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ロケット日和(23)

 いつもの通学路を自転車を押して歩いていた。緩やかな坂道が延々と続いている。見慣れた道のはずなのに、夕日で真っ赤に染められた風景を見ていると、まるで知らない街を歩いているような気持ちになった。古びた自転車のホイールが回るたびにカラカラと音をたてている。

 千夏が押す自転車の荷台には、しずくが座っている。横向きに座ったしずくは、ホイールの音にリズムを取るように足をばたつかせていた。

「しずくにも見せたかったな、三時間に及ぶ香苗先生との熱い勝負をさ」

「勝負?」

「そうだよ、トランプで勝負して見事勝利して、香苗先生に一泡吹かせた話。何から聞きたい? 何でも話してやるから」

「それよりお腹すいた」

「それよりって、全然興味ないのか!」

「甘いもの食べたい」

 しずくは何かを期待するように千夏の顔を見ていた。千夏は仕方なく足を止めて、自転車のカゴに入れた鞄を探った。

「それじゃ、これでも食え」

「何これ」

「チョコレート」

 千夏は四角い箱を差し出した。

 それは水菜が持たせてくれたしずくへのお土産だった。駅前の専門店で売っている高級品。千夏が香苗先生と勝負している間に、水菜は奈留と買いに行ってくれた。

――きっとしずくさんは甘い物が好きですよ。千夏さんからもらったら、喜ぶと思います。

 水菜はそう言った。このお土産を渡すことと、しずくを駅まで送り届けることが千夏の役目だ。

「本当は帰るときに渡そうと思ったんだけど、仕方ない。水菜と奈留のお土産だぞ」

 しずくは興味津々といった様子で箱を開けた。

 四角い箱には、いろいろな種類のチョコが入っていた。しずくはそのうちの一つを手に取り、一口でほおばった。

「おいしい」

「落とさないようにな」

「うん」

 千夏は荷台が揺れないように、そっと自転車を押して歩き始めた。

 しずくは今日の夜、空港近くのホテルに泊まり、明日の朝の便でアメリカへ行く。千夏がそれを聞いたのは、香苗先生と別れて寮に帰った時だった。予想はしていたし、覚悟もしていた。それでも急な別れに思われた。

「電車の時間は平気?」

「うん、大丈夫」

「忘れ物はないか?」

「ない」

「そっか……、まあ、あたしが心配しても仕方ないんだけどな」

 ぽつりと呟いて、千夏は夕暮れの坂道を歩く。

 日は傾き、坂道は暗い影に塗られていた。歩道脇の石垣から、子どもの笑い声が聞こえてくる。何か話さないといけない。そう思ってはいるのだが、なかなか次の会話を見つけられなかった。この短い時間がしずくと話せる最後なのだとわかると、沈黙を埋める言葉さえ出てこない。

 黙り込んだまま坂道を上りきると、夕暮れに染まる街並みが見えた。千夏はその光景を目の前にして、その場に立ち止まった。

「きれいな色。こんな街だったんだ」

 しずくは目の前に広がる景色を眺めながら言った。千夏の肩に手を置いて、子どものように目を輝かせている。

「しずくは、この時間は外に出ないのか?」

「ずっと学校の中にいたので」

「なかなか悪くない街だろ」

「うん」

 なだらかな下り坂が延々と続いていて、視界を遮るものは何も無かった。

 街中を線路が走っている。長く伸びた鈍行列車が駅の影に消えていく。見渡す景色は紅茶色に染められていた。

「こんな綺麗な色の空って、一瞬で終わっちゃうんだよな」

「一瞬なの」

「そう、あと数分したら夜に追われるようにして消えちゃうんだ」

「そんなに短いんだ」

「あと少し早くても、あと少し遅くてもダメ。この絶妙な時間帯だから、いいんだよ」

 千夏は空を仰ぎながら言った。

 この空の色が紫に変わる頃、街の明かりが順番に灯り始める。昼から夜に変わる瞬間。それを見届けるとき、まるで今いる世界が切り替わったような感じがする。蝋燭の火が最後に強く光るように、一日の終わりもこうして空を輝かせて消えていく。荷台に座ったまま空を仰いでいたしずくは、ぽつりと呟いた。

「よかった」

「よかったって、何が」

 千夏が言うと、しずくはにこりと笑った。

「そんな景色を、千夏と一緒に見れたから」


 ブレーキを掛けながら、下り坂をゆっくり下りていった。しずくは街の景色を嬉しそうに眺めている。街の建物を指さして質問してくるので、千夏は一つ一つ丁寧に答えた。

「千夏、あれは何」

「あれは市内の図書館だよ」

「図書館」

「そうそう、マンガも置いてあるし、広くて居心地がいいんだ」

「千夏千夏、じゃああれは」

「あれは森林公園だよ。真ん中に市営プールがあるんだ。のびのび泳げて気持ちいいんだぞ」

「じゃあ、その公園の向こうは」

「公園を抜けてずっと進むと、白丘海岸がある。砂浜はあるけど、海水浴客はあまりいないな。でも、そこから釣り船が出てるんだ。一度乗ったけど、全然釣れなかったな」

 千夏はしずくに街の紹介をしながら歩いた。

 この街のことなら、まだまだ話せることはたくさんあった。しずくに伝えたいことも山ほどある。しかし、千夏はそれが伝えきれないことはわかっていた。わかっているのに、千夏は無意識にブレーキをかけて歩くスピードを緩めていた。

 心の隅には寂しさがつきまとっている。いくら街のことを話しても、しずくはすぐに忘れてしまうかもしれない。しずくにとっては一週間程度の思い入れしかない街。奈留のことも、水菜のことも、ウィルス騒動のことだって忘れてしまうかもしれない。そう考えると胸が苦しくなる。でも最後の時間をそんな悲しい気持ちで終えたくない。千夏は自分の気持ちを誤魔化すようにして、明るい声で話し続けた。


 道路の街灯に光が灯り、次第に駅が近づいてくる。どれだけ遅く歩いても、その終わりは誤魔化せなかった。

 そして千夏の自転車が坂を下りきった時、急に荷台が軽くなった。千夏が振り返ると、しずくは鞄を抱えて地面に立っていた。

「どうした、しずく」

「公園寄りたい」

 しずくは近くの公園を指さした。そこには小さな児童公園があった。

「公園って、時間は平気なのか?」

「まだ平気だよ」

 しずくはそう言って公園に走って行ってしまった。

「おい、ちょっと待てって」

 千夏は呼びかけたが、しずくは振り返らなかった。

「もう……、最後までマイペースな奴だな」

 千夏は頭を軽く叩いて、公園の前に自転車を駐めた。


    ◇◇◇


 二人は公園のベンチに座っていた。あたりはすでに夕闇に覆われている。公園には木々が生い茂り、夏の植物独特の濃密な香りがあたりを覆っていた。

「夕焼け空、本当に一瞬だったね」

「ああ、もう夜だよ」

 千夏は近くの自動販売機で缶ジュースを買った。二人は缶を抱えながら並んで座っていた。しずくは両手で缶を持ちながら、千夏に尋ねた。

「ねえ、松代香苗、反省してた?」

「反省か~。どうだろう、反省はしてないかも。堂々としていたもんだったよ。ああいうタイプの先生、初めてだった」

「そうなんだ」

「でも、いろいろ話が聞けて楽しかった。あまねさんの話も聞けたし」

「お姉ちゃんの?」

「そうそう。高校時代の話とかね」

 千夏は香苗先生から聞いた話を、しずくに聞かせた。

 しずくはじっと千夏の目を見つめながら、その話を聞いていた。一つエピソードを語るたびに、しずくは大きく頷く。真面目に話を聞く姿を見て、しずくが姉のことを慕っているのが伝わってきた。その珍しい反応に、千夏は何だかおかしくなって笑ってしまった。

「何かおかしいところあった?」

「いや、何でもないよ」

 しずくはきょとんとした顔で首を傾げていた。

 物事を深刻に考えない性格だからなのか、しずくには少し鈍いところがある。そこで千夏はあることを尋ねてみることにした。

「唐突だけど、しずくって誕生日はいつ?」

「七月十五日だけど」

「やっぱり」

「やっぱり?」

「いや、香苗先生がウィルス騒動を起こそうとしてたのも七月十五日だったなって思ってさ。しずくは2000年生まれだろ」

「うん」

 七月十五日。この日にも意味がある。千夏はサーバー室で見た栗原あまねのメールアドレスを思い出す。


――amane-1312FCB-happyday


 真ん中の文字列"1312FCB"を見た時、ピンと来るものがあった。

 おそらくこの文字列は16進数だ。そう仮定すると不思議な文字列にも意味が生まれてくる。出かける前、千夏は0からFの英数字で表されたこの16進数を、10進数に変換してみた。その結果はこうなる。

 "1312FCB" → "20000715"

 2000年7月15日。変換された8桁の数字は、そのまましずくの生まれた日になる。それが栗原あまねにとっての"happyday"。

「お前のお姉さん、よっぽど妹が出来たのが嬉しかったんだな」

「全然会話、繋がってない」

 千夏は香苗先生がウィルスの予告をその日に合わせてきた理由について考えてみた。

 香苗先生は否定するかもしれないけれど、結局それはただの「やきもち」なのだ。栗原あまねが大事にしている妹の誕生日に事件を予告して困らせたかった。そう想像すると、何となく納得がいった。

 千夏は大きく腕を伸ばして、公園の時計を確認した。

「もうそろそろ、時間か……」

 快速列車の時間は迫っていた。

 千夏は紫色の空を見上げる。昼が夜に変わるように、一週間の記憶が一瞬にして思い出に変わっていくようだ。千夏が空を見上げてぼんやりとしていると、しずくに話しかけられた。

「ねえ千夏」

「どうした?」

「お別れのちゅーして」

 しずくは千夏に体を寄せて、そっと目をつぶった。唐突な提案に、千夏は手に持った空き缶を落としそうになった。

「ば、バカ! 何言ってんだよ!」

「早く早く、んっ」

 しずくは目をつぶったまま鼻を突き出して、キスの催促をする。

「んっ、じゃないよ! 早く目を開けろ」

 千夏が言うと、しずくは目を開いて不思議そうに首を傾げた。

「だめ?」

「だ、だめだよ!」

「どうして?」

「どうしても! ちゅーって、おかしいだろうが!」

「なら仕方ない」

 千夏が慌てて否定すると、しずくは残念そうにベンチから立ち上がった。ようやく諦めたようだ。立ち上がったしずくは、持っていた空き缶をそっと千夏の頭に置いた。

「こらこら、あたしの頭はゴミ箱か」

「そのまま落とさないでね」

「?」

 しずくは千夏の肩にそっと手を置いた。そしてゆっくりと唇を近づけた。

 咄嗟のことで千夏は全く動けなかった。ふわりとシャンプーのいい香りがして、頬にしずくの柔らかい唇が触れた。青リンゴのような爽やかな香りは、初めて会った時と同じにおいだった。しずくはゆっくりと唇を離して、にこりと微笑みかけた。

「いろいろ優しくしてくれたお礼」

「お、お礼って」

 千夏が頭を動かすと、頭に乗せられた空き缶がベンチに落ちた。

「あ、落とした」

「そりゃ、お、落とすだろ。急に何を……」

「ほっぺにちゅー」

「それはわかるよ! びっくりするだろ」

「どうして」

「いきなりされたら、驚くし……」

「唇のほうがよかった?」

「余計ダメだよ!」

「千夏、顔が赤い」

「なっ、ゆ、夕焼けのせいだよ!」

「もう日は落ちてるけど、千夏は嬉しくない? 怒ってる?」

 慌てふためく千夏を、しずくは不思議そうに眺めていた。

「別に嬉しくないとか、怒ってるとか、そういう話では、なくてだな……。照れというか、その……」

「じゃあ嫌じゃない?」

「嫌では、ないけど」

「よかった」

 しずくはにこりと笑った。

「……そうやって、笑われると、なんか調子狂うんだよな」

「どうして」

「どうしても!」

 千夏は腕組みして、視線を逸らした。

 喜んでいるしずくを見ると、変に意識している自分がバカらしく思える。最後まで振り回されっぱなしだと千夏は思った。でも、それも嫌なことには感じなかった。

「お姉ちゃんにも時々するよ。いつも鼻血を出して喜んでくれるから」

「その反応も問題だろ……」

「でもいいお姉ちゃんだよ」

「まあ、きっといい人なんだろうな」

 千夏は一息ついた。深呼吸すると、動揺していた気持ちも落ち着いてくる。千夏はベンチに転がる空き缶を拾って立ち上がった。

「向こうに着いたら、お姉さんにもよろしく言っといて。おかげで騒がしくて楽しい一週間だったって」

「わかった。伝えておく」

 しずくはベンチの上に置いていた鞄を手に取った。そして数歩、ベンチから離れて振り返った。

「じゃあそろそろ行くね」

「一人で平気?」

「うん、大丈夫」

「そっか、じゃあ気をつけてな」

「忘れないよ、千夏のこと」

「あたしも」

「またね」

 しずくは手を振ってその場から走って行った。千夏も右手を振って、小さくなっていく友だちの背中をずっと見送っていた。

 薄闇に小さな背中が消えていく。やがてその姿が見えなくなってしまうと、千夏は倒れ込むようにベンチに座った。

「またね、か……」

 千夏はそう呟いた。声にしてみると、さほど寂しい響きには聞こえなかった。

 きっとまた会える。千夏は不思議とそう確信していた。何年後かわからないけれど、この日のことを楽しく振り返れる日が来るような気がした。そう考えると、千夏はその日が楽しみにさえ思えた。


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