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ロケット日和(18)

 教室に入ると、温い風が体を通り抜けていった。窓は開いていて、そこから外の風が入り込んでいる。

 教室の中には争った跡があった。おそらく登美子はここで掃除ロボットからの攻撃を受けたのだろう。千夏はしずくの姿を探したが、その姿はどこにもなかった。

「登美子、あいつはどこ?」

「あ、あそこに……。掃除ロボットに襲われる私を、かばって……」

 登美子は泣きじゃくりながら、窓のあたりを指さしている。しかしその方向にも誰もいなかった。

「誰もいないよ!」

 千夏は登美子の方を振り返った。しかし登美子は首を振り、じっと窓を指さしていた。

「違うの、窓の外……」

 その言葉を聞いて、千夏の顔色が変わった。

 千夏は急いで窓に駆け寄り、そこから身を乗り出した。開け放した窓から破れかけのカーテンが垂れ下がっている。そしてその先端には、しずくがぶら下がっていた。

「何やってんだ、お前!」

「窓から落ちた」

「見ればわかるよ、冷静に言ってる場合か!」

 しずくは片手でカーテンにしがみついている。生ぬるい風が千夏の髪を揺らした。

 七階から見下ろす地面は、ぞっとするほど遠くに見えた。風が吹いて、しずくの体が揺れた。カーテンが裂け、しずくの体はさらに下にさがった。

 今は頼りない布の先に辛うじてつかまっているような状態だ。ふとした弾みに落下してもおかしくなかった。

「このままじゃ落ちるぞ」

 千夏はしずくに向かって精一杯手を伸ばした。しかし距離がありすぎて、しずくの手をとることが出来なかった。

「ダメだ、届かない……。ちょっと待ってろ! カーテンごと引きずりあげてやる」

 千夏がカーテンに触れようとすると、後ろから登美子に止められた。

「やめて、下手にカーテンひっぱったら千切れちゃう!」

「でもこのままじゃ!」

 千夏がカーテンに触れると、布が軋む音がした。確かにこの強度ではしずくの体を引き上げるのは危険すぎた。

「カーテンがダメなら、別の物で引き上げるしかない」

 千夏はおもむろにジャージを脱いだ。袖を引っ張り強度に問題がないことを確認してから、千夏は窓に駆け寄った。

「これに掴まれ」

 千夏は窓からジャージを伸ばした。長袖のジャージを窓から下げると、しずくの頭のあたりまで届いた。ちょうど袖の部分に掴まれるはずだった。しずくの体重を引き上げるだけなら、ジャージの強度でも十分だ。千夏はしずくを引き上げるために体勢を整えた。

 しかし目の前のジャージを前にしても、しずくはじっとしたまま動かなかった。

「聞こえてるのか! もう片方の手でそれを掴むんだよ。あたしがちゃんと引っ張り上げてやるから、早く!」

 千夏が言うと、しずくは首を振った。

「死にたいのかバカ! 早くしろ!」

 いくら千夏が叫んでも、しずくは首を振るだけだ。千夏はしずくの様子を見てみた。そこであることに気づいた。

 しずくは左手にノートパソコンを抱えていた。

 姉からもらったプレゼント。しずくは決してそれを離そうとしなかった。

「そのパソコン離せ! 地面に落としてこれに掴まるんだよ、早く!」

 千夏が叫ぶ間にも、カーテンはゆっくりと裂けていく。窓から下げたジャージも届かなくなっていく。千夏は精一杯ジャージをしずくの手元に伸ばした。

「それが大事なものなのはわかるよ。でも今は離して! お願いだから」

「……いや」

 しずくは首を振った。

「何で、そこまで意地を張るんだよ! これで最後なんて許さないぞ。まだ勝負の最中なのに、死なれて終わりなんて絶対に嫌だ!」

 千夏は叫んだが、しずくには届かなかった。いくらジャージの裾も伸ばしても、それがしずくに触れることはなかった。

 このまま友だちが落ちていくのをじっと見届けるしかない。

 千夏の脳裏にそんな思いがよぎった。千夏は奥歯をぎゅっとかみしめて、ジャージを窓から引き上げた。

「二宮さん? ダメだったの?」

 登美子の問いかけに答えず、千夏はジャージを登美子に投げつけ、教室の出口へ走って行った。

「ちょっと、二宮さん!」

 登美子が叫ぶ声が聞こえたが、千夏は振り返らなかった。



    ◇◇◇



 千夏は廊下を走った。冷たい風が耳を切り裂いていく。立ち止まったら、そのまま心臓まで凍り付いて氷像になってしまいそうだ。走るたびに視界が揺れる。千夏は頭を下げて、とにかくがむしゃらに足を動かした。

 いくら息を吸っても全然足りなかった。もっとエネルギーがいる。もっと、もっと。千夏はひたすら息を吸い込んだ。

 少し走ると、下り階段はすぐに見えてきた。千夏は息を止めて、階段の頂上から思いっきり飛び降りた。十段以上もある階段なので、地面に着地すると骨の芯まで痛みが走った。しかしその痛みでも、千夏は足を止めなかった。


 千夏がやって来たのは一階下の教室だった。扉を蹴破るようにして教室に入り、窓を開けて空を見上げた。

「しずく!」

 千夏は目一杯叫んだ。

 下の階から見上げると、小さなしずくの体が千夏の頭上で揺れていた。じっと目をつぶっていたしずくだったが、千夏の声を聞いてゆっくり目を開いた。

「千夏……?」

 しずくは言った。千夏は窓から身を乗り出して、しずくに向かって手を伸ばした。

「手を伸ばせ!」

「手……?」

「パソコン! あたしが受け取ってやる」

「でも……」

「でももヘチマもない!」

 千夏は手を伸ばした。ギリギリまで体を乗り出せば、しずくのパソコンに手が届く。しずくはしばらく戸惑っていたが、黙ってパソコンを差し出した。

 二人は同時に手を伸ばした。指先が震える。しかし千夏は気持ちを奮い立たせるようにして、さらに手を伸ばした。

 やがて千夏の指がしずくのパソコンに触れ、それをしっかりと掴んだ。

「確かに受け取ったからな」

 千夏は受け取ったパソコンを手元に引き寄せて、教室の机に置いた。そして再び窓から身を乗り出した。

「しずく、こっちの窓に降りれる?」

 しずくはこくりと頷いた。しずくは左手を伸ばす。千夏はしずくの体を抱きかかえるために、窓の桟に立った。

 カーテンが裂け、しずくの体はゆっくりと下りてくる。千夏の手がしずくに触れ、そっとその手を取った。やわらかい手を引いて、千夏はしずくの小さな体を抱き寄せた。カーテンが千切れ、しずくの体重が千夏にのしかかってくる。千夏はしずくの体をしっかりと抱いたまま、教室側へと倒れ込んだ。


 千夏は仰向けになり、天井を見上げたまま、息を整えていた。

 両腕にはしっかりとしずくを抱いている。密着した体から、しずくの重さ、しずくの体温が伝わってきた。じっと天井を眺めていると、視界がぐらついた。疲れと酸欠で、心臓の鼓動が止まらない。背中越しに伝わる床の冷たさが心地よかった。

「助かった……、死ぬかと思った……」

 疲れと緊張から一気に解放された。その途端に教室に倒れ込む時に打ち付けた頭や、階段から飛び降りた足首が痛み出す。

「……しずく、平気?」

「うん、平気」

「よかった、本当によかった……」

 しずくは千夏の鎖骨のあたりに、ぴったりと頬をくっつけていた。千夏に身をゆだねるその姿は、まるで母親に甘える子猫のように見えた。

「本当に強情な奴だよ、あの場面でもパソコンを離そうとしないなんて」

 千夏が言うと、しずくは顔を上げて首を振った。

「千夏が何とかしてくれるって、そう思った」

 しずくは大きな目を輝かせて、千夏を見つめていた。

 鼻と鼻がくっついてしまいそうなくらい、顔が近い。千夏は思わず顔を背ける。

「と、当然だよ、あたしはこの学園のトラブルシューターなんだから」

「トラブルメーカーじゃないの?」

「奈留と同じこと言うな!」

「ふふふ、そうなんだ」

 千夏の反応を見て、しずくはくすりと笑った。

 少し顔をほころばせただけなのに、心の底から出た笑顔に見えた。宇宙人やロボットだったら、きっとこんな風に笑わない。それを確認すると、千夏は自分が間違っていないことを確信して嬉しくなった。

 ひとしきり笑った後、しずくは千夏の胸のあたりに顔を埋めた。

「こ、こら、何するんだ、くすぐったいだろ」

「千夏、あったかい」

「敷き布団じゃないんだぞ、あたしは」

「むにゃ……」

 しずくは目をつぶって寝息を立て始めた。

「寝るな!」

「仮眠なので気にしないで」

 上半身を起こそうとしたが、しずくが気持ちよさそうに目をつぶっているので、そのままにしておいた。しずくは千夏の背中に手を回して抱きついている。胸元でもぞもぞされると、少しこそばゆかった。

「でも、よく落ちないで持ちこたえてくれたよ。登美子のことも助けてくれたみたいだし」

「えらい?」

「ああ、えらいよ、よくやったよくやった」

 しずくは顔を離して、千夏の顔を見上げた。

「じゃあ、ぎゅっ、てして」

 しずくはそう言って千夏の胸の上に頭を置いた。

「な、なんでだよ!」

「えらいことしたら褒める、これ当たり前」

「子どもか、お前は!」

 しずくは少し首を傾げて、千夏の顔をじっと見つめている。純粋に褒められたいだけの子どもの顔だ。千夏は照れている自分が恥ずかしくなった。千夏は人差し指で頬を掻いた。

「じゃあ一回だけ、だぞ……」

「うん!」

 千夏がそう言うと、しずくは大きく頷いた。千夏はしずくの体を少し強めに抱いてあげた。しずくは千夏の体に身を寄せた。

 しずくのやわらかい体を腕に感じながら、千夏は子どもの頃のことを思い出した。そういえば優子おばさんも、千夏が良いことをしたときはこんな風に褒めてくれた。その時のくすぐったいような、嬉しいような気持ちが蘇ってくる。

 千夏がしばらく懐かしい気持ちに浸っていると、突然教室の扉が開いた。

「おい、大丈夫か! 生きてるか?」

 扉から一人の生徒が慌てて入ってきた。千夏は音のする方に振り返った。

 視線の先にいたのは奈留だった。扉を開けた瞬間の奈留は、とても慌てた様子だったが、教室で抱き合う二人を見て、ぽかんとしていた。

「えっ、あ、何やってんだ、お前ら?」

「な、奈留……、どうしてここに」

 千夏が慌てて立ち上がろうとすると、奈留の背後から声が聞こえた。

「千夏さん、いましたか?」

 奈留の後ろから水菜が顔を出した。そして千夏としずくの体勢を見て、水菜はピタリと固まってしまった。

「あっ、あわ、あわわわ……」

 水菜はそう言って震え始めた。

「ち、千夏さん、女の子同士で、そんな……」

 水菜があまりにうろたえるので、千夏は慌てて体を起こした。

「水菜、違うよ! どういう想像してんの、落ち着いて、奈留も何とか言ってよ!」

 水菜と奈留はそろって呆然と口を開けていた。千夏は慌てて状況を説明する。

「しずくが窓から落ちそうになったのを助けたんだよ、それでその弾みにこういう体勢になったの! な、しずく」

「千夏、もう一回して」

「そういう誤解されるような発言をするんじゃない!」

 千夏はしずくの肩を掴んで揺さぶった。慌てる千夏の背後で、奈留が咳払いをした。

「と、とにかく。その話はまた後で聞くから」

 奈留は千夏の肩を叩いた。

「それより今はこのウィルス騒動が優先だ。二人とも早く来い!」

 奈留はそう言って二人の腕を掴んだ。


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