9. 喜びと苦しみ
美味しいものを食べるとき、人は無口になるって言うけれど、今の春ちゃんもそうなのかな?そうだったら嬉しいな。
すっごくいい笑顔で、美味しそうにパクパク食べてくれる。そんな姿を見ているだけで、私は本当に幸せで、満たされた気持ちになる。
春ちゃんと結婚したら、毎日こんな風にご飯を食べてくれるのかな?毎日こんな姿を見る事が出来たら幸せだろうな…食事の準備も楽しいだろうな…。
ふとそんな事まで考えてしまう私がいた。
よく見ると、春ちゃんの表情はコロコロ変わっている。でも、どの顔も、美味しそうで、楽しそうな笑顔。そんな春ちゃんに見惚れてしまう私。
会話は全くないというのに、すごく楽しくて、幸せで、今まで味わったことのない感覚。
「春ちゃん、すごく食べっぷりが良いから、嬉しいよ。とっても美味しそうに食べてくれるし。そんな風に食べてもらえるとまた作りたくなる。」
博之はそうじゃなかったから…。
そう言いそうになったのを必死で堪えた。
お代わりの鯛めしを2回よそって手渡して、その度、素敵な笑顔で「ありがとう」って言ってくれた春ちゃん。その度、私の胸は高鳴り、ドキドキしてしまう。
「すごい、全部なくなっちゃった…。春ちゃんって大食いだったの?いつもはそんな感じしなかったけど…。」
「いや、決して大食いではない。今日はものすごく美味くて箸が止まらなかった。ただそれだけ。」
「…お米、2合炊いて良かった…多いかなって思ったんだけど…全部食べてくれて嬉しい!本当にありがとう!感動した…。」
春ちゃんの食べっぷりは本当に感動ものだった。こんなに美味しそうに食べてくれる人なんて初めてだ。嬉しくて嬉しくて、思わず感極まって泣いてしまった…。なんだか馬鹿みたいだけど、涙が止まらないのだからどうしようもない。
「ほら、泣くなって。」
「だって、こんなに美味しそうにご飯食べてもらうの初めてで…すごく嬉しかったから…。竹内くんも美味しそうに食べてくれたけど、春ちゃんには到底及びません。」
「博之は…?」
「…博之は、美味しいとは言ってくれるけど、あんまり顔に出さなかったから美味しいって思ってくれてる実感があんまりなかったんだよね。」
博之は、どんなに頑張って作っても反応が薄かった。基本的に、リアクションが大きいタイプではないし、それが彼にとって当たり前の事なんだって割り切ってはいたけれど、どこかで不満を感じていたんだろうな…。
「また作ってくれるなら今度はエスニックが食べてみたい。」
少しブルーな気分になってしまった私を察してか、春ちゃんはすごく優しい笑顔でそう言ってくれた。
その言葉で、モヤモヤもブルーな気持ちもどこかへ飛んでいってしまう。
春ちゃんといると、嫌な事を忘れられるし、元気になれる。
春ちゃんのリクエストで、来週はカレーを振舞うことになった。
また、私が作ったものを食べてもらえるなんて…また、美味しそうに食べてくれる姿を見ることができる、そう思ったら自然とまた笑顔になれた。
「洗い物、手伝うよ。2人でやったほうが早いし。」
キッチンに並んで立つのもすごく新鮮。春ちゃんが洗ってくれた食器を私が拭いて片付けて、あっという間に洗い物が終わる。
春ちゃん、絶対良い旦那さんになれるよ、なんて思わず言ってしまいそうになる。
「洗い物の後、塗っといたほうが良いよ。お湯使うと特に油分持ってかれちゃうから。」
こっそりお揃いで買ったハンドクリームを渡す。ちょっと気を抜くと、この時期あっという間に手荒れしてしまうから…洗い物してもらって春ちゃんの手が荒れたら申し訳ない。
「うわっ、出し過ぎた…麗も手出して?」
「え?ありがとう…。」
出し過ぎたハンドクリームを、私の手にも優しく塗ってくれた。
大きくて、暖かい春ちゃんの手に包まれたら手荒れなんてあっという間に治っちゃいそう…。包まれた手だけじゃなくて心まで温かくなる。
それから、ソファに並んで座って借りてきたDVDを見て、ほうじ茶ラテと栗金団でおやつタイム。
温かい飲み物と、甘いお菓子ですっかり和んでしまった私。春ちゃんに触れたい…手をつないで…春ちゃんにもたれかかって…春ちゃんに甘えられたら良いのにな…。
「麗…。真面目な話、してもいい?」
「どうしたの?急に改まって…。」
すっかり気が緩んでいた私に対して、春ちゃんは急に真面目な顔で居直って、私の顔を真っ直ぐな目でじっと見つめている。恥ずかしい…そんなに見つめられたら、さっきまで考えていた事、見透かされてしまいそう…。
急に手を握られて、私の脈は早くなる。
「俺は麗が好きだ。大好きだ。結婚を前提に…付き合いたい。」
苦しい…胸が締め付けられるみたいだ…。
私だって…春ちゃんが…大好き…だけど…。
嬉しいはずなのに、素直に喜べなかった。
今すぐ気持ちを伝えたくて、大好きだって言いたくて、あの日みたいに抱きしめてもらいたくて、キスだってしたいのに…。
春ちゃんと結婚出来たら、春ちゃんのお嫁さんになれたらどんなに幸せだろうって考えてしまっていたのに…。
まさか、告白…しかも、結婚を視野に入れた告白をされるなんて思ってもみなかった。
彼も、私と同じ恋愛観を持っていたことが嬉しかった。そして、私を思っていてくれた事が嬉しかった。
なのに、どうしてこんなに苦しくて辛くて、泣きたくなってしまうんだろう?
今のままでは『結婚を前提に』お付き合いする事が出来ない…。
それがネックになっているんだ…。
泣きたいのを必死で堪える。
私は、父にお願いしなくてはいけない。
父と向き合って、私の気持ちを伝えて、頭を下げてお見合いを断らなくてはいけない。
そして、春ちゃんとのお付き合いを許してもらわなくてはいけない。
それをしないまま、『Yes』という返事をしてはあまりに不誠実過ぎる。
私の中で、『No』と答える選択肢はない。
だからこそ、苦しくて辛くて、泣きたくなってしまうんだ…。
時間が欲しい。
どうやったら父を納得させられるか、考える時間が欲しい。
そして、父と話し合う時間が欲しい。
「少し、考えさせて欲しい…。」
涙を堪えながらただ一言、そういうのが精一杯だった。
「急に変な事言って悪かった。俺、そろそろ帰るわ…。」
「春ちゃんは悪くないよ…。1週間待って欲しい。来週、同じ時間にまた来て。その時必ず、きちんと返事するから…。」
「今日は本当にありがとう。すげぇ美味かった。来週も楽しみにしているから…。今日はゆっくり休めよ?あんだけ作るの大変だっただろう?」
春ちゃんの顔を見ることが出来ない。
苦しそうな声で聞こえてくる春ちゃんの優しい言葉が、余計私を苦しめた。
「じゃあな…。また来週。」
そのまま春ちゃんは帰ってしまった。
春ちゃんのいなくなった部屋は、すごく寂しくて、今まで明るくて暖かかった部屋が、急に暗く寒々しい場所に感じられた。
私は泣いた。声を上げて泣いた。
自分の気持ちに嘘をついて、ごまかして、父と向き合うことを避けてきた事を後悔した。
後悔してももう遅い。今、動かなければ、私が向き合わなければ、何も変わらない。
「もしもし…お姉ちゃん…?今から行ってもいい?…協力して欲しいの…助けて欲しいの…。」
気持ちを落ち着かせてから姉に電話をかけると、姉は快く「すぐおいで」と言ってくれた。
涙を拭いて、顔を洗って、コートを来て私は家を出た。
2月の夕方5時前。もうすでに白い月が空で輝いていた。




