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97. 大誤算

気付けば前回の投稿から早半年……大変長らくお待たせいたしました。

「麗、おかえり」

「ただいま、春ちゃん」


 ドアを開けると、笑顔で迎えてくれる人がいること。

 それだけでとても幸せな気持ちになるし、北風に吹かれてすっかりカラダが冷えてしまっていても、不思議と寒さを忘れてしまう。


 最近は、式の準備や相談のために春ちゃんがうちに泊まることも少なくないから、翌朝そのまま出社出来るように着替えや生活雑貨などの荷物が少しずつ増えてきた。

 引っ越しまで、ひと月と少し。物を減らさなくてはいけない時期なのに……と思わなくもないけれど、彼の物が増えていくのが嬉しい。


「お疲れ。外、寒かっただろ?」


 そう言いながら渡してくれたカモミールベースの温かいハーブティ。「ありがとう」と言って受け取りれば、口元に運ばれたチョコレート。先週、支配人の家にお邪魔した後に私があげたバレンタインのものだ。少し躊躇いながらもありがたく頂戴した。


「春ちゃんにあげたのに、私ばかり食べてない?」

「麗のその嬉しそうな顔が見たいからいいの。それに俺もだいぶ食べたし」


 そんな言葉とともに、フニャリと笑顔を返してくれる。笑うと出来る、目尻の笑い皺が好き。

 一日中立ちっぱなしでヘトヘトでも、この笑顔を見ると疲れが吹っ飛んでしまう。だけど甘えたいから、「つかれたー」なんて大袈裟に言ってみたりして。


 ソファに並んで座って、春ちゃんの肩にもたれかかって。彼の体温が伝わってきてなんだかすごくリラックスするというか、ポカポカしてきて眠くなってしまうというか、ついウトウトしてしまうんだよね……。


「麗、ソファで寝たら風邪引くぞ?」

「春ちゃんがあったかいから大丈夫……」

「おーい、起きないと襲っちゃうぞ?」

「……起きたくないからそれはそれでありかなぁ」


 頭がぼーっとして、なんだかフワフワした心地。こうしてこのまま眠ってしまいたいなぁ……なんて思ってしまったり。

 身体がふわりと浮いたような気がして。柔らかくて温かな感触を唇で感じる。なんだか心地良くて、夢見心地。微睡みながらのキス。なんだかとっても幸せ。

 唇をなぞられて、くすぐったさにふふっと小さく笑い声をこぼせば、待ってましたとばかりにその隙間から入り込んだ舌に自分のそれを絡められてしまった事を、回らない頭で理解した。

 別に嫌じゃない。むしろ気持ち良くて先程よりも更に脱力してしまっただけだ。


 だけどちょっと待って。なんだか色々いたずらされている気がするんですが。

 それに気付いた途端、微睡んでいた意識がはっきりして。


「ちょっと、春ちゃん!? やめ……」


 思いがけないほど甘ったるい自分の声に驚いた。唇で唇を塞がれてしまったため言葉が途切れ、脱力してしまった身体で抵抗しようにも全く抵抗になっていない。

 抵抗すればするほど、こうなってしまった状況が自分のせいである事を理解して、恥ずかしさから、どんどん顔が熱くなる。


「襲って良いって言ったのは麗だからな?」


 お願いだからそれを口にしないで! 居た堪れない気持ちになるから!

 火照った身体をクールダウンするつもりで浴室に逃げ込んだつもりが、全然逃げられていなくて、逆に彼の思うツボだったのは大誤算でした。


「恥ずかしがる麗、可愛い……」

「なんか今日の春ちゃんエロい……」

「それは麗が煽るからだろ? 自業自得ってやつな」


 不本意ながら煽ってしまった自覚はあるけれど……眠気には逆らえないんだから仕方ない。それに、本音を言えば、嫌じゃないどころか、春ちゃんに求められるのは嬉しいし。


 そんなこんなで、すっかり目が冴えてしまった私。

 お陰で席次の事とか、BGMの選曲とか、やたらと準備が捗って。

 明日は土曜日で春ちゃんはお休み。私は仕事だけれど、春ちゃんに合わせて早く起きる必要もないから、いつもより夜更かしをしてキリの良いところまで決めなくちゃいけない事を相談して決めた。

 席次は念のため双方の両親に確認を取る必要がある。

 丁度明日姉が両親のところへ行くと言っていたので、姉にデータを送り両親に確認してもらうことにした。直接データを両親に送っても確認はできるのだろうけれど、姉にお願いする方が断然早いし確実だ。

 春ちゃんの御両親への確認は、明後日打ち合わせの前に実家にお邪魔するからその時にする事になっている。


「明日、俺実家に泊まるから。日曜日の朝迎えに来るよ」


 さすがにこっちに泊まってばかりも良くないだろうからその方が良いだろう。今週は一度しか実家に帰っていないよね? 私が帰宅した時、春ちゃんがいないのはちょっと淋しいけれど、翌朝には会えるんだから少しくらい我慢しなくちゃね。それに、最近は会える事が当たり前みたくなっているけれど、少し前までは週に一度しか会ってなかったのに、ちょっと会えないだけで淋しいなんて、随分贅沢だよね?


「あーあ、早く引っ越したいな。そうすれば毎日麗と一緒にいられるだろ? うーん、やっぱ明日こっちに帰ってこようかな……」

「もう、また明後日には会えるでしょ?」

「麗は淋しくないのか?」

「淋しくないわけじゃない……けど」

「……けど、じゃないだろ?」

「淋しいです……」

「だよな?」


 耳元で囁かれたたった3文字に、どういうわけか赤面してしまった私。

 妙に色っぽい春ちゃんの雰囲気に飲み込まれ、睡眠時間が更に削られてしまったのは本日2度目の大誤算でした。






 ***


「みんな、今週もお疲れー」


 2月は客足があまり伸びないとはいうけれど、バレンタイン限定のテイクアウトのトルタ・ディ・チョコラータも終了したせいで、今週は余計にのんびりした雰囲気に感じられた。

 閉店前から片付けを始めていたため、店を閉めるとすぐにスタッフが集められる。


「もう知ってるやつもいるとは思うけれど……八重山が来月20日で辞めます」


 えーっ!? と声をあげて驚いた入社が内定している学生3人組。ざわつく厨房スタッフ。そして、ニコニコというよりもニヤニヤしている支配人、長尾さん、瀬田さんに、あくまで通常運転のソムリエと料理長。


「実はもう『八重山』ではなかったりするんだよな……『八重山』改め『浅井』麗さん、一言どうぞ」


 支配人に振られ、瀬田さんと長尾さんに押し出され、皆の前に立つ形になった私。一言挨拶しなくちゃいけないとわかっていたとはいえ、緊張する。


「……私事ではございますが、先月籍を入れまして浅井となりました。この度、結婚と転職に伴い、来月20日をもちまして、退職いたします。1年と少しという短い期間ではありましたが、大変お世話になりました。残り1ヶ月、どうぞよろしくお願いいたします」


 頭が回らなくて当たり障りのない挨拶しかできなかったけれど、これで良いよね? と目で訴えれば、支配人は頷いてくれた。


「以前から、来月末の日曜は実験的に貸切営業をするので出勤をお願いしていましたが、その日は八重山の結婚式で、二次会をうちでする事になっています。出勤したら八重山の晴れ姿と旦那が見れるぞ〜」

「八重山ちゃんのドレス姿が見られるチャンスだよ!!」


 皆からおめでとうと言われるとやっぱり照れ臭い。有難いことに、休日なのに快く出勤するよと言ってもらえた。支配人と瀬田さんが煽ってくれたお陰かな?


「八重山ちゃんの旦那はなんと! カフェで噂の爽やかくんです! お友達もイケメン&美人さん揃いだから目の保養になるし、出勤して損はないよ?」


 瀬田さんは、ランチに来た友人たちの接客も何度かしてくれているし、春ちゃんはもちろん美咲ちゃんや倉内さんとも顔見知りだからその煽り方も納得ではあるんだけど……。


 まさか『爽やかくん』がそこまでスタッフ間に浸透していたなんて知らなかった……。

「あの噂の!?」とか「瀬田のお気に入り……」とか「とうとう爽やかくんのご尊顔を見られる日が来るなんて……」と厨房スタッフが言い出して……終いには「もしかして八重山さん、お客様に手を出したの?」と本気で疑われ……。


「残念ながら八重山ちゃんの同級生だったんだよね」と瀬田さんが訂正してくれたお陰でようやく収拾がついたけれど、「瀬田がキャーキャー騒がなくなったのは八重山のせいか……」なんてニヤつきながら言われ、瀬田さんが今度はからかわれる番に。


「瀬田は彼氏と結婚しないのか?」

「まだお互い遊びたいんですって!」

「そんなこと言って……この前結婚情報誌立ち読みしてただろ?」

「……!? 何故それを……!」

「瀬田さん、逆プロポーズもありだよ!」

「長尾さんだって人の事言えないでしょう?」

「長尾は予定があるから良いんだよ。それより今は瀬田の話だ! 結婚したいならさっさとプロポーズしろよ?」

「別にそんなつもりじゃないですから!」

「またまたぁ、瀬田が珍しく照れてるぞ?」


 集中攻撃を受けてタジタジな瀬田さん。こんな瀬田さん、初めて見た。


「八重山ちゃんイジるつもりが……大誤算だよー!!」


 そんな瀬田さんの言葉に、皆が顔を見合わせて笑った。

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