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ロケット日和(4)

 プールサイドの掃除を終えた二人は、中央棟へ続く通路を歩いていた。

 中央棟は高等部の一年生から三年生の教室がある。その中央棟と屋内プール、体育館を繋げているのが、この通路になる。

 広い通路で、ダンプカーが通れるくらいの幅があった。アーチ状の天井には、ランプ形の電灯が提げられている。廊下の電灯は自動点灯式で、千夏たちが歩くとセンサーが検知し、勝手に明かりが点灯する仕組みになっていた。

 この時間になると、さすがに残っている生徒はいない。広々とした静かな通路に、二人の足音だけが響いた。

 そこでふと千夏は立ち止まり、前を歩く奈留を呼び止めた。

「お~い、奈留、奈留。帰る前にここ寄ってかない?」

 千夏は通路の途中にある入口を指さしながら言った。千夏が指さす方向には、更衣室荒らしが起きた問題の女子更衣室がある。

「なんだよ、更衣室を調べても何も出てこないだろ」

「わかってるけど、一度くらい現場を見ておきたいんだって」

 千夏はそう言って奥へと入り、女子更衣室の扉の前にしゃがみ込んだ。何気なくドアノブを捻ってみたが、ドアノブは固定されていて、ぴくりとも動かなかった。

「う~ん、やっぱりちゃんとロックかかってるよな……」

 扉のすぐ横には、カードの読み取り機が設置されている。奈留は制服のポケットから学生証を取り出し、読み取り機に重ねた。ピッという電子音の後に、錠の落ちる音が聞こえる。

「当たり前だ。更衣室の扉が壊れてたら問題だろうが」

 奈留がドアノブを捻るとすでにロックは解除されており、扉はすんなりと開いた。

「やっぱり入館システムは問題なし、と」

 千夏は言った。


 白丘学園はセキュリティが配慮された学校だ。

 特定の教室には入室制限がかけられており、入館証を通さないとロックは解除されない。

 千夏たちの場合、学生証がその入館証がわりになっていた。さっきのようにカードの読み取り機に学生証を重ねることで、許可された区画なら自由に出入りできるようになっている。

 個人の入室情報も記録されており、後から調べれば誰が何時に出入りしたかはすぐにわかるようになっていた。

 今回、更衣室荒らしで最も謎とされているのが、この入室記録についてだった。

 本来なら、更衣室荒らしが起きた時刻(七月十五日の十四時付近)を調べれば、犯人はすぐ判明するはずだった。

 しかし、事件の後、教員が記録を調べても、更衣室荒らしがあった時間帯の入室記録は全く残っていなかったという。犯行のあった時間にこの扉を開けた人間はいないにも関わらず、更衣室の物品は奪われている。その謎が未だに事件解決に至っていない要因らしい。


「中も調べてみるか。失礼しますよっと」

 千夏は更衣室に入り、室内の電気を点けた。

 室内は明るくなり、ずらりと並ぶロッカーの列が浮かび上がった。教室ほどの広さがある更衣室は、綺麗に整頓されている。

 ぱっと見て変わった所は見あたらない。千夏は何気なくロッカーを開けたり、床にしゃがみ込んだりしてみたが、それでも同じだった。

 奈留はせわしなく更衣室を調べる千夏の頸動脈を指で挟んだ。

「ほら、わざわざ入って調べるほどのことでもないだろ。何も異変はないっての」

「ちょ、ちょっと、人の頸動脈を掴まないで!」

「気が済んだろ、さっさと帰るぞ」

「わかったよ、もう……。っていうか何でそんなに正確に人の頸動脈を掴めるの?」

「小さい頃、家で習ったんだよ」

 奈留は言った。「どんな家だよ!」と言いかけたが、千夏は言葉を飲み込んだ。

 更衣室については事件後に教員たちがちゃんと調べている。そこで何も発見されなかったのだから、千夏がちょっと調べて新しい事実が判明するはずがない。

 千夏は諦めてその場から立ち去ろうとした。

 しかしその時、背後から僅かな物音を聞いて立ち止まった。

「ん、誰かいる……?」

 部屋の奥から何かがぶつかるような音が聞こえた気がして、千夏は振り返った。

 どうも部屋の奥に誰かが潜んでいるような気配がする。

 こんな時間に生徒が残っているのは不自然だし、そもそも部屋に入った時は電気は点いていなかったはずだ。

「ねえ奈留、この部屋に誰か隠れてない?」

「な、何だよ、急に変な事言うなよ。誰もいないはずだろ」

「いや、物音が聞こえたからさ」

「おいおい、だから変な事言うなって」

「う~ん、案外幽霊だったりして」

 千夏はからりとした口調で言った。

 夜の学校といえば、そういう怪談話にはうってつけのシチュエーションだ。好奇心旺盛な性格も手伝って、千夏は奥の様子をうかがうことにした。

「よ~し、ちょっと見てきてみるか」

 千夏そう言って、音のする方へ進もうとした。

 しかし、一歩進んだ所で、急に後ろに引き戻された。何事かと振り返ってみると、奈留が千夏のスカートの裾をしっかりと掴んでいた。

「……何してんの? 奈留」

「ちょ、ちょっと待て。一人で行こうとするな」

「じゃあ奈留も来なよ。いつものように先陣を切ってさ」

 千夏は奈留の背中に手を回したが、奈留の体は岩のように固まっていてびくともしなかった。

「ち、千夏が先に行け。これは命令だ!」

「ええ~、何それ!」

「うるさい、早くしろ! 動脈ねじ切るぞ」

「ひぃぃっ、わかったよ先に行くよ。ぞっとする発言するなあ、もう……」

 千夏は奈留に言われるままに、ロッカーの並んだ列を一つ一つ見まわりながら先へ進んだ。

 会話が途切れると、更衣室の静寂が際立った。

 その静まりように、一瞬聞こえた物音も気のせいではないかと思ってしまうほどだった。千夏は一歩一歩、地面を確認するようにして歩く。

 というのも、さっきから奈留が千夏のスカートを掴んだまま離さないからだ。

「ねえ奈留……、いい加減にスカート離してよ。下着が見えちゃうよ」

「な、べ、別に掴んでねえし!」

「掴んでるよ! 何でそんなすぐバレる嘘つくの?」

 千夏は立ち止まり、そっと奈留の手を払った。奈留は渋々手を引っ込めた。

「よし、気を取り直して行くか」

 千夏は改めて先へ進もうとする。

 しかし今度は奈留に右腕をしっかりと捕まれた。奈留は千夏の腕を両手で抱え、思いっきり体を押しつけてくる。

「あの……、しがみつかれると歩きにくいんだけど……」

「う、うるせえ、しがみついてねえし!」

「しがみついてるじゃん! もう、さっきから何なの?」

「いいから、先に行けっ! 先に」

「……まあいいか」

 奈留は千夏にぴったりと体をくっつけてくる。腕から奈留の体温が直に伝わってくる。一歩進むたびに千夏の腕を締め付けてくるので、二人三脚をしているようでとても歩きにくかった。

 耳元で奈留の息づかいを感じながら、ゆっくりとした足取りで奥へ進む。

 奥へ行くにつれて、やはり誰かが潜んでいるような気配は強くなっていった。

「ねえ奈留、やっぱり誰かいない? ちょっと確認を――」

「大丈夫大丈夫大丈あたしは夫大丈夫全然大丈夫大丈夫問題ない大丈夫大丈夫」

「何か唱えてる~っ! ちょっと、人の話聞いてよ、ほら先行こうよ!」

「聞こえない聞こえない何も聞こえない聞こえない全く聞こえない聞こえない」

「聞けよ! あたしが嘘ついてるみたいじゃないか」

 千夏は腕にしがみつく奈留の体を揺すった。その時、千夏は足下に落ちていた空き缶を蹴飛ばした。乾いた音が床に響き、奈留は悲鳴をあげて千夏に抱きついた。

「ひぃいいいっ」

「ちょっと、奈留、くっつくな! 空き缶蹴飛ばしただけだよ。押すなって!」

 奈留に押されて、千夏は壁に手をついた。そこには電灯のスイッチがあり、千夏は誤ってスイッチを切ってしまった。その瞬間、室内は暗闇に切り替わる。

「あ、電気消しちゃった 奈留ごめ――」

 千夏が謝ろうとしたが、それを奈留の絶叫が遮った。

「なまああああああああああああああぁぁっ!」

「えっ? な、何? 生……?」

「くそ、幽霊の野郎! 電気消しやがった! ちくしょう! どこだ、幽霊! コラァ」

 突然奈留は暴れ始めた。拳の風圧が千夏の髪を揺らし、慌てて奈留から離れた。

「おい奈留、落ち着け! 幽霊じゃないって、今のはあたしが間違って電気を――」

「お前、お前かっ! じゃあお前が幽霊か! よくもこれまで騙してたな」

「違うよ! 落ち着け、興奮しすぎだ、このバカ」

「そこか!」

 奈留は正拳突きを繰り出した。拳が千夏のこめかみをかすめていった。

 千夏の手の甲に髪の毛が数本落ちる。拳圧で髪が切れたようだ。

 それに気づいた千夏の背筋が凍った。こんな攻撃をまともに食らったら死んでしまう。千夏は暴れる奈留をかいくぐって、電灯のスイッチを入れ直した。部屋が明るくなると同時に、奈留は動きを止めた。

「電気、点いたか。幽霊、幽霊の野郎はどこだ?」

「な、奈留、落ち着け。幽霊じゃないよ。あたしが間違って消しちゃっただけだから……」

「本当か、幽霊じゃないのか」

「そうだよ、だから落ち着け」

 千夏は息を切らしていた。そして床にぺたんと座り込んだ。

「そうだ、奈留はオカルト苦手だったんだっけ。すっかり忘れてたよ……」


 奈留は昔から、幽霊や怪現象の話が大の苦手だった。

 中学校時代は、奈留の近くでお化けの話をすると喉を潰されるという逸話(そっちの方がよっぽどホラーだが)が広がっていたほどだ。

 どうしてそこまで幽霊を怖がるかは未だにわからない。とにかく奈留はオカルト系の話には過敏に、そして暴力的に反応するのだ。千夏からしてみれば幽霊よりも奈留の方が数倍怖い。

「嘘だ。いるんだろ幽霊、幽霊はどこだぁ……」

 奈留はまだ戦闘態勢を解かない。迂闊に間合いに入れば流血必至だろう。

 千夏は奈留をなだめるように声をかけた。

「な~る、大丈夫だって、幽霊はいないよ、だから落ち着け」

「お前! 誰かいるって言ったろうが!」

「いや言ったけど……、きっと幽霊とかじゃないよ。たぶん不審者だ不審者。ほら、ナイフを持った暴漢とか」

「うん、まあ、そっか、ならいいか……」

「それで納得するの!?」

 普通はナイフを持った暴漢のほうが怖い気がするが、奈留の物事のとらえ方は常人のそれとは少しずれているようだ。

 千夏はまだ興奮冷めやらない奈留の背中を押した。

「よ~し、帰ろう奈留、さあ帰ろう。アイス奢ってやるから」

「何だよ、誰かいるって言ったろ。それを確かめるって」

「ああ、気にしない気にしない。ただの不審者不審者。そっとしておいてあげよう」

 確かに物音の正体は気になるが、奈留をこの状態のまま放置しておくほうが危ない。

 千夏は奈留を押して出口に向かって歩いて行く。

 すると、千夏の上履きが再び何かを蹴飛ばした。

 足下を見てみると、そこにはピラミッドの形をした変わった機械があった。

「な、今度は何だぁ!」

 奈留は再び叫ぶ。

 千夏の足下では、不思議な機械がうごめいている。体を回転させながら、その機械は床を塗りつぶすように動いていた。

「奈留、落ち着け。これは掃除ロボットだよ」

「掃除ロボット~?」

「この学校で使われている清掃システム。生徒のいない時間に自動で掃除してるんだよ」

 千夏はそう言って足下の機械を拾い上げた。

 ピラミッド先端の電源ランプは緑色に点灯し、二本のアームがうねうねと動いている。

 床に下ろすと、掃除ロボットは千夏の足下を動き回った。かすかに聞こえるモーター音は、床のほこりを吸い込んでいる音だ。

「な、普通の掃除ロボットだろ? 決して幽霊じゃない」

「まあ、そうだな……、うん。ロボットは幽霊にならないしな」

 掃除ロボットは床に落ちた空き缶を器用にアームで拾い上げた。

 ピラミッドの頭部が開き、拾い上げた空き缶はそこに収納される。掃除ロボットはとても良く出来ていて、壁の掃除もしてくれる上に、落とし物まで拾ってくれるのだ。

 白丘学園ではこの掃除ロボットを使った自動清掃システムを試作的に導入している。

 毎日、生徒のいなくなる時間帯になると、この掃除ロボットが稼働し各フロアの掃除をしてくれる。これで掃除の手間はだいぶ少なくなったらしい。

「じゃあ千夏が聞いた物音もこのロボットか?」

「う~ん、こんな機械音じゃなかったような……」

「じゃあ幽霊だな」

「ああ、違う違う嘘嘘嘘。そうだ、これだったよ~。うん、これに間違いない!」

 千夏はそう言い切った。

 実際のところ、千夏の聞いた物音と、掃除ロボットの機械音はだいぶ違った気もするが、この場で奈留に言うことではない。

「さあ、とりあえず帰ろう帰ろう。ね?」

 千夏は奈留を押し出すようにして出口へ向かう。

「わかったから、離せよ」

 奈留は千夏の両手を払った。

 とりあえず奈留の興奮は収まったように見えた。その反応に安心し、ほっと胸をなで下ろした。しかしその安心も束の間、次の瞬間、再び室内の電気がぷつりと消えた。

「おい千夏、またお前か。次やったら怒るからな」

 奈留は千夏の背中を叩いた。

 暗闇の中で、千夏はゆっくりと顔を上げる。息を潜めて周囲の様子をうかがう。更衣室の中には、掃除ロボットのモータ音だけが響いている。停電かと思ったが、そういう訳でも無さそうだ。

 千夏は小声でつぶやいた。

「……いや、あたしは何もしてないぞ」

「え……?」

 千夏の言葉を聞いて、奈留は固まってしまった。

 その時、更衣室の扉が開き、入口から何者かが出て行くのが見えた。

 一瞬の出来事だったので、その姿形は捉えられなかった。かなり慌てているのだろう。更衣室から出て行ったそいつの足音はあっという間に遠くなっていった。

「やっぱり誰かいたぞ! 今、部屋を出て行った」

「こ、この部屋に?」

「ちょっと捕まえてくる!」

 千夏はそう言って更衣室を飛び出した。



      ◇◇◇



 更衣室から出た時には、すでに廊下に誰もいなかった。

 相手はかなり足が速いようだ。しかし幸いなことに、自動点灯式の電灯がターゲットが進んだ方向を示してくれていた。千夏は照明が灯っている方向へ走った。

 しばらく走ると、廊下の途中で照明は消えていた。立ち止まり、周囲を覗った千夏は、一つの扉を発見する。

 その扉だけ中から光が漏れていた。誰かが中にいる。状況から考えて、ここに入り込んだ可能性が高い。

 千夏は一呼吸置いて扉を開いた。

「動くなっ! もう逃げ場はないぞ!」

 扉を開けると同時に千夏は叫んだ。

 部屋の中を見渡す。千夏が踏み込んだ部屋は、畳が敷かれた四畳間となっていた。

 部屋の中央にちゃぶ台と座布団が置かれている。ちゃぶ台には湯飲みが置いてあり、そこから白い湯気がたっていた。

 そして座布団の上に、一人の少女が座っていた。

 千夏はぽかんとその場に立ち尽くしていた。というのも、目の前に座る少女が、ひどく場違いな格好をしていたからだ。


 少女は水玉模様のパジャマを着て、頭の上にサンタ帽のようなナイトキャップを乗せていた。

 パジャマの袖も裾もかなり布が余っている。パジャマが大きすぎるというよりは、少女が小柄過ぎると表現するほうが正しそうだ。

 ぼさっとしたボブカット風の髪型。右側の髪の毛だけが、外側に跳ねていた。パンダらしき動物のぬいぐるみを抱え、不思議そうな顔で千夏の事を見つめている。

「誰?」

 ぼそりとした口調で少女は言った。

 くっきりとした二重まぶた。分度器を逆さまにしたような形の目。少女は眠そうな視線を千夏に向けてくる。

「それはこっちの台詞だ。そっちこそ、こんな時間にそんな格好で何してる」

「夜だからパジャマだけど」

「それがおかしいだろ! 何で学校でパジャマ着てるんだよ。それより、さっき更衣室に潜んでいたな。どうしてあんな所に隠れてたんだ」

 千夏が言うと、少女はぼうっと天井を見上げていた。そしてかなり長い間を置いて、ぼそりと答えた。

「身に覚えないけど」

 抑揚のないしゃべり方で、少女は答えた。

 声も見た目も子どもに近い。おそらく中等部、もしかすると学校に入り込んだ小学生かもしれない。

 しかし見た目の割に物腰は落ち着いている。はっきり言って図太いと言ってもいいくらいだ。

「とぼける気か。まあいいや。それよりお前は何故こんな所にいるんだ。中等部の生徒?」

 千夏が言うと、少女は首を傾けた。

 千夏はしばらくの間、少女の反応を待った。しかし、少女は座布団に座ったまま、ちゃぶ台の上に置かれたお茶をゆっくりと飲み始めた。

「お~い、話は終わってないぞ! 勝手にくつろぐな」

 千夏はそう言って少女が抱えるパンダのぬいぐるみを取り上げた。

「あ、P3―L003」

「な、何そのコード。このぬいぐるみの名前?」

「覚えやすいので」

「覚えにくいよ!」

 千夏は思わず叫んだ。

 少し言葉を交わしただけだが、話していると調子が狂う相手だった。返答は断片的でわかりにくく、表情がほとんど変わらないので反応も掴みにくい。

「そもそも、どうしてこんな時間にこんなところにいるんだ」

 千夏が尋ねると、少女は千夏の顔を見上げ、聞き取りにくい声で言った。

「あなたは?」

「ああ、そっか、まずはこっちから名乗らないとな。そんなにあたしの事が気になる?」

 千夏は不敵に笑った。しかし少女は千夏を無視してお茶を飲んでいた。

「お茶おいしい」

「話終わってる~! 全然こっちに興味ないし!」

 千夏は思わず叫んだ。

 怪しい。

 とにかく怪しい。

 こんな時間に校内でくつろぐ生徒なんているはずがない。そう考えた時、千夏は自然に一つの結論に行き着いた。

「さては、お前が更衣室荒らしの犯人か!」

 千夏はそう言って、ビシッと少女を指さした。

 少女は黙ってお茶をすすっている。

 千夏は少女の顔色の変化を覗おうとしたが、全くその表情は変わらない。指を突き立てたまま、少女の鼻先まで顔を近づけても、黙々とお茶を飲むのを止めようとしなかった。

「こ、この~。あくまでとぼける気か」

 千夏は歯ぎしりする。これだけ堂々とされると、こちらが萎縮してしまう。

 こうなれば力尽くでも。

 千夏が少女を連行しようとしたとき、少女は突然湯飲みを置いて立ち上がった。

「あ、そろそろかな」

 少女はそう呟くと、パンダのぬいぐるみを小脇に抱え、千夏の横を通り過ぎていった。その瞬間、シャンプーの良い香りが鼻先をかすめていった。青リンゴのような爽やかなにおい。

 千夏が振り返ると、すでに少女が部屋を出るところだった。

「ええ~っ? 何その自由っぷり! まだ話は終わってないぞ!」

「あ、鍵、しめといて」

 少女は千夏の呼び止めを無視して、部屋から出て行ってしまった。

 千夏が慌てて少女に続くと、すでに少女は廊下の角を曲がってしまっていた。

「あいつめ、どこに行くつもりだ」

 千夏は少女の後を追った。

 少女が曲がった先にあるのは屋内プールだ。

 プールで一体何をするつもりなのだろう。疑問に思いつつも、千夏は後を追って走る。

 そして曲がり角を曲がろうとしたところで、千夏の耳に女子の悲鳴が聞こえてきた。思わずその場に立ち止まる。

「この声……、奈留か?」

 声が聞こえたのは屋内プールのあたりからだ。

 千夏は急いで声のする方へ走った。

 千夏がプールの入口にたどり着くと、床に座り込む奈留の姿を見つけた。

「おい、奈留、どうした?」

 千夏は呼びかけたが、奈留は床に座ったまま、うろたえていた。

 そして千夏の方を振り向くと、プールの辺りを指さして口をぱくぱくさせた。

「ひ、ひっ、ひひひ……」

 千夏は奈留の指さす方をじっと見つめてみる。

 奈留は50mプールの真ん中あたりを指さしている。暗くて何があるかよくわからないが、特におかしな点は見あたらなかった。

「どうしたんだよ奈留。何も無いけど」

 千夏が言うと、奈留は小声で呟いた。

「火の玉……」

「えっ?」

「あそこに火の玉が出たんだよ!」

 奈留はそう叫んで、その場に気絶してしまった。


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