ロケット日和(3)
「ウチの生徒が問題を起こして、本当に申し訳ありませんでした!」
職員室に大きな声が響いた。
広々とした職員室はパーティションで仕切られており、教員のデスクがずらりと並べられている。
インスタントコーヒーのにおいが入り交じった独特の空気を、エアコンの風がかき混ぜていた。
「まあ、先生がそこまで謝ることでは……」
「いいえ、これは担任である私の監督不行届です。まさかウチの生徒が先生の車を燃やしてしまうなんて……」
「ま、まあ、ボンネットとフロントガラスが焦げただけですから……」
目の前にはジャージを着た体格の良い男が座っている。
それは学年主任の田所先生だった。くすんだ青に黄色の三本ラインのジャージは、田所の一張羅だ。
そんな田所に頭を下げているのは、千夏の担任の春日桜子先生だった。
年齢は二十代前半だと言い張っているが、おそらく三十前後ではないかと千夏は睨んでいる。桜子先生は千夏と奈留の後頭部を掴み、強引に頭を下げさせた。
「ほら、二人とも私に続きなさい! 本当に申し訳ありませんでした」
「ホントウニ、モウシワケ、アリマセン、デシタ」
「どうしてカタコトですか! ちゃんと謝りなさい!」
「まあまあ、春日先生。とりあえず謝罪はいいですから。その、きちんと指導をお願いしますよ、ええ……」
田所はしばらくの間、居心地悪そうに頭を掻いていたが、やがて部活があると言って立ち去ってしまった。
愛車が焦げたのがショックで怒る気力もないようだった。少しはげ上がった頭頂部と、曲がった背中に哀愁が漂っている。
田所が出て行ったのを見送ってから、桜子先生は千夏と奈留の方に振り返った。言いたい事を山ほどため込んでいる、そんな表情がそこにあった。
「それじゃ、ゆっくりと話を聞かせてもらいましょうか。今回の騒動は、どちらが主犯ですか! 正直に答えなさい」
桜子先生は千夏と奈留に前に立つ。
身長が低いので二人を見上げるような格好になる。桜色に薄く塗られた唇を尖らせながら、上目遣いに二人の様子をうかがっている。
奈留は一つため息をついてから口を開いた。
「そんなの決まってるだろ。もちろん千夏――」
「はい、奈留が主犯です」
奈留が言葉を言い終わる前に、千夏はきっぱりと言い切った。
「そう、天王台さん、あなたなのね」
「ちげえよ、簡単に騙されんな! 全部こいつの仕業だっつの」
「桜ちゃん、桜ちゃん、奈留は『ああ全校集会めんどくせぇ~、ゲヘヘ』といって屋上で堂々とサボってました」
「何だよ、その似てねえモノマネはっ! サボってたのはお前だろうが」
「ぎゃあああ、痛い痛い! 離せ、このゴリラ女」
奈留は片手で千夏の頭を掴み、思いっきり締め上げた。
千夏のこめかみに激痛が走る。まるで万力で頭を挟まれているようだ。奈留の馬鹿力は人としての許容範囲を超えている気がする。
桜子先生は慌てて千夏と奈留の間に入った。
「こら、二人とも止めなさい! 本当に毎回毎回あなたたちは……。そもそも、今回はどういう経緯でこんな騒動を起こしたのか説明なさい!」
「そんな~、いつも面倒事起こしてるみたいな言い方して。桜ちゃんのお茶目さん」
「いつもじゃないですか! 入学してから何度目です? 入学早々上級生と喧嘩して相手に怪我させる。水槽の魚をさばいて食べようとする。他の先生のパソコンをいじって勝手にデータを消去する。校庭で火薬ロケットを打ち上げてサッカーのゴールネットを燃やす。他にも数え切れないくらいあります」
桜子先生は自分の膝を叩いた。ストレートの黒髪が乱れている。これはかなりお冠のようだ。
「だいたい何ですかその態度は! 先生を呼ぶときは『春日先生』と呼びなさいと何度も言っているはずです。二宮さん、あなたは今悪い事をして叱られてるんですよ。もう少しそのへんの自覚をですね――」
それから桜子先生の一方的な叱責が続いた。千夏は目をつぶって、それに耐えた。
奈留の方を見ると、明らかに不服そうな顔で腕組みしている。相変わらずこういう反抗的な態度は堂に入っている。
延々と桜子先生の説教の合間を見計らって、千夏はそっと口を開いた。
「あのですね、今回の打ち上げはですね、例の騒動を解決するための狼煙なんですよ」
「例の騒動……? まさか更衣室荒らしのことですか」
「はい、それですよ、それ! 今回はその更衣室荒らしを捕まえて、盗まれた物を取り返してあげようと思ってるんです、はい」
千夏は堂々とした口調で言った。
これを聞けばさすがに桜子先生も黙るだろう。学校で起きている問題を積極的に解決しようとする生徒。我ながら素晴らしい生徒だと、千夏は自画自賛した。
桜子先生もさぞ感動しているだろうと思って、ちらりとその様子を覗うと、そこは鬼と見間違うほど目をつり上げて怒る桜子先生の顔があった。
「更衣室荒らしの件は学校側に任せておきなさいと言ったはずで~す!」
桜子先生はそう叫んだ。
その怒りように、千夏は肩を竦めた。あまりの大声に遠くのデスクで仕事していた教員が驚いて顔を上げたほどだ。
「何度かホームルームでも言いましたよね! この件は生徒が首を突っ込んでいい話じゃありません。学校側、場合によっては警察の仕事です。あなたはサボっていたから知らないかもしれませんが、全校集会でもそういう注意喚起があったんですからね」
桜子先生は千夏の耳元で怒鳴り声を上げた。
「桜ちゃ……、あ、春日先生、聞こえてます、聞こえてますから、もっとボリュームを……」
「もしかして、このところ、こそこそ校内の更衣室を調べたり、入室記録を漁ったりしているのもあなたたちですね!」
「え? そんなことやったかな……」
「いいえ、あなたで間違いありません! あなたで間違いありません!」
桜子先生は言い切った。
桜子先生は興奮すると同じ台詞を繰り返して叫ぶという変な癖がある。
もはや学校の全ての悪事が千夏のせいだと言い出しかねないテンションだった。このようにスイッチが入った状態だと、とても面倒臭い先生なのだ。
「とにかく更衣室荒らしの調査は全面的に禁止! こうした問題行動は控えてもらわないと。ただでさえ、これからいろいろあるっていうのに……」
「問題行動って、そんな……」
「少しそこで待っていなさい!」
桜子先生はそう告げて、職員室を出て行ってしまった。
千夏はしばらくの間、桜子先生が出て行った扉をじっと眺めていた。
「桜ちゃん、どこへ行ったんだろうな」
「呆れて帰ったんじゃねえの?」
奈留はあくびをかみ殺しながら答えた。
奈留は千夏が延々と叱られている間も、耳の穴をほじって退屈そうにしていた。友だちをフォローする発言を一つもしないあたりは、奈留らしいと言えば奈留らしい。
「あたしの決意表明に感激して、何かお礼を持ってこようとしてるのかな」
「今の会話でそれはあり得ねえだろ! それよりこの隙に帰ろうぜ」
奈留はもう鞄を肩にかけていた。さすが元不良、教師に従う気は初めから無いようだ。
「まあ、そうしたほうがいいかもな。桜ちゃんには悪いけど逃げるか」
千夏も鞄を手に取り、その場を離れようとした瞬間、再び扉が開き桜子先生が現れた。
「まだ帰っていいとは言ってません!」
「げ、聞いてたの?」
「聞いてましたとも!」
桜子先生は再び職員室に入ってくる。どこから持ってきたのか、桜子先生は両手にバケツを持っていた。
そして千夏の前にバケツを差し出した。中には洗剤やたわしなどの掃除用具が入っている。
「あ、掃除用品は間に合ってるんで……。気持ちは嬉しいんですがお返しします」
「別にあげるわけじゃありません!」
桜子先生は首を振ってこう言い放った。
「あなたたちには罰としてプールサイドの掃除をしてもらいますからね! そう、プールサイドの掃除をしてもらいますから!」
◇◇◇
「ああ……、面倒くさいなあ、もう。早く帰ってゴロゴロしたいのに」
「お前のせいなのに、何でこっちまで巻き込まれないとならないんだ。ったく」
奈留はデッキブラシで床を磨いていた。乱暴にこするので、奈留の足下には大量の泡が落ちている。
千夏はホースで水をかけて、奈留の足下の泡を払った。
「仕方ないだろ、文句なら桜ちゃんに言えよ」
二人は校内の屋内プールで掃除をしていた。
そこは25m用、50m用、飛び込み用のプールが三面用意されているプールで、天井は透明なドームになっている。
ドームを通して見える空は、夜になる一歩手前の淡い紺色に染まっていた。
「でもお前、本気で更衣室荒らしの件、調べるつもりか?」
「あったり前だろ。トラブルを見て見ぬ振り出来るか。だいたい他人に迷惑をかけるなんて許せない!」
「お前は、今日あたしにどれだけ迷惑かけたと思ってんだ、コラ」
奈留はそう言って千夏の右頬に拳を押しつけてくる。
「にゅにゅ……、だっれ、今回のはしょうがないじゃないか。まさかああなるとは……」
「まったく、貴重な放課後を無駄にしたし」
「奈留は部活も何もやってない、暇人のくせに……」
「お前もだろ。あたしはゲームしたり、撮り溜めておいたアニメを見たりと忙しいんだ」
「ちっ、インドアヤンキーめ……」
千夏が小声で呟くと、奈留の蹴りがすっ飛んできた。
千夏は咄嗟に体を反らして避ける。奈留の踵が鼻先をかすめていった。
「次ヤンキーって言ったら、その鼻潰す」
「発言が怖いよ! っていうか今避けなかったら潰れてたよ!」
「あ、そうか。変に血とか出されたら、床が汚れて掃除が面倒か……」
「そ、そういう問題じゃないだろ! 床の汚れとかじゃなくて……」
「ほら、いいからさっさと掃除しろ」
「言われなくてもわかってるよ!」
そんなやり取りを交わしながら、二人は黙々と掃除を続けた。
「それにしてもさ、一つ気になったんだけど、さっき桜ちゃんが言ってた、更衣室や入室記録を調べてるのって奈留がやったの?」
しばらくして千夏は思い出したように話はじめた。
「知らねえよ。お前じゃないのか?」
「え~、あたしはそんな事してないよ」
「じゃあ、お前以外にも事件を追ってる人間がいるってことか?」
「う~ん、でも、この件に関わるような生徒はいないと思うんだけどな」
千夏はそう言って考え込んだ。
今回被害に遭ったのは一年生だった。
正確に言うと、ちょうどその時体育の授業をしていた、一年一組から三組の生徒が対象になる。
桜子先生も言っていたとおり、今回の件は生徒が首を突っ込まないように、学校から注意も出ている。おそらく犯人が教員や事務員ではないかという疑惑が強いからなのだろう。
その状況下で積極的に事件解決に動くような生徒はぱっと思いつかなかった。
「まあ別に気にすることじゃないだろ。ほら、これで掃除終わりだ」
奈留はそう言ってデッキブラシで床を叩いた。早く水を流せという合図らしい。
千夏は奈留の足下にホースを向けた。
「まあ、あんまり気にすることじゃないのかな」
千夏は小声でつぶやいた。
水で流すと茶色く汚れた泡が流れていく。これで大体の床は磨き終わったことになる。
「あとは水を切って終わりかな。さっさと帰ろう」
時計を確認すると、すでに時刻は十九時近くになっていた。二人は掃除用具をしまい、プールサイドを後にした。