ロケット日和(10)
「なんだってんだ、ちくしょう……」
千夏は机の上にノートを広げ、頭を抱えていた。
数学の授業が終わり、千夏には罰として大量の宿題が課せられた。今日中に百問近い問題を全て解いて提出しなければならないという、非常に面倒な罰だった。それだけでも嫌なのに、さらに気に入らないのは、しずくに何のお咎めが無いところだ。
千夏は忌々しそうにしずくの机を見た。しずくは休み時間になるとノートパソコンを持ってどこかへ消えてしまった。
白丘学園の一年は七組から九組が情報科のクラスになっている。千夏たちのクラスは一年七組。週に何度かは情報系の専門授業がある。授業でパソコンを使うことも多いので、生徒一人に一台、端末が渡されていた。
しかし、しずくが教室に持ち込んでいるのは、学校で渡された端末ではなく、個人の端末だ。その上、そのパソコンを使って勉強しているという雰囲気でもない。あれで何をしているのか、誰もわからないのだ。
千夏はペンの先でコツコツと机を叩く。何故かしずくの事を考えると落ち着かない気持ちになる。それが何なのかわからず、モヤモヤとした気持ちだけが千夏の中に積もった。
「ダメだ。こんなのやってられるか!」
しばらく考えた千夏はペンを放り投げ、思いっきりノートを閉じた。
少しでも気になる事があると、勉強には集中出来ない。千夏はとりあえずしずくが行きそうな場所を探して、もう一度問い詰めてやろうと思い立った。
千夏は教室の扉を開け、廊下に出る。あたりを見回してみるが、壁際で七組の生徒が雑談しているだけで、しずくの姿はない。
「とりあえず第三宿直室だな」
千夏はそう言って歩き出した。
しかしそんな千夏の進行方向に、何者かが立ちふさがった。千夏が顔を上げると、目の前に桜子先生が立っているのが見えた。
「あれ、桜ちゃん、何か用?」
千夏は軽い口調で言った。桜子先生は口をへの字に曲げて腕組みしている。右手にはしわくちゃのプリントを持っている。
「何か用? じゃありません!」
桜子先生はそう言って千夏の耳を掴んだ。
「痛たたたた、何なんですか、一体」
「これは何ですか!」
桜子先生はそう言ってプリントを千夏の前に出した。
顔を近づけてみると、それは将棋盤が書かれた例の数学のプリントだった。千夏はそっとそこから目を逸らす。
「あ、ええと、な、何でしょうかねえ……」
「とぼけるんじゃありません! 数学の手島先生に全部聞きました! 授業中に将棋をやっていたそうですね。それに栗原さんにちょっかいまで出して!」
桜子先生は千夏の耳元で大声を上げた。千夏は両目をつぶった。
「あなたとは一度ちゃんと話をしたほうがいいと思ってここまで来ました。さあ職員室、いや、生徒相談室へいらっしゃい」
桜子先生は千夏の制服の襟を両手で掴んで引っ張った。
「相談室って、あの説教部屋?」
「説教部屋とは何ですか! 生徒相談室というのは、教師が生徒の話をちゃんと聞いて正しい方向へ導く。そのために設置された、ありがたい部屋なんです」
「じゃあ、あたしの言い訳聞いてくれるんですか?」
「いいえ、二宮さんの場合は一方的に説教します」
「やっぱり説教なんじゃん!」
「こら、大人しくしなさい!」
千夏は抵抗したが、桜子先生は千夏の襟を引っ張った。予想以上に強い力で引っ張られたため、千夏の制服の第一ボタンは取れて廊下に転がった。
「ああっ、桜ちゃん、ボタンが……」
「桜ちゃんでもボタンでもありません。春日先生と呼びなさい」
「ちょ、ちょっとボタンくらい拾わせてくださいよ」
千夏は落ちたボタンに手を伸ばした。しかし桜子先生は構わず引っ張ってくる。
その時、千夏の目の前に誰かが立った。
OLが履くような地味目のパンプス。黒いストッキングをつけた足はすらりと細い。千夏の目の前に立っていたのは、黒系のスーツに身を包んだ女性教師だった。その人は廊下に落ちたボタンを拾い、桜子先生に向かって声をかけた。
「桜子先生、次の授業の準備、どうしましょうか」
その声を聞いた桜子先生は振り返った。そしてようやく千夏の襟から手を離した。
「ああ、香苗さん。そうね、準備があったわね」
スーツ姿の女性は、松代香苗という大学生だった。
白丘学園では教科によってティーチングアシスタントという教師のサポート役がつくことがある。
わかりやすく言えば、先生の助手のようなものだ。現役の大学生が抜擢されることが多い。香苗先生は白丘大学の一年生だ。
「授業の準備なんですけど、私ではちょっとわかりそうもなくて」
「ああ、そうね。そこは先生がやらないとね……、ああ、でもこの子の指導があるのよね。どうしようかしら……」
「あ、指導なら大丈夫ですから。気にしないで、どうぞ」
千夏が口を挟むと、桜子先生にじろりと睨まれた。
「あの、それなら私が代わりに彼女に話しておきましょうか」
「え、香苗さんが?」
「はい、いろいろ話は聞いてますし」
「そうねえ……」
桜子先生は口元に指を当てて考え込んでいた。
千夏はそっと香苗先生の表情を覗った。
授業でも何度か見かけたことがあるので、顔と名前は知っている。しかし話したことは一度もなかった。この学校の卒業生で千夏の先輩にあたる。落ち着いた物腰の人で、生徒たちからも人気がある。
しかし千夏は香苗先生がどういう人なのか、計りかねていた。
千夏の視線に気づいた香苗先生は、千夏に微笑みかけた。わずかに香水のにおいが流れてくる。
「こういうのは、年の近い香苗さんに任せたほうが効果あるかしら」
桜子先生が呟くと、香苗先生はにこりと笑いながらこう答えた。
「春日先生もそんなに年は変わらないじゃないですか」
それは桜子先生を図に乗らせるには十分な発言だった。桜子先生は目を丸くし、口元に手を当てて笑いだした。
「ほほ、そうかしら。やっぱり!」
「ええ、そうですよ」
香苗先生は笑顔のまま答える。
千夏は口を開けたまま、そのやり取りを見ていた。
豚もおだてれば木に登る。桜子先生の怒りはどこかへ消え去ってしまったようだ。その扱いの上手さに千夏は感心した。
「も~う、そうねえ、それじゃあお願いしちゃおうかしら。ああ、助かるわー。本当に二宮さんは私の悩みの種だから」
桜子先生はそう言って、襟首を掴んだまま、野良猫のように千夏の体を差し出し、香苗先生は笑顔でそれを受け取った。
「さあ二宮さん、しっかりと香苗お姉さんの言う事を聞くこと。桜子お姉さんは授業の準備に行ってきますから」
「桜子……、お、お姉さん?」
「ほほほ、それじゃあ、お願いね」
桜子先生はそう言ってその場から去っていってしまった。スキップ交じりな歩き方が見ていて痛々しかった。
「な、何なんだよ一体……」
千夏がその後ろ姿を眺めていると、目の前に手が差し出された。その手のひらには千夏のボタンがあった。
「とりあえず場所を変えて話しましょうか」
香苗先生はおちついた口調で言った。
◇◇◇
千夏が連れられた相談室は、職員室の脇にあった。
進路相談や問題を起こした生徒の注意などに使われる部屋で、あまりお邪魔したくなるような場所ではない。千夏はため息をつきたくなるのを必死でこらえた。
千夏は茶色のソファーに腰を下ろし、さりげなく時計を確認した。
次の授業があるので、話は長くても五分程度だろう。説教が始まることを覚悟して身構えていた千夏だったが、香苗先生の第一声は意外な一言だった。
「はい、制服脱いで」
意表を突かれた千夏はぽかんと口を開けていた。
「へ? 制服ですか?」
香苗先生は大きく頷いた。そして鞄から裁縫セットを取り出し、その蓋を開けた。
「ボタン。付けないと格好わるいでしょ」
「え、あの、いいんですか」
「もちろん、すぐ終わるから、早く貸して」
千夏は言われるままに制服を脱ぎ、香苗先生に渡した。
「縫い終わるまでタオルケット被っててね」
香苗先生はソファーにかけてあったタオルケットを千夏の頭からかぶせた。
意外な展開に千夏は戸惑った。タオルケットから顔を出すと、香苗先生は手際よく千夏の制服にボタンを縫い付けているところだった。
「あの……、説教はしないんですか?」
「説教してほしいの?」
香苗先生はいたずらっぽく言った。その口調は、年の近さを感じさせるものだった。よく考えれば、千夏と三歳ほどしか違わない。
「春日先生の手前ああ言ったけど、別に説教する気はないわ。軽く世間話する程度かな」
ボタンに糸を通しながら香苗先生は言った。
スカートから形の良い脚が伸びている。香苗先生はゆっくりとした動作で脚を組み替えた。
その話し方や態度は、同年代の女子とは違ってずいぶん大人っぽい。何となく生徒から人気が出るのもわかる気がした。
「でも、世間話といっても、たいして面白い話は……」
「じゃあ、こっちから質問しようかしら」
香苗先生はそう言って千夏の反応を見た。
初めて話すのに、香苗先生は十年来の親友と会話すような口調で話かけてくる。
「あなた、栗原さんと仲いいの?」
「えっ? ああ、あの転校生ですか。別に仲良くないですよ。いろいろ怪しいから、話しかけているだけで」
「怪しいって、どの辺が?」
「クラスに馴染もうとしないし、一日中パソコンいじってて、何をやってるかわからないし……」
「ふ~ん、やっぱりクラスでもそういう変わった行動をしてるのね」
香苗先生は答えた。
やっぱりという言い方が、千夏の中で引っかかった。
桜子先生も、昼休みにコソコソとしずくの様子を観察しに来ていた。どうもしずくは教師達の間から注目されるような存在に思える。
「あの……、やっぱりってことは、先生たちも何か気になってるんですか?」
「先生たちもそうだけど、あの子自身もこの学校の事が気になってるみたいよ」
「そうなんですか? でも、クラスメイトとかにもあまり興味ないような印象を受けたんですけど」
「そうね、学校にいる人ではなく、学校そのものが気になってるのかな。これは聞いた話だけれど、彼女、この学校の事をいろいろ調べてるみたいなのよ」
「学校の事を調べてるって、あいつが? どうして……」
「それがわからないのよね……。春日先生も、学年主任の田所先生もわからない。何かを探してるみたいだけど、話そうとしないって」
「何かを、探している……?」
千夏はソファーに寄りかかった。
しずくはいつもパソコンをいじっている。それも何か調べているからなのだろうか。何をしているかはさておいて、確かに目的があってやっているように見えた。
「あなたは、彼女を見ていて何か気になるところはある?」
香苗先生は言った。
幽霊騒動や何やらで、その素性は確かに気になっている。しかしそれとは別に、何だかモヤモヤした気持ちが自分の中にあることも、千夏は自覚していた。
「何となく、気になるんですよ。理由は上手く説明出来ないんですけど……」
「ふ~ん、そっか、何となくね。まだ言葉には出来ないって感じかしら」
「ええ、まあ、そんな感じです」
「まあ、あせらずゆっくり考えてみるのがいいかもね。はい、完成」
香苗先生は千夏に制服を渡した。外れたボタンは綺麗に縫い付けてあった。
「あの、ありがとうございました」
「いいのよ。女の子がボタン外れたままじゃ変でしょ」
香苗先生はそう言って裁縫道具をしまった。千夏は頭から制服を被った。
「何にせよ、あまり深く立ち入り過ぎないようにね。春日先生も心配してるから」
「そうですね、努力します。ははは」
千夏は笑って答えた。部屋の時計を眺めると、相談室に来てからちょうど五分が経過していた。
「さて、次は情報の授業よ。教室に戻りましょうか」
「あ、次って情報でしたっけ」
「そう。春日先生と私の授業。さあ、早く教室に戻りなさい」
香苗先生は流れるような動作で立ち上がり、鞄を抱えた。そして千夏の肩を軽く叩いて、相談室の扉を開けた。千夏も立ち上がり、そそくさと相談室を後にした。
◇◇◇
「は~い、では前の時間でも言っていたとおり、今日から実習に入ります」
情報の授業は桜子先生の一声で始まった。
情報系のスキルを身に付けさせることを目的とした授業が情報の授業だ。桜子先生が受け持っており、そのアシスタント役が香苗先生になる。
授業は電子ボードというデジタル形式の黒板を使って行われる。
生徒の机の表面はパネル状になっており、電子ボードの起動に合わせて、机のパネルにも同じ内容が映し出される。桜子先生は電子ボードを操作し、卓上のパネルに課題内容を映した。
「では、とりあえず、課題から説明します」
桜子先生はそう言って課題内容を説明し始めた。
課題は、各々でプログラムを作成し、桜子先生の端末にあるテストデータを一覧表示させるというものだった。
プログラミングの基本はこれまでの授業で習っている。これまでにコーディングしたプログラムは単純なものばかりだったので、こうした複雑な課題は初めてだった。
「実行完了して、正常な結果が出力されるまでが課題です。完了した人はこちらに名前が出るようになってます。自分の名前が出たら課題完了です。それでは実習を始めてください」
桜子先生はそう言って両手を叩いた。それを合図にして教室の生徒がぽつぽつと課題に取りかかり始める。
千夏は横目でしずくの様子を見た。
しずくはマウスを握ったまま、ぼうっとしていた。休み時間のような真剣さは微塵もない。
――彼女、この学校の事をいろいろ調べてるみたいなのよ
千夏の脳裏に、香苗先生に言われた言葉が頭をよぎった。
何の目的でそんなことをするのだろう。少し考えたが、情報が少なすぎてわからなかった。
あせらずゆっくり考えた方が良い。香苗先生はそう言っていたが、そう簡単に落ち着けないのが千夏の性分だった。気がつくと、千夏はペンの先でしずくの手をつついていた。
「さっきの将棋勝負では油断したけどな、今度はそうはいかないからな」
千夏が言うと、しずくは首をかしげた。
「将棋?」
「忘れてるよ! 前の授業の時に、プリントで将棋勝負したろ」
「あったような、なかったような」
「あったよ! 次はああはいかないからな」
「まだ何かあるの」
「もちろんだ。次のテーマはこの授業の課題でどうだ」
千夏はそう提案した。
この授業の課題は勝負にはうってつけだった。
前の授業では将棋勝負に負けた上に、教師にまで怒られた。しかし今回の課題は授業の一環なので、怒られることはない。堂々と白黒つけるにはもってこいだ。
「先に課題を終わらせたほうが勝ち。これでどうだ」
「わかった」
「早いな決断が。まあいい。力の差を見せつけてやるぞ」
千夏は課題に目を通した。
情報系の授業は、どちらかといえば千夏の得意分野だった。
古典や英語に比べればずっと成績もいい。千夏は張り切って課題に取りかかった。
しかし、そんな千夏でも、今回の問題文を読んでいると、みるみる眉間に皺が寄っていった。
「何だこれ、何をやらせたいんだ……」
データベースへの接続。クラスの実装。授業で聞いた事がある気がするが、馴染みがなさすぎてどうしていいかわからなかった。正直、教科書を見ながらでないとわからない。
まわりも同じレベルなのだろう。実際に端末を操作している生徒は一人もいなかった。
千夏は周囲とのレベルの差が無い事に安心し、ほっと一息ついた。
しかしその時、隣から嵐のようなキーボード音が聞こえてきた。
千夏は驚いて顔を上げた。
隣を見ると、しずくがすごい勢いでキーボードを打ち鳴らしていた。
しずくの指は肉眼で動きを捕らえるのが困難なくらい、高速で動いていた。表情は涼しい顔のまま、次々と画面にウィンドウが立ち上がっては消えていく。
「え……?」
千夏は口をあんぐり開けたまま、その様子を見ていた。
教室中の生徒がその音に気づいて、しずくに注目する。しかし、しずくはまわりの反応など全く気にせずキーボードを叩き続けた。
最初はデタラメに打ち鳴らしているだけかと思った。しかし、しずくの様子をよく見てみると、きちんと目で画面を追いながら、何かのコマンドを連続して打ち込んでいるようだ。別のウィンドウでは、テキストファイルにコードが高速で書き込まれていく。
しばらく続いていたその音は五分ほどでやんだ。しずくが手を止めると教室には深い沈黙が流れた。
そして、ある生徒が前方の電子ボードを指さし、教室中がざわついた。
――栗原しずく 課題完了
教卓の前の電子ボードに、しずくの名前が載っていた。桜子先生が慌てて端末を確認する。そして口元を押さえた。
「栗原さん、課題終わってる……」
「嘘~っ!」
千夏は驚いて思わず立ち上がった。
千夏とは対照的にしずくはぼけっと座ったままだ。
しずくの画面には小さなウィンドウが何画面も立ち上がっており、その中には見た事もないような複雑なコードが記載されていた。




