ロケット日和(15)
授業中はどこの校舎も静かだった。千夏は教師に見つからないように、こそこそと廊下を歩いた。第三宿直室にたどり着いた千夏は、扉の鍵が開いていることを確認し、そっと中に入った。
千夏の予想通り、部屋の中央にはしずくが座っていた。
「よ、話を聞きに来たぞ」
千夏は右手を上げた。
殺風景な部屋には、ぬいぐるみが転がっていた。しずくはカピバラのぬいぐるみをひざの上に乗せ、突然やって来た千夏を不思議そうな顔で見ていた。
「別に話す事ないけど」
「こっちは大ありなんだよ」
千夏はしずくの隣に座った。しずくは体を千夏に向けることもせず、じっとぬいぐるみを抱いている。
前置きもなしに、千夏はそう切り出した。
「どうして他の生徒のデータなんか盗み見たんだ」
「ああ、その件、それなら……」
しずくはしずかに呟くと、鞄からノートPCを取り出して千夏の前に差し出した。
「どうぞ」
「どうぞって、何をだよ!」
「中のデータを見るなり、ばらまくなり、好きにしていい」
しずくはぼそりと呟いた。
その発言の意味がよくわからず、千夏はぼんやりとしずくのノートPCを眺めていた。その様子を察したのか、しずくは小さな声で言った。
「痛み分け」
「痛み分けって、みんなにも自分のデータを公開するってこと?」
「そう。やられたらやり返す。みんなそうする。だから私のデータも好きにしていい。それで気が済むなら」
しずくは淡々と答えた。
しずくなりにクラスメイト達の心情を理解していることはわかった。しかし、千夏にはその行為がちぐはぐに見えた。
「そういうことじゃないんだよな……」
「じゃあ、他に何か晒したほうがいい?」
「違うよ、そんなことよりも、どうしてこんな事をやったのか、それを説明しないとみんなは納得しないんだ」
「……」
「それは話す気はなし、と……」
千夏は肩を落とした。
しずくの頑固さは変わらずのようだ。千夏は差し出されたノートPCを手に取ってみる。横幅は広いが薄型なので重さは感じなかった。見た事のない型なので、おそらく自作のものだろう。
「自分のデータはすんなり公開するのに、肝心な事は言わないんだな」
「話す必要性を感じない」
「そういう態度がダメなんだよ。ちゃんとみんなと足並みを揃えろ。何の説明も無しに、無鉄砲に動き回ってばかりじゃまわりに呆れられるぞ」
「それ、あなたのこと?」
「ち、ちが~う! あたしはいいんだよ、あたしは。自分以外がそういう調子だと気になるだけ」
「気になる、どうして?」
「目のつくところに誰かいればそうなるだろ」
千夏が言うと、しずくは不思議そうな顔で千夏の様子を見ていた。
「この学校で何か探してるんだろ。生徒のデータを見たのもそのためじゃないのか?」
千夏は言ったが、しずくはその話を聞かず、ぬいぐるみの髭のあたりをつまんで引っ張っていた。
「話す必要がない」
「くっ……、この、生意気に。それじゃあ本当にこのパソコンのデータ見ちゃうぞ」
「どうぞ」
「キィィッ! 本当に見てやる。電源ONだ」
千夏はノートPCを開いてもしずくは微動だにしなかった。その様子を見て、千夏の指はPCの電源ボタンの上で止まってしまった。余裕の態度を見せられると、電源をつける気も失せてしまう。
千夏は諦めてしずくにパソコンを返そうとした。そしてその時、電源ボタンの近くにラベルが貼ってあるのに気づいた。ラベルには「作 栗原あまね」と書いてあった。
「あれ、このパソコン、やっぱり自作なんだな。でもお前が作ったんじゃないの?」
「お姉ちゃんが作った」
「お前、姉がいたのか……」
「データは好きにしていいけど、パソコンだけは壊さないでほしい」
しずくはじっと千夏の顔を見つめながら言った。
「そんなお願い、このあたしが聞くとでも――」
「お願い」
しずくは頭を下げた。その態度を目の当たりにして、千夏は何も返せず黙り込んでしまった。千夏はそっとPCを閉じた。
「そうやって頭を下げられると、あたしが悪者みたいじゃないか」
「……違うの?」
「違うよ!」
千夏は否定した。しずくは相変わらずどこに焦点を合わせているのかわからないような視線で千夏を見ていた。
改めてそのパソコンを見てみる。よく見ると表面は汚れ、傷がついている。キーボードもだいぶ使い込んでいるようで、文字盤がかすれていた。長い時間、大事に使い続けているのが何となくわかった。
「お姉さん、器用なんだな」
「うん。スタンガンもお姉ちゃんが作ってくれた」
「ああ、アレもそうなのね……。ハハハ」
千夏は乾いた笑いとともに、以前その電撃を喰らった右手を押さえた。
「他にもいろいろある」
しずくはそう言って、姉の作ったものを話し始めた。
気のせいかもしれないが、姉の話になった途端、いつも無表情のしずくが、どこか嬉しそうに見えた。
自分の事は話そうとしないくせに、姉のことになるとよく喋った。まるで自慢の姉を紹介するような口調だった。しずくの別の一面を見た気がして、千夏はどこか照れくさいような気持ちになった。
「そっか、お姉さんは、元気?」
「たぶん元気」
「たぶんって、一緒に暮らしてないのか」
「お姉ちゃんはアメリカ」
「あ、アメリカ~? アメリカで、何を……」
「留学中」
「頭いいんだ」
「うん」
しずくはにこりと笑った。出会ってから、初めて見せた笑顔かもしれない。
パソコンに視線を落とした千夏は、黙ってそれをしずくに返した。そういう反応を目の当たりにして、もうパソコンをどうこうする気にはなれなかった。
「いいの?」
「いらん、それをクラスメイトに見せても何の解決にもならない。お前がちゃんと理由を話すしかないんだ」
「それは無理」
「なっ、じゃあ多少時間がかかってもいいよ。みんな気になってるんだから。誤解があるなら解かないと」
「その必要はない」
「なくないよ! これから三年間は一緒なんだぞ。つまらないことで溝を作ってどうする」
「だからその必要はない」
千夏が言うと、しずくは首を振った。そして静かな口調で言った。
「もういなくなるから」
ふいに発せられたその一言は、千夏の耳に残った。
いなくなる、この学校から?
千夏はその意味を理解出来ずにいた。寂しさを含んだ言葉は、感情の起伏の無いしずくが発したようには聞こえなかった。
それからしばらく間が空いた。そして千夏はようやく言葉を発した。
「いなくなるって、どういうことだよ」
「その通りの意味」
「それじゃわかんないよ!」
「転校する。早ければ二日後には」
しずくは答えた。
冗談で言っているのかと思った。しかしその表情を見ていると、そうは思えなかった。
「……この学校にいたくないの?」
千夏はそっと尋ねた。
その問いかけに、しずくは何も返さなかった。その代わり、ひざの上に置いたカピバラをぎゅっと抱きしめた。
「答えたくない」
しずくは感情を表さないし、自分の事は何一つ語らない。
しかし、千夏には目の前の女の子が自分たちとかけ離れた思考を持っているとは思えなかった。宇宙人でもロボットでもない、生身の人間にしか見えなかった。
千夏は黙り込んでいた。しずくは千夏から視線を外し、風でカーテンが揺れるのをじっと眺めていた。
しばらくして、千夏は勢いよく立ち上がり、こう言った。
「よし、わかった。よ~く、わかった」
しずくはぬいぐるみを抱いたまま、千夏の顔を見上げた。千夏はしずくの腕からカピバラを取り上げた。
「勝負するぞ! 勝負」
きょとんとした顔で、しずくは千夏の言葉を聞いていた。千夏はそんなしずくの反応を気に留めず話を続ける。
「今、学校で更衣室荒らしが問題になっているのは知ってるな」
「知らない」
「し、知らないの? まあ仕方ないか……。先週、更衣室で女子の下着や水着がごっそり盗まれる事件があったんだ。事件は謎で、教師もお手上げ状態。そんな事件をあと二日以内に解決する!」
千夏は天井に向かって指を突き上げた。
しずくの反応を見てみると、当の本人は、じとりとした視線を向けてくるだけだ。
「聞いてるか、結構すごい事言ってるんだぞ。二日以内に犯人を捕まえたあたしの勝ち。捕まえられなかったらお前の勝ち。それでどうだ」
「面倒」
「面倒じゃないよ! あんた何もしなくていいんじゃん。じゃあ、あたしが負けたら何でも言う事を聞いてやる。これでどうだ」
「じゃあ国道を走るダンプカーを体当たりで止めてみて。今から」
「負けたらだって言ってるだろ! っていうか死ぬよ、そんなことしたら」
「じゃあ乾電池を五十個――」
「よくわかんないけどそれもダメ! 死ぬ可能性のあるやつは無し!」
「じゃあ何も思いつかない」
「お前はどういう思考回路してるんだよ! とにかく約束、あたしが勝ったら質問に必ず答えること。答えたくないはなし」
千夏はそう言ってカピバラのぬいぐるみをしずくの頭に置いた。しばらく長い間を置いてから、しずくは小さく頷いた。
◇◇◇
昼休みを告げるチャイムが鳴ると同時に千夏は席を立った。
真っ直ぐに向かったのは奈留の机の前だ。奈留は机に突っ伏して眠っている。千夏はその後ろから奈留の後頭部を突いた。
「奈留奈留、今あたしらに足りないアイテムってな~んだ?」
千夏がそう言うと、奈留はえらく不機嫌そうに顔を上げた。
「乾電池を致死量飲み込んで死ね」
「ちょ、ひどい返答するなよ。お前も心臓に悪いこと言うなあ、もう」
「うるさいな、寝てんだよ、意味ないクイズで起こすんじゃねえ」
奈留は眠そうな声で答えた。寝起きの奈留はいつもご機嫌斜めだ。
「ほらほら、あると便利なやつだよ」
「じゃあ千夏の首にフィットする縄」
「いらないよそんなの、何に使うの」
「昨日、テレビで西部劇をみたからだよ」
「縄で縛って引きずる気? ねえ、馬とかに乗ってあたしを引きずる気?」
「じゃあ、何だっていうんだよ」
奈留はキレ気味に言った。千夏は慌てて答えた。
「怒るなよ……、もちろん教師の入館証に決まってるだろ」
「はあ?」
「これから作戦Bに移行するぞ!」
「作戦Aすら知らねえよ!」
「つまり、もう手段は選んでられないってことだ」
奈留の反応を無視して千夏は続けた。
二日以内に問題解決すると宣言した手前、もう引き下がっていられない。やる事は一つ、更衣室荒らしの事件解決に絞られた。
「やっぱり情報が少なすぎなんだ。入れない部屋多すぎるし、女子更衣室の入室記録だってある程度権限がないと見られない。やっぱ権限の強い入館証が必要なんだよ」
「どうやって手に入れるんだよ、コンビニに売ってるもんじゃないんだぞ」
「売ってないなら奪い取ればいいじゃない。教師とかからさ」
「バカか。教師だってアホじゃないんだ。そう簡単に奪えるもんじゃないだろ」
「いやいや、よ~く考えてみてよ、一人いるだろ? ガードが甘そうなのが」
千夏はそう言って人差し指を立てた。
◇◇◇
桜子先生は情報の授業を担当し、茶道部の顧問も務めている。
若い頃はお茶を習っていたと豪語しているが、数分の正座で音を上げてしまうようなだらしない人だ。そんな桜子先生でも一応教員ではある。首からぶら下げるその教員証は、校内のほとんどの場所に入ることが出来る万能カードだ。
千夏と奈留はさっさと昼食を済ませ、4Fの和室の前に来ていた。目の前のドアノブにはプレートが下げられていて「茶道部活動中」と書かれている。
「茶道部~? こんな所で一体何をするんだよ」
「まあ、黙って見てろって。作戦B、始めるぞ」
千夏は中に入っていった。薄暗い玄関の向こうに襖がある。そこから中の光が漏れていた。千夏は上履きを脱いで部屋にあがり、勢いよく襖を開けた。
「ちょぃ~っす! お邪魔しま~す」
六畳程度の和室には机と座布団、隅には茶器が置かれている。座布団に座ってお茶を飲んでいたのは、篠崎琴美と長峰実穂の一年生コンビだった。
「あ……、また来た……」
琴美は呟き、実穂はお茶菓子を机の下に隠した。部員の少ない茶道部でよく活動しているのはこの二人だ。千夏は、時々お邪魔してお菓子を食べさせてもらっている。
「二人とも、元気?」
「あ、はい、えっと、出口は後ろになります」
「出口聞いてないよ! 何で露骨に帰そうとするの?」
「え、あ、そうですよね。あははは」
琴美はそう言って近くにあった座布団を、押し入れに仕舞いはじめた。千夏をもてなすつもりは全く無いらしい。奈留は千夏の後ろから顔を出した。
「お前もずいぶんと嫌われてるな」
「な、奈留、何てこと言うんだよ。そんなことないよね?」
千夏が尋ねると、実穂が気まずそうに答えた。
「えっと、仮にそうだとしても、そんな……、大丈夫です。私たちは」
「ほら、実穂もこう言ってる」
「今の発言を肯定ととるのか? お前の脳は」
「さてと、今日はお茶菓子を食べに来たんじゃないぞ」
千夏はそう言って、ずかずかと和室の奥へと入っていった。
部屋の奥は台所となっている。IHの調理器に流し台。千夏はその中にある小さな冷蔵庫を開け、あるものを取り出した。それを見て、背後にいた琴美が呟いた。
「あ、それ、桜子先生のケーキ……」
冷蔵庫の中にあったのは、苺のショートケーキだった。小さな箱に入れられ、その表面にはマジックペンで「春日桜子」と名前が書かれていた。
「こんなもの、こうしてくれるわ!」
千夏はケーキをわしづかみにして、口の中へ放り込んだ。
「ああ……、わ、私知らないよ」
琴美と実穂は不安そうに顔を見合わせていた。
桜子先生は、こっそり部室の冷蔵庫にお菓子を隠す悪い癖があった。桜子先生は甘い物が大好きで、家に帰るまで食べるのを我慢出来ないような残念教師だった。昼休み、ここへやってくるのはすでに調査済みだった。
千夏がそれを勝手に食べたのを知れば、顔を真っ赤にして怒るだろう。呆れ顔で額に手を当てていた奈留は千夏に尋ねた。
「……で、作戦Bって何なの? 春日のケーキ食って意味あるの?」
「じゃあ発表するぞ、作戦Bってのはこれだ!」
千夏は手順を殴り書きしたメモを奈留の目の前に差し出した。
①これからケーキを食べに部室に現れる桜ちゃんにお茶を引っかける
②お茶で濡れた服を着替えさせるためにシャワー室へ誘導する
③どさくさに紛れて何とか上手いこと教員証を奪う
「お前がケーキ食う必要ねえじゃねえか! あと肝心の③の手順が適当すぎるだろ!」
「大丈夫だよ、とりあえずやってみて考えようぜ」
千夏はそう答えて、親指についた生クリームをなめた。
「さあ琴美か実穂! お茶を一杯淹れてくれ。桜ちゃんにぶっかけるから」
千夏が言うと、二人はお互いに顔を見合わせた。
「ごほ、ごほ……。ちょっと風邪気味で」と琴美。
「私は足が筋肉痛で……」と実穂。
「めちゃめちゃ非協力的! そんなに嫌がらなくても」
「えっと、別に嫌がってるわけじゃ……。あ、ちなみに出口はあっちですので」
「だから出口聞いてないよ! どんだけあたしを帰らせたいんだよ」
千夏は言った。琴美と実穂はあきらかに千夏を警戒しているようだ。奈留は頭を掻きながら間に入った。
「悪いね、二人とも。とりあえずお茶はいいや。水もらうぞ」
奈留は近くにおいてあったプラスチック製のバケツに水を入れ始めた。
「水汲んでどうすんだよ」
「ぶっかけるのは水でいいだろ。その後シャワー室へ誘導する。それでいいんだな」
「おう、まあ、それでもいいな。うん」
「それで、春日はいつ現れるんだ」
奈留が尋ねると、琴美と実穂は再び顔を見合わせる。
「たぶん、そろそろケーキを取りに来ると思いますけど……」
「よし、じゃあ千夏、スタンバっとけ」
「ええ~、あたしがやるの?」
「お前の作戦だろうが」
奈留はそう言ってバケツを千夏に渡した。
「わかったよ。じゃあ、桜ちゃんに水をかけたら、奈留はシャワー室へ誘導だぞ。あと、水菜にもここに来てもらうよう連絡しといて」
「水菜も巻き込むのかよ」
「もう本気になったぞ。使える人材は全部使ってく」
「はいはい、わかったわかった。早く隠れろ。そこのダンボール箱でいいや」
「ええ~っ、こんな古くさいダンボール?」
「つべこべ言うな」
奈留に押し込まれるようにして、千夏はダンボール箱の中に入り込んだ。狭くて息苦しかった。蓋を閉めてしまうと、中の暗さが際立った。
「じゃあ、あたしは和室でくつろいでるからな」
「天王台さん、お茶いれましょうか?」
「ありがと、わるいね」
「天王台さん、お茶菓子もありますよ」
奈留は琴美たちと和室へ消えていったようだ。
「なんか奈留の時だけ態度違わないか? くそ~、琴美たちめ」
ダンボール箱の中に押し込められた千夏は恨めしそうに呟いた。
それから数分間、千夏はダンボール箱の中でじっとしていた。
かなり年季の入ったダンボールで、じっとしていると太もものあたりがかゆくなった。ダニでもいるのかもしれない。かゆくなった部分に爪の跡をつけながら、千夏は祈るような気持ちで桜子先生を待っていた。
そしてそれから数分が経ち、千夏の足がしびれてきた頃、扉をノックする音が聞こえてきた。ようやく桜子先生のお出ましのようだ。
「はい~、開いているのでどうぞ~」
千夏は鼻をつまんで答えた。そしてバケツをしっかりと握った。
出たとこ勝負。先に仕掛けたもん勝ち。扉から現れた瞬間を狙って水をかぶせるしかない。千夏が息を吐き出すと、ドアノブが回る音が聞こえた。その音を合図にして、千夏はダンボールから飛び出した。
「ああ~、先生すいませ~ん! 手が滑ってえぇぇぇぇっ!」
千夏は扉から出てきた人物に向かってバケツを放り投げた。バケツは空中を舞い、相手の頭にすっぽりと収まった。
「よっしゃ! あ、違った。すいませんでしたあっ、服が濡れて大変でしょう。お詫びにシャワー室へ……、あ……」
桜子先生の手を取ろうとした千夏は、そこで固まってしまった。
バケツを被り、ずぶ濡れでドアの前に立っていた人物の服装を見てみる。くすんだ青に黄色の三本ライン。がっちりと伸びた両腕。どこかで見覚えがあるそのジャージには「田所」と刺繍がしてあった。田所はゆっくりとした動作で、バケツを取った。
「……またお前か」
田所は一つ咳払いをした。千夏はすかさず両手を叩いた。
「奈留! カモン!」
「何だ、どうしたんだ。失敗したのか……って、げげっ」
襖を開けて出てきた奈留は、声を漏らした。入口でびしょ濡れの田所を見た奈留は、瞬時に状況を理解したようだ。
「田所先生、どうかしましたか? 茶道部は普通に活動しているはずですけど……」
間が悪いことに、田所の後方から現れたのは桜子先生だった。桜子先生はずぶ濡れになった田所を見て、千夏と奈留の顔を見て、そして最後に床に転がったバケツを見た。
「……今度は何をやったんですか。あなたたち」
桜子先生は声のトーンを落として言った。
鈍感な桜子先生でも、この状況から何が起こったのかは理解したようだ。
「奈留、作戦C!」
「作戦Cって何だよ」
「逃げる!」
千夏は扉から飛び出し、奈留もその後ろに続いた。二人が廊下を走って逃げると、桜子先生はすかさず二人を追いかけてきた。
「待ちなさい! この悪ガキども。今度は何をしでかしたんです!」
「悪ガキって、そんな小学生みたいな」
「小学生と変わりません! 今日という今日は、きちんと指導しますよ、きちんと指導しますよ!」
後ろを振り返って見ると、桜子先生がすごい形相で追って来ていた。それは本気の目だった。
「おい千夏! 何でこうなるんだよ」
「あ、あたしに聞くなよ。これは神様のいたずらだよ」
千夏と奈留はスピードを上げた。
その時、ふと前を見ると、水菜が廊下を歩いていた。千夏は背後を確認して、その場に立ち止まった。
「あれ、千夏さん、奈留さん、どうしたんですか。和室にいるって」
「作戦失敗で予定変更、作戦C」
千夏は追ってくる桜子先生を指さした。桜子先生は教員証を揺らしながら走ってくる。
「えっ、春日先生? これはどういう……」
「まあ、話すと長くなるんだけどね~。とりあえず逃げないと。足止め、お願い」
「ええっ、足止め、ですか?」
「こら、待ちなさい!」
桜子先生がしつこく追ってくるので、千夏は再び走り出した。桜子先生は水菜の存在に気づいて立ち止まった。
「あ、並木さん」
「えっと、春日先生、あの、私……」
「ごめんなさい。今はアレを捕まえないと」
「そ、それなんですけど、あの……」
「あの二人、足が速いのよ、並木さん、ちょっとこれ持っててくれる?」
背中でその会話を聞いていた千夏は背後を振り返った。
桜子先生が水菜に何か手渡している。それを見て、千夏は目を見開いた。水菜に渡していたのは、それは教員証だった。千夏は立ち止まって叫んだ。
「水菜! それ、それしっかり持ってて! 五分後、情報棟の前!」
「え、あ、はい。わかりました」
「何を訳のわからないことを言ってるんですか! さあ、大人しく捕まりなさい」
桜子先生は千夏との距離を詰めてくる。千夏は慌てて走った。
「奈留奈留! 作戦通りだ! (水菜が)ねんがんの教員証をてにいれたぞ!」
「偶然だろ、このバカ!」
「とりあえず逃げ切るぞ。ついてこい」
「わかってるよ」
千夏はスピードを上げた。奈留も難なくそれに付いてくる。
二人の運動神経は校内でもピカ一だ。運動不足の桜子先生を撒くのは造作もなかった。
「奈留、一旦分かれるぞ、五分後、情報棟の前ね」
「わかったよ、まったく」
そう言って千夏は上り階段、奈留は下り階段へ逃げていった。




