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ロケット日和(6)

 休日の学校にはろくな思い出がない。

 ブランコでどこまで高く飛べるか挑戦して、手首を捻挫したのも休日の学校だったし、キャンプファイヤーをして体育館を燃やしかけたのも休日だった。学園祭や運動会などの休日イベントでも、千夏は叱られた記憶しかなかった。

 そういう苦い経験が記憶に積み重なって、千夏は休日の学校がすっかり苦手になった。よっぽどの用事が無いと、休みの日に学校へは行かなかった。

 だから、こうして千夏が休日の校内を歩くのはとても久しぶりのことだ。


 水菜の部屋を出て学校へやってきた千夏は、真っ直ぐ屋内プールへ向かった。

 目的は奈留が見たという火の玉の現場検証だ。千夏はプールの入口前に立ち、そっと中を覗う。

「開いてるかな……」

 休日なので、屋内プールは閉まっている可能性があった。ダメ元で千夏はそっと扉を押してみる。鍵がかかっているかと思ったが、扉はすんなりと開いた。

「あれ、開くじゃん。ラッキー」

 千夏は上履きと靴下をその場に脱ぎ捨て、中へ入っていった。

 暗い通路を進み、プールサイドに立つと、その眩しさに思わず目をつぶった。

 天井のドームから強烈な太陽の光が差し込んでいる。水面は揺れ、その表面に砕けた太陽が揺らいでいた。暗い通路から中に入った千夏は、その眩しさで目を開けていられないほどだった

 目を細めて辺りを見渡してみるが、プールサイドに人影らしきものはいない。

「誰もいないのか、まあいろいろ調べるにはもってこいだな」

 千夏はそう言って、プールの縁にしゃがみ込んだ。

 奈留は、ちょうど50mプールの真ん中あたりを指さして気絶した。千夏は改めて周辺を見てみた。しかし、特に変わったところはなさそうだった。霊の仕業だとしても、そんな不穏な気配は微塵もない。

「まあ、異変はないよな……。わかりきってたことだけど」

 千夏は残念そうにため息をついた。

 いたって普通のプールサイドで、怪しい物はどこにもなかった。

 光を放ちそうなものと言えば、プールサイドの照明くらいだが、それはどう考えても火の玉には見えそうもない。

 それだけ確認出来れば、ここにいても仕方がない。千夏はそう結論づけ、ゆっくりと立ち上がった。すると、立ち上がった千夏の右足は、突然何者かに掴まれた。

「うわっ、何だ!」

 驚いて足下を確認すると、冷たく濡れた手が千夏の足を掴んでいた。

 足を上げて振り払おうとした千夏だったが、強い力で足を引かれ、バランスを崩してプールへ転落する。

 一瞬のうちに世界が変わった。

 さっきまで立っていた眩しいプールサイドはそこには無い。全身を冷たい水が覆い、千夏の体は青く濁った箱の中に沈んでいった。顔を上げると、水面に向かって空気の泡が飛んでいくのが見える。

 千夏は慌てて自分の足首を触ったが、捕まれていたはずの足首は解放されている。

 そして、戸惑う千夏の目の前を黒い影が横切った。それは水面へ上り、プールから出て行く。千夏は必死に腕を動かして後を追った。

(本当に幽霊がいた?)

 千夏は無我夢中で水を掻いた。千夏が水面から顔を出すと、プールサイドに誰かが立っていた。

 黒い影は千夏を見下ろしている。

 若い女の子のシルエット。輪郭だけ見ても、やたらスタイルがいいのがわかる。最近の幽霊はプロポーションも良くないとやっていけないのだろうか。そんな事を考えていると、その人影は千夏に向かって声をかけた。

「あれー、やっぱり千夏っちじゃん ちーす!」

 スクール水着を着た女の子が、千夏に向かってピースサインを作っていた。

 女の子は水泳帽にゴーグルをかけている。健康的な肌と細く引き締まった手足が印象的だった。千夏がぽかんと口を開けていると、その女の子は千夏の前に屈んだ。

「千夏っち、どうしたの? ぽかんとしちゃって」

「何であたしの名前を……って、お前、美葉みはか?」

「そうだよーん」

 女の子は両手を振った。

 目の前にいる女の子は、一年三組の上原美葉うえはらみはだ。

「じゃあ、あたしを引きずり込んだの美葉か!」

「ハハハ、ごめんね、つい」

 美葉は水泳帽とゴーグルを外した。

 短めの髪の毛から水滴がはじけ飛んで、乾いた地面を濡らした。


 美葉は水泳部に所属する一年生で、千夏たちと同じ、あおい寮で暮らす寮生だ。

 実家はそれほど遠くないが、通学時間短縮のため寮に入っている。上原美葉と言えば一年生のアイドル的存在だ。活発で美人でスタイルが良い。一年生に聞けばすぐに名前が挙がるような生徒だった。

「千夏っち、とりあえずプールからあがりなよ」

 美葉はそう言って千夏に手を差し出した。

 千夏は美葉の手を借りてプールサイドにあがった。たくさん水を吸い込んだ制服が、びしゃびしゃと音を立てた。

「あはは、ずぶ濡れじゃん」

「誰のせいだ。誰の!」

 制服がべったりと張り付いて体が重かった。千夏はスカートをたくし上げて、ぞうきんのように水を絞る。ちょっと絞るだけで、蛇口を捻ったように水が出てくる。

「でも千夏っち、どうしたの? 一人でプールに来るなんて」

「いろいろあってさ、まあ、ちょっとした調べ物だよ」

「ふーん、まあそこに座ってよ。水絞らないと風邪ひいちゃうでしょ」

 美葉に肩を押され、千夏はプールの縁に座った。美葉は当然のように千夏の隣に座り、体を寄せてきた。

「ちょ、ちょっと、何で密着するんだよ」

「ふふふ、いいからいいから。絞るの手伝ったげる」

 美葉は両手の指をうねうねと動かした。それは悪質なマッサージ師のようないやらしい動きだった。

「その指の動き、明らかに水を絞る動きじゃないだろ!」

「大丈夫、大丈夫、大丈夫……?」

「何で最後疑問形?」

「ごめんごめん、気にしないで気にしないで。まあ落ち着いて」

 美葉はそう言って、千夏の体をなで回してくる。

「ちょっと、どこ触ってんだよ」

「ほら~、じっとしてて。水絞れないでしょ」

 美葉はそう言って、千夏の腰のあたりに手を添えた。

「う~ん、千夏っちって、意外とエロい体してるんだよねー。こう……、スリムなのに、胸もそれなりに大きくて、太もも締まってるし、ウェストもすごい細い」

「こ、こら、脱がすな、近づくな、乗っかるな!」

 美葉は千夏のブラウスのボタンを外そうとしてくる。慌てて抵抗したが、美葉はそんなのお構いなしに、千夏にのしかかってくる。

「ふふふ、柔らかそうなくせ毛もキュートだし、ぱっちり二重で、控えめな唇もカワイイんなー。う~ん、すごくイタズラしたくなっちゃう」

 美葉は千夏の顔を両手で挟んだ。

 いつの間にか体を乗り出して、美葉は完全に千夏に覆い被さっていた。美葉は瞳を潤ませて、顔をじっと近づけてくる。さすがに耐えられなくなった千夏は美葉の肩を掴んだ。

「いい加減にしろ!」

 千夏は後ろに倒れ込み、足で美葉の体を持ち上げてプールに投げ飛ばした。柔道の巴投げだ。技は綺麗に決まり、美葉は頭からプールに落っこちた。

「ぷはっ、千夏っち、何するの」

千夏投げ( エターナルシュート)だ」

「ただの巴投げじゃない! 投げ飛ばすなんてひどいよ」

「美葉は放っておくとどんどんエスカレートするからな。今日は久しぶりに危なかった」

「うう~、わたしがまとわりつくのは千夏っちだけなのに……」

「あたしだけでもダメ!」

 千夏が言うと、美葉はしゅんとなった。しかしこれは一過性のもので、一時間もすればまたベタベタと抱きついてくるようになる。


 人気者の美葉の唯一の欠点は、千夏に対する過度のスキンシップ癖があるということだ。それは一度始まると叩くなり投げ飛ばすなりしないと止まらない。

 何故か美葉がターゲットにするのは千夏だけで、千夏は美葉の暴走を止めるのにいつも苦労していた。

 脱がされかけた制服を直すと、美葉は上目遣いで千夏に訴えかけた。

「だって、一人でプールにいて寂しかったんだもん」

「そうやって演技したってダメ。急に『もん』なんて変な口調で喋ったって、騙されないぞ」

「『もん』なんて言ってないもん!」

「言ってるよ!」

「ちぇ、今回は水菜っちみたいなかわいい系で攻めてみたけどダメか……」

 美葉は小声でぼやいて、ラッコのように水を背にして体を浮かべた。水泳部だけあって、泳ぎはお手の物だ。美葉はぐるぐると円を描くように水面を泳いだ。

「美葉は、今日は水泳部の練習?」

「そーだよー。偉いでしょ」

「そうだな、偉い偉い」

「じゃあイタズラさせてくれる?」

「じゃあって何だよ! ダメだよ」

 千夏が言うと、美葉はふくれ面で水中に潜ってしまった。


 美葉の所属する水泳部は規律に厳しい部だった。

 部指定の競泳水着でないと、練習の参加も、大会への参加も許可されない。体育の授業で着るスクール水着では、練習に参加出来ないのだ。

 水泳部一年生の美葉も例外ではなく、ちゃんと指定の競泳水着は持っていた。

 しかし、その水着は二日前に更衣室荒らしの手によって盗まれてしまったのだ。

 肝心の競泳水着が無いと練習に参加出来ず、美葉はこうして一人の練習を余儀なくされていた。

 中学時代から水泳部で慣らした美葉は、一年生の即戦力として期待されていた。それだけに、今回の騒動は美葉にとっても水泳部にとっても大きな痛手だった。

 美葉はプールから上がって、千夏の隣に立った。

「冗談はさておき、千夏っち、早く着替えないと本当に風邪ひいちゃうよ」

 美葉に言われて、千夏は自分の制服をつまんでみた。

 一分の隙が無いほど濡れている。乾くまでには相当時間がかかりそうだ。

「着替えたいのは山々なんだけど、持ってきてないからな、着替え……」

 千夏は肩を震わせた。水に濡れたままだと、夏とはいえ寒い。

 そんな千夏に、美葉はからりとした口調でこう言った。

「あ、それなら大丈夫。わたしのジャージ貸してあげるから」

「え、いいの?」

「もちろん! シャワー室もあるから、ちょっと浴びてきちゃいなよ」

「ありがとね。ちょっと制服乾くまで借りるよ」

「うん、ちゃんと返してね」

「当たり前だよ、ちゃんと洗濯して返す」

「いい、いいの! 洗濯はいいの! 洗濯しないほうが、ね? ……ぶひっ」

「ぶひ!?」

「あ、何でも無い何でも無い。心の声。さあ、行こう行こう! 楽しい楽しいシャワー室!」

 美葉に押されるようにして、千夏はシャワー室へ連れ込まれた。



      ◇◇◇



 案内されたシャワー室で、美葉は水着姿のまま鼻歌を歌っていた。

 室内は意外に広かった。三つほどシャワー台が備え付けられており、大きめの浴槽までついている。千夏は足下に気をつけながら、そろそろと歩いた。

 濡れた制服と下着は脱衣所に置いてきて、タオルは美葉のものを借りた。美葉はシャワー片手に温水の調節をしている。

「ほらほら、座って座って」

「何で美葉まで入ってくるんだよ」

「いいじゃんいいじゃん。せっかくなんだし。私が体洗ってあげる」

「いいよ、練習に戻れよ」

「いいのいいの、休憩休憩。ほらほら、洗っちゃうよ」

 美葉は丸いお風呂椅子を置いた。

 千夏がそこに座ると、美葉は頭上からシャワーを浴びせてきた。一瞬首を竦めたが、冷えた体に温かいシャワーは気持ちよかった。首筋をお湯が伝っていく。

「さ、力抜いて……、背中流してあげる」

 背後に立っていた美葉は千夏の肩に手を置いた。

「だから、一人で出来るっつうの」

「そんなこと言わないで……。ね?」

 美葉は千夏の背中に胸を押しつけてきた。

 水風船のような弾力のある感触が背中から伝わってくる。

 その体勢のまま、美葉は千夏の耳元に息を吹きかけてきた。千夏は身震いし、反射的にシャワーを奪って美葉の顔に向けた。

「きゃっ! 千夏っち、も~う、何するの」

「少し頭を冷やせ」

「じょ、冗談だってー。……半分はね」

「半分なの? 全然信用出来ないよ!」

 千夏はシャワーの勢いを強めて、美葉を追い払った。美葉は口先を尖らせながら、千夏から離れていった。とりあえず安全な間合いを確保して、千夏は洗面台に手を伸ばした。

「本当に手伝わなくていいの……?」

 美葉は少し離れた位置からじろじろとこちらを見ている。

「美葉に任せておいたら何されるかわからないし」

「そんな、わたしは全然淑女よ。最初だからゆっくり時間をかけて千夏っちの全身を洗って、それから……」

「はいはい、わかったわかった」

 美葉がよからぬ妄想を始めたので、千夏はそれを無視して体を洗い始めた。

「でも、やっぱり場所は保健室がいいかな。千夏っちには白衣を着てもらって、わたしは聴診器で上から順番に――」

 美葉はまだよくわからない妄想を続けているので、千夏は放っておくことにした。

 妄想で気が済んでいる内はまだ良い方だ。今のうちに体を洗ってしまおうと、千夏はシャンプーを泡立てて髪の毛に馴染ませた。

 その時、千夏はシャンプーの泡から覚えのある香りがするのに気がついた。

「あれ、このシャンプーって……」

 千夏は泡を指で取ってにおいを嗅いでみた。

 そこからは青リンゴのような爽やかな香りがした。それは昨日、少女の髪から香ってきたものとそっくりだ。

「ねえ美葉。このシャンプーって、水泳部のみんなも使ってるの?」

「えっ、どうしたの、そんな事聞いて。たぶんみんな使ってると思うよ。まあ、自分用のシャンプーを持参する子も多いけど」

「あのさ、変な事聞くようだけど、水泳部にこんな子いない? 小学生みたいに背が小っちゃくて、目がじとーってしてて、短めの髪が片側だけハネてて、ぼそぼそと喋る変わった子」

 千夏は昨晩見かけた例の少女の特徴を挙げてみた。美葉は顎に手を当てて考えている。

「んー……、背が低くて、ジト目で、髪の毛が跳ねてる……」

「やっぱりいない?」

「あー、心当たりはあるけど、あれかなー」

「心当たりって、だれだれ?」

「幽霊」

 美葉はさらっとした口調で言った。

 千夏の手が止まった。眉間を伝って鼻先に泡が流れ落ちてくる。

「幽……霊……?」

「そうそう、知ってる? プールサイドに現れる幽霊の噂。 夜に人影を見たって報告があってね、それの特徴がちょっと似てたから」

「夜に人影って……」

「あーっ、千夏っち信じてないでしょ。本当だよ、最近プールサイドの備品が無くなったり、用具室が開かなくなったり、変わったことが多発しているんだから。水泳部の間じゃ噂だよ。幽霊が現れるようになったって」

 その時、千夏の脳裏に浮かんだのは、昨日出会った少女の顔だ。

 確かにあの少女は独特の雰囲気があった。

 フランス人形のように無表情で、口数も少ない。幽霊だと紹介されても、きっと納得してしまうだろう。よくよく思い返してみれば、おかしな所がたくさんある。

「千夏っち、何か心当たりあるの?」

「あ、いや、ちょ、ちょっとね……。はは」

 千夏は引きつった顔で笑ったまま、蛇口を捻った。頭からお湯を被り、髪の毛についた泡をシャワーで洗い落とした。千夏の中で、謎は大きくなるばかりだった。

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