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99. Spring has come

 3月に入るとすぐ、父と春ちゃん、そして春ちゃんの友人で建築士の建野さん立会いのもと、私たち夫婦の新居となるマンションのリノベーション工事が着工となった。

 1ヶ月という短くない期間を要する作業のため、着工前に各所へご挨拶へ伺ったそうだ。具体的には、管理会社とマンションの自治会の役員さん、騒音の影響が大きいであろう隣接する御宅や同じフロアのお宅、それから今も変わらず住んでいる昔馴染みのお宅。

 少し前までうちがそうだったように一時的に賃貸になっているお宅も少なからずあるし、住人が代替わりしたところや新しい家主に代わったお宅も多いのだろう。


 随分様変わりしているな、と父が淋しそうに呟いていたそうだが、父がここに居たのが5年も前なのだからそれは仕方ないだろう。


 挨拶まわりした日も着工の日のどちらも私は出勤日だったので、父と春ちゃんに任せる事にした。

 敢えて私の出勤日に予定を入れたのは、父と春ちゃんなりの優しさなのだろう。


 2年前に倒れたあの日の、辛い記憶を私が呼び起こさないように。

 12月の頭に訪れた時、あの場所は山田さんのお宅だったけれど、もう違う。他人の生活空間と引き払った後のがらんどうの部屋。同じ場所でも、気分的には全くの別物だ。

 私があの件を自分の中できちんと消化して、吹っ切れていたとしても、倒れた時に近い状態——片付け途中のダンボールだらけだったけれど——の部屋に行かなくて済むなら行きたくはない。


 だから、2人の気遣いが素直に嬉しい。


 今回は行かなかったけれど、ご近所さんへは引っ越してから改めて春ちゃんと2人でご挨拶に伺う予定だ。

 気分的な問題だけでなく、今の仕事の引き継ぎや新しい仕事に関する手続き、そして式の準備に追われてバタバタして、正直そこまで手も頭も回らなかったから非常に有り難い。


 昔から厳格なイメージの強い父。だけれど、姉や母に言わせると、昔っから私にはとても甘いらしい。今更ながらそれを実感して……特にこの2年は心配かけてばかりな上、どう接したら良いのかわからなくてお互い気まずい思いもしたけれど。自分の気持ちをちゃんと伝えて、たくさん甘えさせてもらって。

「わがままばかりでごめんなさい」と言えば「甘えることが親孝行になるから親に甘えられるうちに甘えておけ」と言ってくれた父。


 式までもう1ヶ月をきった今、結婚式は親の為にあげるものだって意味がようやくわかった気がする。今までだって理屈としては理解していたし、理屈じゃなくてもわかっていたつもりだった。けれど今回、こうして自分がその立場になってようやく気持ちが追いついたというか、感謝の気持ちを伝えたいって、こういうことなんだって強く実感した。




 それにしても結婚式の準備がこんなに大変だっただなんて……。

 以前プランナーとして、散々関わっていたのにこんな事を言うなんてバカみたいだけれど、頭で考えるのと実際にその状況に置かれるのではこうも違うのかと痛感している。


 知識もあるし、手作りにこだわらずにすればそこまで大変ではないだろう……なんて考えが甘かった。


  変な話、前回はあれもこれもと欲張って、かなり早い時期から動いていた。その反動、というわけではないのだけれど、今回は焦らずにのんびり進めようと一般的な——結婚情報誌に書いてあるような——スケジュールで準備を進めていたつもりだったのだけれど。


 準備を進めるうちに、「やっぱりあれも必要だ」「これも欲しいかも」「そしたらそれはどうしよう?」なんて事項が出てくるわ出てくるわ……。「まぁ、なんとかなるよね?」始めてしまった事の収集がつかなくなった感が否めない。


 休みの日のスケジュールがタイトすぎて、お正月に行った以来、両親の家には行けていないし、会いたいねと言いつつも、友人には会えていないし。


 その結果、春ちゃんと飲みたいと痺れを切らした父の方からマンションのリノベーションを口実にこちらに出向いてくれたのを良いことにお任せして。

 父だけでなく、本来なら私がするべき友人達への根回しを、貴子達の厚意に甘えてお願いしてしまった。


 倉内さんや美咲ちゃん、支配人や長尾さんや瀬田さん、他のスタッフに対してだってそう。

 二次会の取りまとめが想像以上に大変で、予定していた人数の3割り増しとまではいかないけれど、思っていたよりもたくさんの人に参加してもらえることになって。

 一時は、せっかく参加したいと言ってもらえたにもかかわらずお断りしなくてはいけないかもしれない……と覚悟していたけれど、ダメ元で支配人やスタッフに相談したところ、1階のカフェのスタッフを総動員し、食器や備品も借りてきて増えた分の人数に対応してもらえることになった。


 毎日バタバタで、しなくてはいけないことに追われながらも準備を進める日々というのはとても楽しくて。


 季節が冬から、徐々に春めいてきているのに気づかないまま、迎えた桜の開花宣言が発表された。

 それは丁度、この1年半で私を大きく成長させてくれた『その場所』へ出勤をする最後の朝のことだった。






 ***


「八重山ちゃーん、お疲れ様でした!」

「もう式まで2週間切ってる? 本当にあっという間だねー」

「送別会は、式が終わって落ち着いた頃、浅井さんも連れて来いよ。とりあえずは式の当日、楽しみにしてるから」


 瀬田さん、長尾さん、支配人からの言葉。

 明日から数日の有給休暇を経て退社するのだけれど、二次会の荷物の搬入や打ち合わせで何度か来る予定があるせいか、あまり「辞める」実感がわかない。


 ここで働いた期間は1年半にも満たないというのに、随分長い間働いていた様な錯覚を覚えている。


 それだけの影響を与えてくれたのだ。


 ここで働いていなくとも春ちゃんとは再会していたはずで。でも、ここで働いていた事が彼との距離が縮まるきっかけとなったのだ。

 彼との3回目の食事で、春ちゃんオススメのリストランテが私の職場だって事がわかって、仕事の話をしていたはずなのに、妙な親近感から家族や貴子にすら打ち明けられなかった悩みを打ち明けた挙句、取り乱してしまって。

 彼といると、不思議と素直になれる事を知り、私は変われた。


 春ちゃんだけではなく、支配人、長尾さん、瀬田さんのおかげで私は変わる事が出来た。


 そして、春ちゃんと同じくらい、私に良い影響を与えてくれた人がここにはいる。


「お疲れ様。あなたが辞めちゃうの、なんだか惜しいわ……」

「静香さん!?」

「完全に私の趣味だけど……受け取って」

「わぁ、ありがとうございます!」


 笑顔で差し出され、私も笑顔で受け取ったのはラナンキュラスをメインに白と淡いグリーンでまとめられた花束。コロンと丸いフォルムも可愛い。

 仕事が終わる頃ひょっこり姿を現した静香さんからの贈り物。

 素敵なプレゼントも嬉しいけれど、こうして静香さんが来てくれた事が嬉しい。彼女のおかげで今の私がある。私にとって静香さんは今も昔も憧れで、背中を押してくれた人だから。


 生後2ヶ月半の莉香ちゃんは、夜は特にぐっすり眠る子だそうで、静香さんのお母様とお留守番中との事。


「すぐにってわけじゃないけれど、近々復帰しようと思っているの。そうしたら、母にみてもらう事になるから……今から慣れておいてもらわなくちゃね。あなたがいなかったら、きっとそんな事考えられなかったはずよ。」


 静香さんのとびきりの笑顔が眩しい。

 静香さんと一緒にサービスの仕事が出来なかったのは残念だけれど、それ以上の仕事を静香さんの指導の元、やり遂げる事が出来た。

 同じ気持ちで居てくれるから、こんな話をしてくれているのだと思う。それがとても嬉しい。


「だけどやっぱり離れると私が落ち着かないのよね。莉香だけじゃなくて、私も離れる練習しなくちゃいけないみたい」


 静香さんはそう言って、照れ笑いを浮かべて莉香ちゃんの元へと帰っていった。

 お母さんになっても、輝いている女性って素敵だな……。


 私もいつか、そんな素敵な女性になれるだろうか?

 やはり私の憧れで目標は彼女の様な女性になる事なのだと、改めてそう思った。

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