ロケット日和(22)
それからしばらくの間、二人のやり取りは続いた。繰り返し砂時計を反転させ、細かい砂が何度もガラス管を行き来した。日は傾いて、教室は淡い黄色に染まっている。
テーブルにはカードの山が出来ていた。千夏の手札は残り三枚。香苗先生は残り二枚。千夏はすでに四回ダウトを宣言していた。
「ダウトは残り一回ね」
香苗先生は千夏に向かって言った。
「まあ、一回あれば十分ですよ」
「どちらにせよ、次にダウトを失敗したほうが負けかしらね」
「そうですね」
場に出された三十枚以上のカード。ダウトに失敗すれば、これらが全て手札に戻ってくる。宣言出来るダウトの数が少ない状態で、この枚数のカードを引き受けるのは無理だろう。失敗は許されない局面。順番は千夏の番だった。
「それじゃ行きますよ、"9"」
カードを出すと同時に砂時計を逆さにした。流れ出す細かい砂を眺めながら、香苗先生は言った。
「このままどちらもダウトせず、一枚ずつカードを出し合ったら私が先にあがるわね」
「そうですね、でもわかりませんよ」
千夏は強がってみたものの、ほとんど香苗先生の言うとおりだった。千夏の方が一枚手持ちが多い。こちらから何か仕掛けなければ勝ちは無かった。
「次のターンで、あたしがダウトを成功させるかもしれませんし」
「でも私が今、ダウトを成功させたら勝負は決まる」
香苗先生は場に出されたカードに人差し指を乗せた。
ちなみに千夏が出したカードはスペードのA。ここで香苗先生がダウトを宣言すれば、勝負は決まる。二人の口数は少なくなり、場には沈黙が訪れた。それは勝負が終盤に差し掛かってきた証拠に思えた。そして、止まったままの会話を動かしたのは、千夏のほうだった。
「香苗先生」
「なに、二宮千夏さん」
「栗原あまねさんって、どんな人だったんですか?」
千夏は尋ねた。しかし香苗先生は、千夏の問いかけにも眉一つ動かさなかった。質問に答えようとせず、じっと自分の爪を眺めている。
「質問はダウトをしてからにしたら?」
「世間話ですよ。答えられないような種類の質問なんですか?」
「返しが上手くなったわね。まあいいわ」
香苗先生はそう言うと、自分の爪に息を吹きかけた。
しずくの姉、栗原あまねの存在は、今回の騒動の大きなポイントだった。
本当は香苗先生が栗原あまねに予告メールを送った動機を聞きたかった。頭のいい香苗先生が、どうしてわざわざ足がつくような予告メールを出したのか疑問だったからだ。
しかしこのゲームを続けるうちに、そんな疑問は無くなっていった。それは千夏の中に、栗原あまねという人物そのものに関する興味が湧いてきたからだった。栗原あまねと高校時代の香苗先生に。
「あなたと面識もない彼女のことを聞いてどうするの?」
「ただ知りたいんですよ」
千夏が言うと、香苗先生はため息をついた。そしてちらりと砂時計を見た後、ゆっくりとした口調で話じはじめた。
「栗原あまねさんは、一言でいうと、変わった人だった」
「変わった人……? 性格とかがですか?」
「性格だけじゃなく、考え方や立ち振る舞い全て。普通の同級生とは違っていた。いつも一人でいて、でも不思議と堂々としていて」
「何だかしずくと似てますね」
「一人の世界を持っているっていうのは、姉弟共通かもね。誰と仲が良いわけでもない。クラスの中心にいるわけでもない。それなのにみんなが彼女の一挙手一投足に注目していた。カリスマっていうのかしら。彼女は自分の世界を持っていたけど、決して排他的じゃなかった」
ウィルス騒動の後で、校舎には人は残っていない。開け放した窓や、廊下の扉からも、人の声は聞こえなかった。千夏と香苗先生の二人は、そんな静かな校舎の中で、ずっとこうして向き合っている。
静かな校舎でゲームに興じるのは、学校を独り占めしているようで楽しかった。職員室で行われている緊急会議の内容さえ、千夏にとってはどうでもよかった。
「今考えれば、文化祭や体育祭、細かいイベントでも、みんなが栗原あまねさんの言葉を待っていた気がする。彼女が『よし、こうしよう!』と笑顔で言えば、みんながそれに従った。先生まで彼女に丸め込まれた」
「優等生だったんですか?」
「全然。しょっちゅう遅刻してくるし、先生とは揉めるし、授業中に変な実験して学校の備品を壊すし、正直優等生とは言えなかったかな。一度校内の入館カードを偽造したこともあってね、それは大問題になったのよ。それから、入館カードには偽造防止のコードが組み込まれたくらいなんだから」
「や、やることがダイナミックですね……」
「みんな彼女を見ていてハラハラしていた。でも……」
香苗先生はそこまで言って、言葉を句切った。
「白黒の日々で、彼女のまわりだけは色がついているみたいだった」
香苗先生はぽつりと語った。
何気ない言葉なのに、それは今まで香苗先生が語ったどの言葉よりも、千夏の胸に響いた。騙し合いの最中だから、垣間見えた一面を見逃すことが出来なかった。
「あの、それで、栗原あまねさんは――」
「ダウト」
千夏が話の続きを聞こうとすると、香苗先生は唐突なダウトでそれを遮った。
突然ゲームに押し戻された千夏は戸惑ってしまった。砂時計を見ると、すでに待ち時間は終わりを告げていた。千夏が出したのはスペードのAのまま変わらない。香苗先生は千夏の反応を覗うと、意味ありげに微笑んだ。
「――と言いたいところだけど、ここはセーフにしとく」
「……いいんですか? 偽物かもしれないですよ」
「いいわ。楽しみは最後にとっておくから」
香苗先生はそう答えた。
千夏は残り二枚になったカードをテーブルの上に伏せた。椅子の背もたれによりかかると、背中がずいぶん楽になった。いつのまにか緊張して背中が縮まっていたらしい。ずっと同じ姿勢なので、肩や首が痛かった。
次は香苗先生の番となる。普通に考えてあと二回、どちらかでダウトを成功させないといけない。香苗先生が場に出せないカードを持っている保証はない。やはり状況は千夏にとって不利だった。
「次は"10"だったわね」
香苗先生は一枚のカードを場に置いて、砂時計をひっくり返した。細かい砂が落ちて、再び会話の時間が流れ始めた。
香苗先生は自分の腕時計を確認した。
「ここまで長くなるとはね」
「そうですね、結構、時間使いましたね」
「だいたい三時間くらいかしら」
「そんなに経ってたんですか?」
「そう、予想以上だったわ」
「……でも、それももう少しで終わりなんですよね」
「もうお互い話すことも無いんじゃない?」
香苗先生が言うと、千夏は首を振った。
「いや、そんなこともないですよ」
「また栗原あまねさんのこと?」
「いや、それ以外にも。もっといっぱいありますよ」
「例えば?」
「香苗先生の高校時代とか」
千夏がそれを聞くと、香苗先生は鼻で笑った。
「楽しくて何一つ不満のない青春を送りました。これでどう?」
「全然本気に聞こえないですよ」
「あなたは意外に後ろ向きなのね。思い出を語ることに何か意味はある?、過去には戻れないのよ」
「一旦振り返らないと前に進めないこともありますよ」
「子どもの屁理屈」
「言われ慣れてますよ、そのフレーズ」
「バカみたい」
二人は淡々と言葉を交わす。
このやり取りにも慣れてきた。砂時計の砂が落ちるほど、千夏の中で香苗先生のイメージがはっきりとしてくる。それは不思議な気持ちだった。たった数時間なのに、ずいぶん長い思い出を共有していたように思えた。
「……これは、あたしの推測なんですけど」
千夏は、砂時計の砂がまだたっぷり残っていることを確認して話はじめた。
「このゲームを考えたのって、栗原あまねさんなんじゃないですか?」
千夏が言うと、香苗先生の動きが止まった。何も答えず、ただ千夏の顔をまじまじと眺めている。
「それも、しずくさんに聞いたの?」
「いいえ推測です。当たりですか?」
「……そうよ」
「やっぱり」
「ひどいゲームを考えるでしょ?」
「いや、あたしはひどいゲームだとは思えないな」
千夏はそう答えた。
わざわざ砂時計で会話する時間を設ける意味。ダウト失敗に答えられない質問を設ける意味。それは相手を追い詰めるためではなく、むしろ相手のことを理解するためではないかと、千夏は思った。
長い時間を二人で向き合い、顔を合わせてお互いの内面を晒しあう。これは栗原あまねなりのコミュニケーションだったのかもしれない。
「香苗先生はあまねさんとこのゲームをしましたか」
「やったわよ」
「やっぱり、それが聞けてよかった」
「……? どういう意味?」
香苗先生は眉をひそめている。千夏は静かな声で宣言した。
「ダウト」
千夏は香苗先生の出したカードを指さした。それは千夏が宣言出来る最後のダウトだった。香苗先生は顔色を変えない。
「いいの? これ、外れたらあなたの負けだけど」
「はい」
「そうなったら、ボイスレコーダーの録音データは私の物になる。私の自供は全部消すし、レコーダーに入ったあなたの発言は全部公開する」
「望むところですとも」
千夏は腕組みして、椅子に仰け反った。
「自信たっぷりって感じね」
「自信はないですよ、むしろ一か八かですね」
「じゃあ、どうしてそんな落ち着いた様子なの?」
香苗先生は千夏に尋ねた。もう涼しげな笑みは浮かべていなかった。覆い隠していた感情は、千夏に伝わってきた。千夏は少し前から気づいていたある事実を指摘した。
「先生は、あまねさんのことを話す時、少しだけ目元がやさしくゆるむの気づいてましたか?」
千夏が言うと、香苗先生は目を大きくした。
「それに気づいてから、香苗先生のこともっと知りたいって思ったんですよね。もうウィルス騒動なんてどうでもいいや。だからもう満足なんですよ。もし、これが当たったら、最後の質問は本当にシンプルなものにします」
「シンプルな質問?」
「正直に答えてくださいよ。もし、そのカードが"10"じゃなかったら」
千夏がそう言うと、香苗先生はゆっくりとカードを手に取った。
人差し指を角にひっかけ、カードを持ち上げた。カードは香苗先生の指を静かに離れ、パタリと音を立てて倒れた。表にされたカードはテーブルの上を僅かに滑った。
ハートのA。
香苗先生はテーブルの上にカードを置いた。
「ここから巻き返すのは無理ね。私の負け」
千夏もほっと肩の力を抜いて、自分の手札をテーブルの上に置いた。表にされたカードはクラブのJとハートのQだった。香苗先生はその手札を見て苦笑いした。
「そんな手札だったのね」
「嫌な物は最後に残しておくタイプなんですよ」
「そう、いい性格してるわね」
香苗先生はそう言って、テーブルの上のボイスレコーダーを手に取った。
「これを職員室に持ってけば全て終わり」
香苗先生はテーブルの上を滑らせるようにして、レコーダーを千夏の手元に投げた。千夏はボイスレコーダーを手に取った。
「並木さんの言うとおり、更衣室荒らしもすぐ捕まるでしょう。実際盗難品は戻ってきたわけだし。これで一件落着」
「一件落着、ですね」
千夏は停止ボタンを押して、録音を停めた。ボイスレコーダーには、三時間十五分の音声データが出来ていた。
「録音データ、ちゃんと録れてますね」
千夏はデータを香苗先生に見せた。
「そうよ、ご自由にどうぞ」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
そう言うと、千夏はそのデータを選択し削除してしまった。そして香苗先生の手元に、ボイスレコーダーを投げ返した。
「……どういうこと?」
「もう目的は達したんで、返します」
「私は自首しないかもしれないわよ」
「それでもいいんですよ。さっきも言ったとおり、もう満足なんで」
千夏は窓の前に立って、外の景色を眺めた。窓から見える景色は金色に染まっている。見上げる空は夕暮れ前の夏の空。千夏が好きな色が、この世界を染め上げている。
「最後の質問いいですか?」
千夏は窓を背にして振り返った。髪の色が亜麻色に光っている。最後の質問は事件も何も関係無い、これまでで一番シンプルな質問だった。
「高校時代の一番の友だちの名前を教えてください」
椅子に座ったままの香苗先生は目を細めていた。それは千夏のことを睨んでいるようにも、笑っているようにも見えた。
「それが、最後の質問……?」
「はい、パスは無しですよ」
千夏は真っ直ぐに香苗先生を見つめていた。香苗先生は視線を逸らし、長い髪を片手で掻き上げた。
「そういうとこ、似てるわ。その人に」
そして香苗先生は千夏の質問に答えてくれた。
それはわかりきった答えだったけれど、本人の口から聞くと、千夏は改めて納得することが出来た。ようやく一連の事件に終止符が打たれた。千夏はそんな気がした。




