ロケット日和(14)
その日、千夏は雨に濡れながら下校した。
うす暗い空から落ちてくるのは、肌を刺すような細い雨だった。小雨にもかかわらず、寮に着く頃には体中が濡れていた。千夏は手の甲で額にたれる水を拭う。服や鞄についた水滴を軽く払って玄関に入ると、ロビーでは奈留と水菜が千夏を待っていた。
「あれ水菜と奈留、どうしたの?」
二人はロビーの椅子に座っている。水菜は千夏に気づくと、驚いた顔をして駆け寄ってきた。
「ち、千夏さんこそどうしたんですか! そんなにずぶ濡れで……」
「ああ、ちょっと傘忘れちゃってさ。ま、気にしないで」
「気にしますよ! 待っててください。今バスタオル持ってきます」
「あ、いいって水菜、気にしないで――」
千夏は呼び止めたが、水菜は小走りで階段を上っていってしまった。千夏はこめかみを掻いて近くの壁に寄りかかった。
「ずいぶん遅かったな」
奈留は単調なしゃべり方で言った。椅子に座って足を組んでいる。テーブルにはティーポットが置いてあり、中には半分ほど紅茶が入っていた。
「栗原には会えたのか?」
「行き違い。結局会えなかった」
「それで会えないまま帰ってきたのか、しかも雨に濡れて」
「まったく、踏んだり蹴ったりだよな」
千夏は前髪をつまんだ。濡れた毛先はくりんと丸まっていた。
「連絡すれば、傘もって迎えにいったってのに、お前はどうしてそこまで頭が回らないんだ」
「え、迎えに来てくれたの? どうしたの、珍しく優しいじゃん」
「ば、バカ。水菜が心配してたからだよ」
奈留はそう言って後ろを向いてしまった。
しばらくして、階段を駆け下りる音が聞こえてくる。水菜は本当にバスタオルを持って降りてきた。
「千夏さん、早く体を拭いてください」
「大丈夫だよこのくらい。ちょっと濡れた程度だから」
「ダメです。千夏さんが熱でも出したら、私……」
千夏は椅子に座らされ、頭にバスタオルをかぶせられた。後ろから水菜が優しく髪の毛を拭いてくる。やわらかい感触。タオルはほんのり暖かかった。
「熱だしたって、どってことないから平気だって」
「違うんです。どうってことあります」
「ないない、それに熱出たら一日くらい学校休めるし、それはそれでいいや」
「そ、それは、ダメです!」
千夏が言うと、水菜はタオルを持つ手を止め、思いっきり首を振った。
「千夏さんは、クラスの真ん中にいる人なんです。だから、千夏さんが学校休んだら、何か、クラスがもっとバラバラになりそうで……」
水菜は小さな声で言った。声のトーンは低く、水菜はじっと俯いていた。
「水菜……、あの後、何かあったの?」
「それは……」
「また、あの転校生のこと?」
千夏が尋ねると、水菜は静かに頷いた。
「あの後、またしずくさんの話になって……」
静かなロビーは小さな声でもよく響いた。奈留はずっと押し黙ったまま。壁掛け時計の針がいつもよりゆっくり動いているように思えた。水菜はゆっくりとした口調で話し始めた。
「話題はしずくさんの素性の話になったんです。それでその時、クラスの誰かが言ったんです」
「何て、言ったの……?」
「しずくさんは、白丘学園の理事長の孫娘なんだって」
水菜は答えた。
理事長はこの学校の代表で、学校の運営や管理に熱心に関わっている。良くも悪くも有名な人で、やり手で狡猾な古狸だと誰かが噂していたのを聞いたことがあった。学校に強い影響力を持っている人物なのは間違いない。
「だから、先生たちはしずくさんに頭が上がらないんだって、そう言ってました」
それを聞いて、しずくが特別扱いされていた理由もわかった。桜子先生がしずくを気にかけていたのも、しずくの生徒手帳の権限の強いのもそのせいだ。
「それを聞いた後、クラスのみんながいつもより怖く見えたんです……。普段は明るくてとてもいい人たちばかりなのに。ちょっとしたことで変わってしまって。それが、少し怖くて」
水菜はバスタオルを両手でぎゅっと握っていた。千夏は水菜の手からそっとタオルを取った。
水菜の気持ちは少しわかった。まとまりがあるクラス。楽しいグループ。そういうものは大抵波風が立たないところに生まれる。でも少し異変があれば崩れたり、沈んだりしてしまう。水菜はそれを敏感に感じ取っているのだと、千夏は思った。
「でも、千夏さんがクラスの真ん中にいれば、きっといつものみんなに戻れるそんな気がするんです。だから――」
「……あたしは、そんなんじゃないよ」
水菜の言葉を、千夏は制した。そして水菜の頭の上にそっとタオルを置いた。
「タオルありがとね。さすがに体が冷たくなってきた、今日は風呂入ってさっさと寝るわ」
水菜と奈留に背中を向けたまま、手を振った。
◇◇◇
部屋に帰った千夏は、濡れた制服をハンガーに掛けた。髪の毛はぼさぼさで指先が少し冷たかった。
「なんか、疲れた……」
千夏はそう呟いて、下着姿のままベッドに潜り込んだ。
少し開けた窓から、ノイズのような雨音が聞こえてくる。雨のにおい。夕暮れの湿った風は焦燥感に似た気持ちを抱かせた。
しずくのこと。香苗先生の助言。解決しなきゃいけなことはたくさんあるはずなのに、何からどう手をつけて良いかさっぱりわからなかった。
千夏は布団にくるまりながら、じっと雨音を聞いていた。
雨足は次第に強くなっていく。布団の中でじっとしていた千夏は、いつの間にか眠ってしまった。
それはとても深い眠りだった。体がベッドを突き抜けて、暗い地中へ沈んでいくような錯覚を覚えた。
こうしてしばらくの間、千夏はこんこんと眠り続けた。
そんな状態だったから、枕元で携帯電話が鳴っていることになかなか気づかなかった。遠くから聞こえる着信音は次第に大きくなっていく。
「ん……、何だよ、いったい」
千夏は布団から手を伸ばした。深い眠りから引きずり出されて、千夏は自分がどこにいるかもよくわからなかった。手探りで枕元を探し、やかましい音を立てる携帯電話を手に取った。そして発信者が誰なのかも確認せずに電話に出た。
「もしもし……、誰ですか、人が寝てる時間に。今度から電話する時間には気を遣うように。それじゃ――」
千夏が電話を切ろうとすると、通話口から落ち着いた声が聞こえた。
「千夏。今は何時ですか。時計をよく見てみなさい」
頭の奥に響くような声だった。千夏は近くの目覚まし時計を手に取った。
「えっと、朝の五時……?」
「こっちは夕方の五時よ。千夏はいつの間に日本の裏側に引っ越したのかしら」
電話口で呆れた声が聞こえる。
「あの、ところでどちら様でしょうか」
「自己紹介しましょうか?」
「はい、お願いします。むにゃむにゃ」
千夏は眠い目をこすった。正直自分が何を話しているのかよくわからないような状態だった。電話口の声は冷静に答える。
「私は二宮優子と言います」
「はあ、二宮優子さんですか……。あたしにも同じ名前の叔母がいますね。奇遇ですね」
「私にもあなたと同じ名前の姪がいます。だらしない子で、昼寝ばかりして、注意してもなかなか聞かない子なんですけどね」
「昼寝はいいと思いますけどね、ああ、あたしも眠いんでそろそろ切りますね」
「わかりました。それなら起こしてあげましょう」
電話口で大きく息を吸う音が聞こえてきた。そして次の瞬間、鼓膜がやぶれそうなくらい大きな声が千夏の耳を襲った。
「千夏! いつまでも寝ぼけてないで、さっさと起きなさい!」
千夏は驚いて携帯を耳から離した。それは何度も聞きなれた懐かしい台詞だった。千夏の眠気は吹き飛び、ようやく電話先の相手が誰なのか理解した。千夏は恐る恐る尋ねる。
「あの、もしかして優子おばさん……?」
「もしかしなくてもそうです。目は覚めた?」
「え、はい……。あ、いやっ、ずっと覚めてましたけどね? っていうか寝てませんけどね?」
千夏は慌てて言い直した。いつの間にかベッドの上に正座している。
「電話なのが本当に残念だわ……。目の前にいたらこってりと絞ってやるところなのに」
「そうですね、残念ですねえ、ハハ……」
千夏は苦笑いした。
優子おばさんは千夏の育ての親だ。千夏の母親の妹。母とはずいぶん年が離れていたので、まだ三十代前半だった。厳しい人で千夏は優子おばさんに叱られて育った。
「あの……、それで何かご用でしょうか」
「言いたいことならいっぱいあるわね。相変わらず学校で問題を起こしていること。昼寝は止めなさいと言っているのに全然守れていないこと。ネットショッピングで塩やお札を買ったこと。でもそれを言ってたら、朝になっちゃうから、これは別の機会にしましょう」
優子おばさんは言う。
別の機会と聞いて千夏はほっと胸をなで下ろした。電話口で延々と説教されるのはたまったものではない。
「用事というのはね、例のものを宅配便で送ったから、その確認の電話。前にも言った気がするけど、今日の夕方の便で届くからね」
「あ、そっか。今日だっけ」
「まさか忘れていたんじゃないでしょうね。あれはあなたの両親の――」
「わ、忘れてないよ! 大丈夫大丈夫」
「千夏はいくら言っても、だらしない性格が直らないのよね。中学校の卒業式の時だって学校に卒業証書を忘れて来ちゃうし。それに高校の入学の時も――」
「ちょ、ちょっと待って。過去を遡って怒らないでよ」
「やっぱりちゃんと言わないとダメだわ、気が済まなくて。だいたいあなた、塩を何キロ買ってるの!?」
「そ、その話? それを語ると長い話に……。っていうかさっきは次の機会にって言ったのに」
「いいえ、この際だから話しちゃいましょう」
それから優子おばさんは延々と電話口で話し始めた。千夏は顔をゆがめながら、その小言を聞いていた。
小言は二十分ほど続いた。よくネタが尽きないものだと感心してしまうほどだ。延々と続いていた優子おばさんの話はようやく落ち着いてきた。
「――そういうわけで、普段の心がけはとても大事なんです。わかった?」
「はい……、骨身に染みております」
「よろしい」
千夏が言うと、優子おばさんは満足げに呟いた。
ひさしぶりに長い説教を受けた気がした。電話口とはいえ千夏は堪えた。親代わりだけあって、説教もこなれたものだ。千夏がぐったりしていると、優子おばさんは言った。
「ところで千夏。学校ではちゃんとやっていますか」
「学校……?」
「そうです。あなたの本業ですよ」
千夏は「大丈夫」と答えようとした。しかしすぐにしずくの事を思い出してしまった。千夏が一瞬答えに詰まると、優子おばさんは話を続けた。
「何はともあれ、今できることを精一杯やりなさい。がむしゃらになれる所が、千夏の良いところなんだから。でも無茶はだめよ。矛盾しているようだけど、この二つは覚えておいてね」
優子おばさんはそう言い捨てると、ぷつりと通話を切ってしまった。それと同時に携帯電話の電池が切れた。まるで計ったようなタイミングだ。電池の続くぎりぎりまで説教を浴びられたことになる。
「がむしゃらになれる所か……」
千夏は電源の切れた携帯電話をしばらく眺めてから、ぽつりと呟いた。
「叱るのと褒めるの、比率が極端なんだよな、優子おばさんは……」
◇◇◇
長く降り続いていた雨は、翌朝になるとすっかり止んでいた。
一晩明けた空には、真夏を思わせる太陽が浮かんでいる。強い日射しは朝のうちに地面を乾かし、南風が湿度の高い空気をどこかへ払い去ってしまった。
その日の午前中、千夏は授業を抜け出して屋上で寝そべっていた。夏の空には真っ白な雲が浮かんでいる。溜まっていた汚れを雨と一緒に洗い落としたような、純白の雲だった。
その日も、栗原しずくは普通に登校してきた。
しかし、誰もしずくに視線を合わせようとはしなかった。千夏はしずくに何か話しかけようと思ったが、そのタイミングがなかなか掴めなかった。
そして二時間目になると、しずくは教室から姿を消してしまった。パソコンを抱えて出て行ったので、またどこかで何かの作業しているのだろう。登美子たちはそれを見てももう何も言わなかった。言っても無駄だという空気がクラスに出来はじめていたからだ。
千夏は胸ポケットに手を伸ばし、そこからキーホルダーを取り出した。
ロケット型のキーホルダー。親指くらいの大きさで、素材はおそらくシルバーを使ったものだ。ハンドメイドのようで、空にかざしてみると、所々に埋められた石がきらりと光った。
「それ、まだ持ってるのか」
ぼんやりとキーホルダーを眺めていると、千夏の視界が影に覆われて暗くなった。千夏の顔を奈留がのぞき込んでいた。
「奈留、また授業サボったな」
「お前もだろ」
奈留はそう言って隣に座った。
「このキーホルダーさ、春くらいにちょっと傷つけちゃって。それで優子おばさんがその傷を直して昨日届けてくれたんだ」
「そうか、それ結構昔の品だもんな」
「そう、これはあたしの原点だからね」
千夏はそう言ってポケットにキーホルダーを戻した。
千夏は山間の小さな町で生まれ育った。
両親は物心つく前に他界していて、千夏は二人がどんな人だったのかは覚えていない。優子おばさんから聞いた話からすると、かなりの変わり者だったらしい。世界中を旅行して、いろいろな珍品をお土産として実家に送ってきたそうだ。木彫りの仮面や、大コウモリの剥製など、バリエーションに富んだ品は今でも実家の倉庫に収納され、一応遺品という扱いをされている。そしてそんな遺品の中で、このキーホルダーだけは千夏宛てに残されたものだと聞いていた。
「それで、お前はこんな屋上に来てどうしたんだよ。その、考え事、してたのか……?」
「いや、何となく、ゆっくりこれを眺めてみたくなったんだよ。産みの親の記憶ってあまりないけどさ。これを見ると懐かしい気持ちになるんだよ」
「ああ、そ、そうか……」
千夏が語ると、奈留は視線を逸らしてこめかみを掻いた。どうも落ち着かない仕草だった。
「そ、その、なんだ……。あまり考え込みすぎるなよな」
奈留はぎこちない口調で話し始める。
「栗原のことも、更衣室荒らしのことも。クラスの連中のことも。千夏は、まあ、千夏のペースでやればいいと思うし。もしそれで何か文句を言ってくる奴がいても、そんなの、もしあれなら、あ、あたしに言ってもいいし……」
奈留は言いにくそうに顔をしかめている。千夏がぽかんとその顔を見つめていると、奈留は顔を背けた。
「奈留……? もしかして、心配してくれてるの?」
「ばっ! 誰が心配するか! あたしはな、お前が何かよからぬ事を企んでるんじゃないかと、お、思って監視に来たんだよ」
「あ~、そんな事言って~。やっぱりあたしの事が心配だった? ふへっ、ふへへへっ」
千夏がからかい半分に言うと、奈留に首を捕まれた。
「それ以上その変な笑い方すると、三分間くらい血の流れを止める」
「じょ、冗談ですもう聞きませんすいませんでした。……三分とか死んじゃうから」
千夏が腕をタップすると、奈留は喉から手を離した。千夏は喉をさすりながら言った。
「だいたい、あたしが今まで親の形見を眺めてメソメソしてたことがあったか?」
「まあ確かに……、それはなかったか」
「両親のことはよく知らないけど、このキーホルダー見てると何となく二人が伝えたかったこともわかる気がするんだよ。ほら、ロケットってさ、真っ直ぐに突き進むイメージがあるだろ。だからきっとこれは真っ直ぐに生きろってメッセージなんじゃない? なんか楽天的な人たちだったらしいから」
千夏が言うと、奈留は噴き出して笑った。
「はは、何かすごい納得した。だってお前の両親だもんな」
「な、何だよ、その言い方」
「真っ直ぐに生きるって考えて、ロケットを連想するあたりが無茶苦茶だっての」
奈留は笑いながら言った。
それから二人はたわいない会話を続けた。
千夏は仰向けのまま空を見上げ、奈留は腕組みして胡座をかいている。亡くなった両親の話を暗くならずに話せるのも、付き合いが長いからかもしれない。
千夏は手の指で四角を作り、空にかざしてみた。
指で作った長方形の枠で青空を切り取ると、どこまでも沈んでいきそうな深淵の空が見えた。千夏は四角の枠に向かって語りかけた。
「学校生活とかだとさ、一人じゃ見られない景色ってあるじゃん」
奈留は切れ長の目で瞬きした。特に何も口を挟まず、黙って千夏の話を待ってくれている。
「誰かと一緒じゃなきゃ気づかない事とか、見えないものってあるだろ。そういうの全然気にしないんだったら、別に一人でいても構わないと思うんだけどさ。どうもあいつは、そういうタイプとも少し違う気がする」
「それは栗原のことか?」
「まあ、そんなところ」
「栗原が本当は友達が欲しい寂しい転校生だって、そういうレッテルを貼るのか」
「ち、違うよ。そういう感じじゃなくて。もっと、こう……」
「いいよ、どうせくだらない直感なんだろ」
「く、くだらないって言うなよ」
「まあ、お前の好きにやれば。骨くらいは拾ってやるから」
「死ににいくみたいに言うな!」
千夏はそう言って体を起こした。千夏はポケットに入れたロケットのキーホルダーを触った。
「まあ、面倒くさいけど、そうも言ってらんないだよね」
千夏は大きく伸びをした。




