゃなくて…同意の元、キスしたんだ…。
優しいキスだった。
胸に刺さった何かがすうっと消えていくような感覚さえあった。
あんな幸せな気持ちになったのは久しぶりだ…。
ゆっくり目を開けると、そこにはやっぱり浅井くんの優しい穏やかな顔があって…すごくドキドキした。
ここ数年、味わった事のない感情だ。
博之とは長かったけれど、別れる直前だってドキドキする事もときめく事もちゃんとあった。
だけど今日のドキドキはそれとはなんかちょっと違う。
大好きで、そばに居たくて、でもなぜか苦しくて…。
10代の頃、高校生の頃に味わったような感覚。
あれ…私、浅井くんのことが好き…なの…かも…しれない?
深呼吸をして、目をゆっくり閉じるとそこに現れたのはやっぱり穏やかに微笑む浅井くんだった。
ああ、きっと私は浅井くんに惹かれているんだ。好きになってしまったんだ。
浅井くんだって…私に好意が全く無いわけではないのだろう。
そう思えたらなんだか嬉しかった。
だというのに、次の瞬間私は急に苦しくて堪らなくなってしまった。
好きになった先にある事を考えてしまったから…。
彼が私に好意を持っていてくれたとしても、それが本気とは限らない。遊びとか、その場の雰囲気で…って事だってある。
昔の、高校時代の彼は天真爛漫で真っ直ぐな人だったけれど、今も変わっていない保証なんてないし、高校卒業後、すぐに留学していたし、社会人になってからも海外赴任が結構長かったらしいから、彼にとってハグもキスも挨拶となんら変わらないのかもしれない。
久しぶりの片思いに戸惑っていた。
男の人に抱きしめられて、キスされただけなのに、こんなに動揺して苦しくなるなんて…。
人数は多くはないけれど、それなりに恋愛だってしてきたつもりだったけど…。
でもよく考えたら、私の恋愛経験ってほぼ博之だ。
その前に付き合った人もいたけれど、ほんの半年だった。
博之意外の男の人に対する免疫なんて持ち合わせていない。だからこんなに動揺しているのかもしれない…。
彼は30歳。私も再来月には30歳。
30歳の恋愛の先にあるものは結婚…少なくとも、私の感覚ではそうだ。
浅井くんの事が好きなんだって気付いただけでそこまで考えてしまうなんて…私、馬鹿みたいだ。
でも…彼はどう思っているのだろう?
もし、彼が遊びじゃなかったとして、同じ感覚をて持っていたとしても、上手く行くとは限らない。
それは当人同士だけの問題ではないから…。
次の瞬間、脳裏によぎったのは父の顔だった。
半年間以上前、父に言われた事を急に思い出してしまい、私は余計に苦しくなってしまった…。