ロケット日和(12)
「まあね、最初に立てた目標もさ、それはもちろん覚えてるよ」
その日の昼休み、学園の校内を歩きながら千夏は言った。
風が冷たく涼しい昼休み。水菜と奈留を連れて校舎の外を歩きながら、千夏は必死に弁解していた。
「まあ、更衣室荒らしを捕まえるって目標も当然知ってました。はいちゃんと知ってました。でもさ、ほら、やっぱりケースバイケースじゃん? 初志貫徹とか言うけど、そんなの何か体育会系っぽいし、あたしは完全に文化系だし。だからそういう言葉は合わないし、無理して守る必要はないっていうの? だいたい最初に立てた目標なんてズレてくるもんよ。いや、ズレてくるべきなんだよね。そのズレっていうのをフィードバックして修正してかないといけないわけ。だから、ちょっと忘れてたくらいね、些末な問題というかね、そもそも論点からもずれてるというか……」
千夏がそんな言い訳をだらだらと喋っていると、奈留は右手を振り上げて、千夏の頬を張り飛ばした。
「しょおぉぉっ!」
「ぎゃぁぁぁつ!」
その瞬間、千夏の視界が反転した。フィギュアスケート選手が跳躍するように、千夏の体は回転しながら宙を舞った。もちろん着地は失敗で、千夏は肩から地面に崩れ落ちる。
潰れたピザのように地面に伸びる千夏のところに、水菜が駆け寄ってくる。
「ち、千夏さん、大丈夫ですか」
「大丈夫だよ水菜。ただのビンタだから」
水菜の心配をよそに、奈留はさらりとした口調で言う。千夏は恨めしそうに奈留を見上げた。
「ただのビンタの威力じゃないだろ! 何なの今の重い一発は。お前はおすもうさんか!」
「ぐだぐだうるさいな。だから外側に傷が出来ないように気をつけてるだろ。ちゃんと体の内側に衝撃を与えるようにして打ってるから安心しろ」
「内側に影響出る方が怖いんですけど!?」
「言い訳が長い! 結局栗原との勝負に気を取られていて忘れてたんだろ、更衣室荒らしを捕まえるって本来の目的を」
「ま、まあ、身も蓋もない言い方をすれば……」
千夏は地面に座ったまま、視線を逸らした。確かに痛いところを突かれた感がある。千夏の頭から更衣室荒らしの事がすっぽりと抜けていたのはまぎれもない事実だ。火の玉、奈留の暴走、しずくの転校など、いろいろな事が起きて、肝心の目的が記憶から埋もれてしまった。
奈留はそんな千夏にぶつぶつと説教を垂れている。
「だいたい美葉の水着だって被害に遭ってるのにお前ときたら……。しかも転校生にいらんちょっかいまでだして」
「わ、わかってるよ。ちゃんと思い出したから。これから更衣室荒らしの調査に専念する」
「本当か?」
「ああ、もうあたしは更衣室や下着の事しか考えないぞ!」
千夏は右拳で心臓のあたりを叩き、奈留を真っ直ぐ見据えた。
「真顔でそんな台詞言われても……。でもお前にしては珍しく言い切ったな。もう栗原に絡むのもやめるのか?」
「……それは断るけどな!」
「しょおぉぉっ!」
再び奈留のビンタが飛んでくる。千夏の体はは今日二度目の跳躍をみせた。千夏は再び地面に転がった。
「さっきと全然変わってないだろうが! 専念しろ、専念」
奈留がキャンキャン怒鳴るので、千夏は地面から跳ね起きた。
「変わってるって! 心の奥、自分でも気づかないところで何かが!」
「気づかなきゃ意味ないんだよ」
奈留は再び右手を振り下ろしてくる。千夏は慌ててその攻撃を躱した。
「や、やめろよ。もうそのビンタ禁止!」
「だから体の内側に衝撃を与えるようにしてるから大丈夫って言ってるだろ」
「だからそれは大丈夫って言わねえの!」
気がつくと二人はつかみ合い、醜く言い争っていた。水菜はうろたえた様子で二人のことを眺めていたが、意を決してその間に割って入った。
「あの、二人とも、お、落ち着いてください」
水菜は体を丸めて二人の間に挟まった。
「とりあえず昼ご飯、食べましょう、ねっ?」
水菜に言われて、千夏はひとつ咳払いをした。
「まあいいだろう、水菜に免じて、ここはあたしが引いてやろう。あたしは大人だからな~。 奈 留 と 違 っ て 」
「このっ……、まあいいや。どっちが大人かは明白だけどな。 ど こ か の バ カ と 違 っ て」
「えっと、その、さあ、千夏さんも、奈留さんも。あそこでお昼にしましょう」
水菜は二人の気を散らすように、近くの広場を指さした。
その方向には大きなケヤキの木があった。広々とした芝生には木陰が出来ていた。確かにご飯を食べるのにはベストスポットだった。
水菜に背中を押されて、三人はようやく昼ご飯にした。
◇◇◇
「それにしても、更衣室荒らしって全然見当つかないのな」
レジャーシートに座りながら、奈留は言った。シートの上にだらしなく胡座をかいて、太ももの上にコーヒーパックを乗せている。
「先生たちも、何だか苦戦しているみたいですね」
水菜は残念そうに言う。
千夏はシートの上に寝転がりながら、ぼんやりと空を眺めていた。
頭の中で、もう一度更衣室荒らしのことを整理してみた。しかし、いろいろ考えてみても、やはりいくつかの謎が解けずに詰まってしまうのだ。
まず一つの謎は、目撃者が誰もいないこと。100点以上の盗品を誰にも見られずにどうやって持ち去ったのかということ。
それともう一つは、女子更衣室の入退室記録。事件のあった時間帯に誰も部屋に出入りしていないのに、ロッカーの荷物がごっそり消えていたこと。
煙のように消えた盗難品は、未だに見つかっていなかった。
「入室記録にも記録されてないのが不自然なんだよな……。それに、そんな大量のものをどうやって盗ったんだか……」
「そうなんですよね。盗まれたものの体積を考えると、どう詰め込んでもダンボール箱一つ分くらいの大きさになります。それを白昼堂々持って歩くというのは考えにくいですね」
水菜はため息混じりに言った。
「実は更衣室のどこかに隠したままとか?」
「事件の後、女子更衣室は調べられていますから、その可能性は低いかもしれません。でも、どこかに隠しておいて後で取りに来るという発想はそれほど的外れじゃないと思うんです。夕方になれば、あの辺りは人も少なくなりますし」
「そうだよな、まして幽霊の噂も出てるくらいだし、夜は人も寄りつかないよな。あ、でも例外はいるか……」
千夏の頭には、しずくの顔が浮かんだ。
仮に、教師たちにも見つからないような隠し場所があったとして、そこから夜中荷物を運び出そうとしていたら、やはりしずくが何か目撃した可能性はあった。
火の玉の件もしかり、どうも何かにつけてしずくの存在が絡んできている気がする。千夏がそんなことを考えていると、水菜は真剣な表情をしていた。
「事件の時、しずくさんはすでに学校に住み着いていたんでしょうか」
「たぶんそうじゃないかな。宿直室に入ってみたけど、住み慣れた場所って感じだったし」
そこまで答えて、千夏はある事を思い出した。
「そういえば、幽霊の噂がたち始めたのも、事件の前後になるのか……」
千夏はぼそりと呟いた。
更衣室荒らしをきっかけに、いろいろな事が起きている。幽霊の噂がたち、火の玉が出てきて、しずくが転校してきた。偶然と言えば偶然かも知れないが、何か関係があるのではないかと疑いたくなる。火の玉にしろ、しずくの素性にしろ、不可解な点が多いからだ。
「ねえねえ奈留はどう思う。幽霊の噂と更衣室荒らし」
千夏が話を振ると、奈留はギロリと目を剥いた。
「次幽霊っていったらコロス」
「怖っ! 話の焦点そこじゃないんですけど?」
奈留は千夏の顔を睨んできた。まだ火の玉の件を少し引きずっているようだ。奈留のスカートの裏地に張られたお札がちらりと見える。
「あーあ、まあいいや。とりあえず今は考えるのやめ! 頭がぐちゃぐちゃになっちゃうし」
「そうですね。いたずらに推測を重ねていても仕方ないですね」
「そうそう、午後から情報集めするさ。それからまた考える」
目をつぶると、草のにおいを含んだ空気がより濃密に感じられた。指先に何かが触れる。目を開けると、鮮やかな赤をまとったてんとう虫が指の先を歩いていた。
「誰か事件に詳しい人いないもんかね」
「事件の様子だったら、第一発見者に聞くのがいいんじゃないか」
「第一発見者? そっか、全然話聞いてないな。そもそも誰だかわかんないし」
「じゃあさっさと美葉に聞いてこい。お前ってやつは手順がなってないな。大体ロケットなんか飛ばす前に……」
「あーもう! 奈留は小言がうるさい。だいたい何でそこで美葉が出てくるんだか」
「美葉が第一発見者だからだろうが」
「あ、そう。はいはい」
千夏は適当に相づちを返し、奈留をあしらうように片手を振ってみせた。しかし、その手が一瞬止まった。
「え、奈留、今なんて?」
「だから、ロケットなんか打ち上げる前にちゃんとした手順を……」
「その後だよその後! 美葉が第一発見者って……」
「そうだよ。当時の状況は美葉が一番知ってるぞ。まず話を聞くならそこからだろ」
「えっ、ええー、そ、そうなの?」
「まさか知らなかったの?」
「し、知らないよ! ええ~? 言ってよ、そういうことは」
千夏はそう言って跳ね起きた。指先に止まっていたてんとう虫は逃げ出すように飛んでいってしまった。
◇◇◇
その日の放課後、千夏は水菜を連れて一年三組の教室へやって来た。奈留も誘ったのだが、この件と関わるとろくなことが無いと言われ、断られてしまった。薄情な奈留がいなくても、千夏としては水菜が一人いれば十分だ。
教室にたどり着いた千夏はそっと中を覗いた。まだたくさんの生徒が残っていて、和気藹々としていた。美葉の席の周辺には女子生徒が集まっている。
「美葉さん、あの集団の中にいるんでしょうか」
「たぶんね。相変わらず人気者だねえ、美葉は」
天真爛漫な性格の美葉は女子から慕われている。学業優秀、運動万能。オールマイティに何でもこなし、気取らない性格の美葉に憧れている子は多い。ファンクラブなるものがあると聞いた事もある。
「でも、これじゃ話聞きにくいな」
千夏は背伸びしながら人混みの中の美葉を探した。しばらくすると、美葉の方が千夏と水菜の存在に気づいた。
「あ、千夏っちだ! おーい」
美葉は立ち上がり、大きく手を振った。周囲にいた女子は一斉に千夏の方を振り返る。千夏がその視線に一瞬怯んだ隙に、美葉は千夏の懐に飛び込んでくる。千夏は咄嗟に真横に飛んでその攻撃を躱すと、美葉は勢い余って壁に額を打ち付けた。
「あいたた、捕らえたと思ったのに……」
「危ないな! 飛び込んでくるなよ。何考えてるんだよ」
「失敗しちゃった、てへっ」
「てへっ、で済ますな。血でてるぞ」
ウィンクする美葉の額から血が流れた。
美葉を見ると、いつももったいないと思う。この悪い癖さえなければ完璧女子でいられるのに。
「ところで二人はどうしてここに? 何か用事?」
「実はちょっと美葉に聞きたい事があって来たんだよ」
「なになに?」
「実はね――」
千夏が本題を切り出そうとしたとき、周囲の強い視線に気づいた。
ふと顔を上げると、美葉を取り囲んでいた女子が千夏を睨んでいるのが見えた。水菜は千夏の袖をつまんだ。
「ち、千夏さん。教室の空気がすごく重いんですけど……」
水菜は視線に怯えて小さくなっている。ついさっきまでの和気藹々とした雰囲気はどこかへ消え去っていた。無言のプレッシャーに千夏はたじろぐ。
「な、何だよこの視線は。しかもこの重い空気」
「あの、たぶんなんですけど、これは千夏さんに対する嫉妬の視線じゃないかと……」
水菜は千夏に耳打ちした。千夏は改めて美葉の顔を見た。うろたえる千夏とは正反対に、美葉はにこにこと笑っている。周囲の視線など全然気づいていないようだ。
学園内の立場で言えば、千夏は美葉とは正反対の位置にいる。
アイドル的人気を博す美葉に対して、千夏は学校の厄介者的な立場にいる。美葉が千夏に懐いているという図式は、他から見れば美葉が千夏にそそのかされたように見えるのだろう。耳を澄ますと教室の隅から小さな声が聞こえてくる。
(あの人また美葉さんに……)
(どうしてあの人が? 忌々しいわ)
(バールとか落ちてないかしら?)
(いや、鈍器を使ったらいろいろ面倒よ。ここはドクツルタケなどの毒物を使った方が……)
(わたくしの実家がフグ料理店を経営してましてよ。そこからならテトロドトキシンのたっぷり入った肝が……)
千夏はちらほら聞こえる不審な会話を意図的にシャットアウトした。
「ねえ水菜、何かすごく寒気がするんだけど」
「わ、私にはどうすることも……」
二人がこそこそ話している様子を、美葉は不思議そうに眺めていた。
「何こそこそしてるの?」
「ちょっと、場所変えるぞ」
千夏は美葉の手を引いて教室を逃げ出した。
「え、千夏っちどこいくの。強引だなあ」
「いいから」
千夏が言うと、美葉は千夏の腕に抱きついた。
「千夏っちの行くところなら地獄にでも!」
「あー、もう。ベタベタすんな! 走りにくいだろ。そもそも美葉がそういう言動するから、こうやっていろいろ面倒になるんだぞ」
「いろいろ面倒って?」
「いろいろは、いろいろなの」
◇◇◇
教室を離れた三人は女子更衣室へ向かった。放課後の時間帯に利用している生徒はほとんどおらず、更衣室は静かなものだった。洗面台には小さな椅子が並んでいる。千夏と水菜は、美葉を挟むようにして椅子に座り、話をしていた。
「そんなことなら、初めからわたしに聞いてくれればよかったのに」
「美葉が第一発見者と知らなかったんだよ」
「それでどんな事が聞きたい? わかっている範囲でなら答えるよ」
「う~ん、やっぱり事件の時の状況とかかな……」
千夏は腕組みしながら言った。
とりあえず事件の時の状況をもう一度聞いてみたかった。千夏が知る情報は全て又聞きなので、一度目撃者から直接話を聞いてみたかった。
とはいえ、千夏はこういう探偵の真似事はあまり得意ではない。いつも勢いに任せて何とかするのが千夏のスタイルだ。しかし更衣室荒らしの件は、あまりにもとっかかりがなくてどうしようもなかった。
「事件の時の状況って、更衣室荒らしの直後の様子とか話せばいいかな」
「そうそう、例えば更衣室が荒らされているのを見たのって、何時くらいだった?」
「ああ、あれは五時間目が終わった後だから、十四時二十分くらいかな。更衣室に入ったらロッカーが開けっ放しになってて、クラスメイトの一人が着替えが無いって騒ぎ出したの。それからみんなで自分のロッカーを見てみたら、着替えや財布が無くなってた」
「ぐちゃぐちゃに荒らされてたような感じ?」
「うーん、そうでもなかったかな……。ロッカーが開けっ放しになっている以外はきれいだったよ。でも勝手に開けられたロッカーからは物が無くなってた」
「その時怪しい奴とかいなかった? こう……、荷物をまとめて更衣室を出ようとしている奴とか」
「いなかったと思うよ。ちょうど体育の後だったから、みんな更衣室の中にじっとしてたし。それで更衣室の点検をして、その後に各クラスに連絡がいったんだよね」
美葉は言った。その日の放課後に一年七組にもその知らせは届いた。その後の事はある程度千夏も知っている。
「体育の授業が始まる前は、特に何も異変はなかったんだよね」
「うん、私の水着も無事だったし、誰も騒がなかったから無事だと思う」
美葉は答えた。五時間目が始まる前なので時刻は十三時三十分くらいだろう。つまり更衣室荒らしは、一年三組が体育の授業をしている最中、十三時三十分から十四時二十分の間に行われたことになる。そしてその間に更衣室に入った記録は無い。千夏が腕を組んで考え込んでいると、それまで黙って美葉の話を聞いていた水菜が口を開いた。
「美葉さん、事件直後に先生たちが更衣室を調べたじゃないですか。その時に、何か不審なものは見つかりませんでしたか?」
「不審なもの?」
「はい、些細なものでも構いません」
「うーん、多分何も無かったと思うけど……。逆に綺麗に片付き過ぎてて、それが気になったくらいだよ」
「綺麗に、片付いていた……?」
「そうなんだよね。わたしが戻った時も更衣室は誰もいなかったし」
「そう、ですか……」
水菜は俯いてしまった。
千夏は改めて更衣室を見渡した。外から侵入出来る窓でも無いかと探してみたが、どこにも見あたらなかった。換気口も到底人が出入り出来るようには見えない。
千夏がしばらく室内を探っていると、ふと緑色の案内灯が目に入った。室内灯には非常口と書かれている。
「何だあれ」
千夏は部屋の奥へ歩いて行った。そこには小さな扉があった。更衣室の奥にあるのでわかりにくいが、扉の表面には「非常時以外開閉禁止」と書かれていた。
千夏の背後から水菜の声が聞こえる。
「それは、緊急用の非常扉ですね」
「えっ、非常扉……? そんなんがあったの。もしかして、ここから出入り可能?」
「はい、非常口なので手動でロックを外せば出入りは可能です。その場合、おそらく入館記録も残りません」
水菜に言われて、千夏は改めて扉を眺めた。四角い枠が壁に埋まっているだけで、取っ手などは付いていない。押して開けるタイプの扉で、壁に小さな回転式のレバーが埋め込まれていた。
「じゃあ、犯人が入り込んだルートってこれなんじゃないの?」
千夏は声を弾ませたが、水菜は残念そうに首を振った。
「でも、その可能性も低いんです」
「ええ~っ、なんで?」
千夏が言うと、水菜は扉の脇にある機器を指さした。そこにはCD一枚分ほどの大きさの警報機があった。扉の上部には開閉を感知するセンサーのようなものが付いている。
「扉が開けられると、センサー付きの機器から電波信号が発信されて、受信機が非常ベルを鳴らす仕掛けになっているんです。もしこのルートを使って侵入したなら、犯人が更衣室に入った時点でアラームが鳴るはずなんです。これは本当の非常時しか使えないようになっているんですよ」
非常扉は回転式のレバーを回し、手動でロックを外してから扉を開く仕組みになっているようだ。確かに扉には、ロックの解除方法と注意書きが示されている。
「じゃあさ、これが壊れててベルが鳴らなかったってことは……?」
「ゼロとは言えませんが、定期的に点検されているので、その可能性も低いと思います」
水菜は答えた。
「そっか~、結局どこからも入れないわけね」
千夏は地べたに座り込んだ。話を聞いても、噂で聞いていた事実をなぞるだけだ。確かにちょっと聞いてわかるくらいなら、とっくに教師たちが何とかしているだろう。
「あ、そうだ。わたし、そろそろ水泳部の練習に行かないと。練習は出来ないけど、準備や片付けとか手伝わないとね」
美葉は腕時計で時刻を確認した。
「あれ、もうそんな時間だっけ?」
千夏は自分の時計を確認した。時刻はまだ十五時半を過ぎたあたりだ。
「あ、そっか、あたしの時計遅れてるのか」
千夏の時計は古い。放っておくと時間が遅れてしまうのだ。千夏はいそいそと時計の時刻を合わせた。
「千夏っちのそういうレトロなところもカワイイ」
「うるさい。でもありがと、いろいろ聞けて参考になったよ」
「ふふふ、体で払ってくれればいいよぉ。それじゃ、また何かあったら呼んでね」
美葉は軽くウィンクをして更衣室を出て行った。千夏はその後ろ姿を見送った。
「おぞましいことを言い残していくな……。仕方ない、あたしらも行こうか」
千夏は軽くスカートを叩いて立ち上がった。水菜はその間、じっと考え事をしているようだった。
◇◇◇
二人は更衣室を出て、屋内プール周辺の通路を歩いていた。そこは火の玉が出た日、しずくを追って走った廊下だ。昼間に歩くと印象も変わってくる。体育館への通り道にもなっているので、この廊下を通る人は多い。放課後なのに、みんなどこか忙しそうだ。
千夏は両手を頭の後ろで組みながら歩いていた。その隣には水菜が並んで歩いている。どうも更衣室を出てから、ずっと何か考え事をしているようだ。そして水菜は廊下の途中で足を止めた。
「どうしたの? 水菜」
千夏が話しかけると、俯いていた水菜はゆっくりと顔を上げた。
「あの……、火の玉騒動があった日、しずくさんはどんな様子でしたか?」
「ああ、あいつね。あの日、あいつは誰もいない更衣室に潜んでてさ。それであたしらが中に入ると、逃げるように更衣室を出て行ったんだよ。何かすごい慌てた感じだった」
「更衣室を出て行って、宿直室に?」
「たぶんそうだよ。部屋に行ったら、のんびりとお茶を飲んでたし」
「あの……、変な事聞くようですけど」
水菜はそう前置きをしてから、じっと千夏の目を見つめた。不安そうな、相手の顔色をうかがうような目だ。水菜はそっと口を開いた。
「更衣室に潜んでいた人影は、本当にしずくさんだったんでしょうか」
水菜に言われて、千夏はその時の様子を思い返した。確かに、更衣室で見かけた人影は暗くて誰が誰だかわからなかった。一瞬の事だったので男か女かも不明だ。
「言われてみれば、暗かったからあまり詳しくは見てないかも……」
改めて考えてみると、あの影はしずくにしては大きかったように思えた。それにあのしずくが慌てるというのは、あまり想像出来ない。
水菜は口元に人差し指を当てて考え込んでいた。
それは考え事をするときに水菜の癖のようなものだ。その仕草をするとき、水菜は少しだけ艶っぽく見える。もしかすると何か真相を掴みかけているのかもしれない。
千夏が発言を待っていると、水菜はゆっくりとした口調で話し始めた。
「実は、一つ気になっていることがあるんです」
「気になってることって?」
「それは――」
水菜が次の言葉を言いかけた時、千夏の携帯電話が震えた。
「あれ、ごめん水菜。えっと、誰だ」
千夏は携帯の画面をのぞき込む。そこにはクラスメイトの七尾紗友里の番号が表示されていた。七尾とは普段あまり話さない。番号は交換したものの、電話がかかってきたのは初めてだ。不思議に思いながら電話に出ると、七尾の声が聞こえてきた。
「ああ、二宮さん? 今どこにいるの?」
「えっと、屋内プールのあたりだけど、どうかした?」
「ちょっと今、クラスの連中集めてるの。説明が面倒だから、とにかく教室まで来て」
「え、教室って」
「近くに天王台さんとか並木さんはいる?」
「ああ、水菜がいるけど」
「じゃあ連れてきて」
「何、何、どうしたの、急に」
「大事件」
「だ、大事件って――」
千夏がそう答えた時には、すでに通話は切れていた。一方的な連絡だった。かなり苛立っているような口調だった。
水菜は不安そうな表情で千夏の顔を覗っていた。
「誰だったんですか?」
「えっとね、クラスメイトの七尾。よくわからないけど、教室に来いって。大事件って、今度は何だよ、全く……」
千夏はため息をついてから、携帯電話をポケットにねじ込んだ。




