ロケット日和(5)
一晩明けてやってきた土曜日を、千夏は憂鬱な気持ちで迎えていた。
土曜といえば、学校で使い切った気力、体力を回復させる日だ。
予定を立てて出かけるのもいいし、一日中家に籠もってインターネットに興じるのもいい。ゲームも悪くないし、突発的に誰かの部屋に遊びに行って一日中くだらない話を続けていたっていい。
しかしそんな自由な土曜日も、今日に限っては問題事で埋まりそうだった。
「それで、奈留の具合はどう?」
「体は大丈夫だと思いますけど、やっぱり精神的に不安定になってるみたいです」
千夏の目の前には並木水菜が座っていた。
水菜は洗面器にタオルを浸していた。水の張った洗面器には大きめの氷がいくつも浮いている。水菜はタオルをきつく絞ってから、ベッドに眠る奈留の額にそっと置いた。
「悪いね。部屋とベッド、占領しちゃってさ……」
「私は全然平気です。それよりも奈留さんのことが心配で……」
水菜はそう言って、奈留の掛け布団を直す。
千夏は「あおい寮」と呼ばれる白丘学園の学生寮で暮らしている。
水菜と奈留とはクラスメイトであり、同じ寮の隣人同士でもあった。
昨日の夜、火の玉を見たと言って気絶した奈留を寮まで運んだのは千夏で、その看病を自ら買ってでてくれたのが水菜だ。
「それにしても奈留のやつ、水菜の気も知らずぐっすり寝てるな。髪の毛を鼻にねじ込んでやろうか!」
「そ、そんなことしたら奈留さんに怒られますよ。とりあえず奈留さんの様子も落ち着いたことだし、千夏さんもそろそろ一休みしたほうが……。昨日はちゃんと寝られましたか?」
「バッチリだよ、あたしなら全然平気。気にしない気にしない」
千夏はからりとした口調で言った。
ベッド下の床には、タオルケットが一枚落ちている。千夏はそれを四つ折りに畳んで、水菜に手渡した。
奈留はプールサイドで倒れてからずっと水菜のベッドで眠り込んでいた。千夏は奈留の見張りを兼ねて、ベッドの側でタオルケットにくるまって一晩過ごした。
目を離すと、奈留が暴れ出す危険もあったし、水菜の負担を減らしたいと思ったのもある。幸い、奈留が暴れ出すこともなく、無事朝を迎えることが出来た。
「ちょっと休憩しましょうか。今、お茶淹れますね。そのあたりに座ってくつろいでいてください」
水菜は絨毯の上にクッションを置き、小走りでキッチンへ消えていった。
「水菜、あまり気を遣わなくていいよ」
「いいえ、せっかく千夏さんが来てくれたんだし」
水菜はそう言って、いそいそとお湯を沸かし始めた。
水菜の部屋は女の子の模範ともいえる部屋だった。
パステルピンクの絨毯にハート型のクッションが三つ。これは頻繁にお邪魔する千夏と奈留の分だろう。その色合いも可愛らしかった。
床にはゴミ一つ落ちていないし、窓にかけられた花柄のカーテンからは、ほんのりと甘い香りがした。
キッチンから戻ってきた水菜は、手際よくティーセットをテーブルの上に並べた。そして陶器のティーポットを傾け、上品な仕草で紅茶を注いだ。
「はい、どうぞ」
「ありがと。いや~、悪いね、いつもいつも」
「いいえ、そんなことないです。千夏さんに頼ってもらって、その、嬉しいです……」
水菜はやわらかい微笑みを浮かべた。まるで水菜のまわりだけ花が咲いたように見える。「愛くるしい」という言葉は、水菜のような女の子を表現する時に使うのだと、改めて思った。
まさに妹にしたくなるようなタイプの女の子。高校からの付き合いではあるが、水菜に対する信頼は奈留より深いかもしれない。
おっとりした性格、愛らしい瞳、小柄な体の割に豊満なバストの持ち主でもある。その全ての要素が奈留と正反対に出来ている。
水菜はティーカップを両手で挟むようにしてお茶を飲んだ。そしてティーカップをテーブルの上に置いてから、千夏に向かって尋ねた。
「ちなみに、奈留さんが見た火の玉って、一体どんな火の玉だったんですか?」
「実はね、あたしも現場を見たわけじゃないんだ。悲鳴を聞いて駆けつけたら、奈留が火の玉を見たって騒いでいたんだよ」
昨晩、千夏が奈留の元に駆けつけた時には、奈留はすでに何かを目撃した後だった。
一晩経った今でも、それが本当に火の玉なのかどうかはわからない。しかし、あの取り乱し方からして、何かを目撃したのは間違いなさそうだ。
「ライトか何かと見間違ったんでしょうか」
「多分そんなところだと思うんだけどな。でも、な~んか引っかかるんだよな」
「何か思い当たるところがあるんですか?」
「実はさ、昨日、屋内プールの周辺で変な子どもに会ったんだよ」
千夏は給湯室にいたパジャマ姿の少女の事を水菜に話した。
更衣室荒らしのあった女子更衣室に潜んでいた事。校内の一室でパジャマを着てくつろいでいたこと。奈留が火の玉を見る直前に、部屋を出て行ったことなど。
千夏の語る一通りの顛末を、水菜は口元に手を当ててじっと聞いていた。
「水菜はこの火の玉の事、どう思う?」
「えっ、私、ですか?」
「うん。参考に水菜の予想を聞かせてよ。水菜の推理、結構頼りにしてるんだよ」
「そんな、頼りにされるほどのことじゃ……」
千夏が言うと、水菜は照れくさそうに俯いた。頬がほんのり赤く染まっている。照れ屋の水菜は、ちょっとした事で俯いて顔を赤くしてしまうのだ。
このように、少し人見知りな水菜は一見頼りない女の子と思われがちだ。
しかし、そのおっとりとした容姿にそぐわず、水菜はとても頭が切れる。
物知りで頭の回転が早く、推理能力に長けている。謙虚で自分の能力をひけらかすような真似もしないので、この事実を知っているのは奈留と千夏くらいだ。
面倒事に首を突っ込みがちな千夏は、よく水菜に助言を聞きに来る。
「あの……、その、推測ですが、誰かが仕組んだ可能性は高いと思います」
水菜はそう言って話し始めた。
「最初は奈留さんの見間違えかとも思ったんですが、千夏さんの話に出てきた女の子が、まるで火の玉が起きるタイミングを知っていたかのように出て行ったのが引っかかるんです」
水菜は首を捻っていた。
実は千夏も同じ事を考えていた。あの時、例の少女は「そろそろかな」と思わせぶりな一言を呟いた。今考えれば、それはまるで何かが起きるのを予期していたようにも思える。
「それと、千夏さんは女子更衣室で掃除ロボットを見かけたと言っていたじゃないですか」
「うん、見た見た。ピラミッド型のあいつが更衣室の掃除を始めてたよ」
「それなんですけど、本来、掃除ロボットは、月曜から木曜は夕方十六時からの十分間、金曜日だと夜の二十一時からの三十分間でスケジューリングされているはずなんです。だから本当なら昨日の十九時に更衣室の掃除ロボットが動いているはずはないんですよ」
「えっ、そうだったの?」
「はい、スケジュールが変わって無ければ、なんですけど……」
「じゃあ、更衣室の掃除ロボットを動かしたのも、あの女の子のいたずら?」
「そこがちょっと自信は無いんです……。すいません」
水菜は頭を下げた。
さらさらした髪の毛が揺れる。髪はつやつやしていて、小さくて形の良い頭はとても可愛らしい。
「ううん、ありがとう水菜。参考になったよ」
千夏がそう言って水菜の頭を撫でた。
水菜を見ていると、本当の妹のように思えてくる。頭を撫でられた水菜は、顔を赤くしてしまった。
「ち、千夏さん、子どもじゃないですから、撫でないでくださいよぅ……」
「ああ、ごめんごめん。水菜は可愛くて頼りになるな~、と思ってさ。それに比べて……」
千夏は奈留の様子を見た。
奈留は眉をひそめ、なにやら苦しそうに唸っていた。千夏が耳を近づけると、奈留は寝ぼけた声を出す。
「う~ん……、千夏のヒゲ……、ナマズ……、赤い……、イボ……?」
「何だよその寝言! あたしのヒゲとナマズがどうしたの? 赤いイボって何?」
「千夏さん、こ、声が大きいです。奈留さん起きちゃいますよ」
危うく奈留を揺り起こすところだったが、水菜に制止され、慌てて手を引っ込めた。
奈留は顔をしかめたまま寝返りを打つ。よっぽど嫌な夢を見ているようだ。
「いろいろ不安なんですよ。幽霊の正体とか……」
「それで妙な夢を見てるわけか」
千夏はもう一度奈留の横顔を見て、軽く咳払いをした。
時計を見ると、午前十時を回ったところだった。千夏は一つため息をついた。
「……面倒くさいけど、仕方ないな」
千夏はそう言って、紅茶を飲み干した。