新平和主義
この論理にはあなたを不快にさせる論理が含まれている可能性がある。
それを理解し、読んで欲しい。
そして、私はあなたにこの文にある思想を押し付けるような愚を考えていない。
平和主義において、私は消極的平和主義と積極的平和主義の二つの観点があると考えている。
そして、平和主義において最も最悪なのは消極的平和主義であり、最良であるのは積極的平和主義である。
第一に消極的平和主義とは何か?
消極的平和主義とは、すなわち、自ら国を守らず周りの国の意見に流されていくことである。
「小人、同じて和せず」と言うように、周りの大国に媚びへつらいおべっかを使い、その大国の意見に従うような恥知らずな主義である。
また、これが極端に行くと自国の地位よりも矮小な国にでも頭を下げるようになる。
その典型例が日本であることを忘れてはならない。
最近、尖閣諸島の問題で中国人の領海侵犯者を捕らえておきながら、中国の威圧に負け、これを釈放するという痴態を犯した。
また、竹島については韓国の暴動を恐れその領土問題を棚上げにし、国家の重要な問題を先延ばしにし続けている。
北方領土においてもそうだ。
欧州諸国が北方領土を日本の物だ、と援護し続けているにも関わらず日本は北方領土を取り戻せずにいる。
なんと、腑抜けたことか。
大凡、この消極的平和主義の背景には日本の第二次大戦後の自虐的歴史観が大きく関係しているのだろう。
日本はその自虐的歴史観を背景に周りを刺激しないようにし続けたがためにこのような小人の国に成り下がってしまったのは言うまでもない。
だが、その自虐的歴史観は正しいのだろうか。
よくよく東南アジアの日本の評価を見る限りでは特定アジアと呼ばれる地域を除き日本を肯定的に捉えている国が多数存在する。
自虐的歴史観によれば、日本は第二次大戦において侵略と暴虐の限りを尽くしたらしいが、東南アジアの多くの国はそれとは反対の証言をしている。
ある国では、旧日本軍の残留部隊によって独立を果たせたのだから日本には感謝せねばならない、というものや、日本は我が国にダムを作り、道路を整備し、学校を設立してくれた、なので、もっと日本と仲良くし、いつか恩返しをしたい、と言う内容をよく聞く(一部を抜粋した)。
それらの国々の言葉を聞く限り、本当に日本は侵略戦争をするために第二次大戦に臨んだのかが疑問に思う。
故に、私は一つの可能性を提示する。
実際は当時の白人たちの植民地を解放し、国として独立できるように施したのではないか。
そして、多くの国を独立させ共に大東亜共栄圏を作り上げ、強大な欧州・欧米に対抗しようとした。
しかし、敗戦し、その目論見が潰れた。
さらに、連合国側が日本を恐れていたという事実もあることから日本が全て悪いとなり、自らの過ち以外に身に覚えのない罪まで被せられたとしたらどうだろうか。また、日本人の気質を知っていた連合国側は日本人に自虐的歴史観を植え付けることで日本の報復戦争という憂いを絶つことにしたらどうだろうか。
実際にそれがそうだとしたら、全てが納得がいく。
現実において、日本が大規模な虐殺を出来るほど資源が豊かではなかったことや露骨な人種差別によって他国の民草を虐げたと言う話が韓国と中国を除いて殆どないことをあげると、やはり、しっくりとする。
確かに、戦争中、日本が悪いことをまったくしていなかったと言えば、そうとも言えないが、大概は善意によって行われたものや大戦中に大きな暴動を防ぐために人権を無視した行動に走ったこともあるだろう。
だが、そこに理由も無く行ったことは一つも無いはずだ。
また、それとは別に多くの東南アジアが戦後、独立を果たした。
日本が狙っていたであろう大東亜共栄圏の基本骨子が皮肉にも日本が消極的平和主義に陥った後に完成したのだ。
日本は消極的平和主義者となったがために大国の財布、大国の使いパシリ、大国の小姓など考えればいくらでも皮肉を言えるような国になってしまっている。
また、商売相手には自分の主体性を殺しきりへこへこと昔の商人が殿様に媚びへつらうような姿勢で対応するようになった。
消極的平和主義であることは導き手を必要とする国にとって非常に迷惑なものだ。
肝心なときに弱腰になり、とうとう守るべき国と同胞を不幸に陥れてしまう。
消極的平和主義と言う概念とは近年の日本のように相手の意見に無条件で賛成するだけで、自らの意見を持たないような小人の理論と言える。
一方、積極的平和主義とは何か。
私は積極的平和主義とは「聖人、和して同ぜず」と定義する。
つまり、自らの主体性を保ち互いに協調し合う柔軟な姿勢を持ち、自らの主体性が侵されるようならば、これに毅然とした態度で望む主義である。
それは、平和主義に程遠いものに思えるだろうが、それは違う。
何故ならば、この主義の根底にはなるべく話し合いによって解決することが含まれており、自衛などの戦闘については国家の独立と同盟国の主体性を脅かされない限り有り得ないものであるという考えがあるからだ。
分かり易く例を出そう。
もしも、尖閣諸島において積極的平和主義の体制を日本が築けていたならば、日本は悪を悪としあの中国人を公正な司法の下で裁くか強制送還及び中国人の入国制限などの処置を取り、国家の主体性について中国側に示せただろう。
また、現在のような領土問題に発展しなかったかもしれない。
竹島においても棚上げせずに、ハーグ国際司法裁判所に韓国側に出廷するように要請しつづけられただろうし、日本製品の不買運動があったとしてもこちらに理があると毅然とした対応が出来たはずだ。北方領土についても拉致問題についても同様のことが言える。
これらの例から積極的平和主義において、重要なことは三つあると言える。
一つ、物事の道理を見抜く力。
一つ、道理のために毅然と立ち向かえる勇気と精神力。
一つ、自らに非があるならば、正直にそれを認める判断力。
これら三つの項目を体現し、初めて積極的平和主義を貫けるのだ。
また、日本人が自虐的歴史観から抜け出し、祖国への愛国心を取り戻したのならば、これを成すことは非常に容易いことであり、日本人ならば、誰でも出来ることである。
そもそも、昔から日本人はそのようにやってきたのだ。
ならば、今まで当たり前にやってきたことが果たして今、出来ないなどという不思議なことがあろうか、いや、有り得ない。
積極的平和主義の重要な項目三つを一つにしてしまえば、それを「正直」であることと言い換えることが出来る。
そして、アジアの盟主にはそう言った偏りのない公平かつ毅然とした国が必要なのだ。
「聖人、和して同ぜず」、すなわち、積極的平和主義の基本骨子とは主体性と協調の二つが肝要であるということだ。
最後に、これを成すための私の考えを述べたいと思う。
この積極的平和主義の概念を獲得するには日本は対外的な独立を果たさなくてはならない。
今の日本は軍事以外は対外的に独立し、日本が無ければ経済などの主要な分野が大きく傾くとされている。
しかし、軍事においてはあまりにも儚く、積極的平和主義を成すには、どうも、心許ない。
一つ、言っておくが、私は戦争賛成論者ではない。
戦争はなるべく避けるべきであり、侵略のための戦争は言語道断であり、それは永久に破棄すべきものだ。
しかし、自衛においては訳が違ってくる。
力を持ち悪事を働くものに正論を申し立てるのであれば、その者はそれに対応し得る力を持ち合わせなくてはならず、また、正道を歩むにあたっては、悪党にその道を破壊されないように悪党を迎え撃ち、これを撃滅する力を持たなければならない。
従って、侵略のための戦争とは完全なる悪事であり、これを擁護することは不可能であるが、自衛のための戦争においてやむを得ず国家の主体性を守るため、国の民を守るために国家の力を発動させるという事態と言うことになる。
これは避けられるのならば、避けるべきだが、領土の不法占拠や領土の不当な侵犯及び侵略において毅然とした対応の一つとして行わなければならない。
だが、日本国憲法九条ではやってはならない戦争とやむを得ない戦争の両方を否定するという愚を犯し、日本国の主体性を大いに殺してしまっている。(解釈によって自衛を認められてはいるが、主体性の何たるかを知らぬ消極的平和主義者の体のいい言い訳になっている。彼らは恐らく大国や商売相手に媚びつづけることが平和だと信じてやまない者なのだろう。)
この積極的平和主義を成すために行うべき第一歩は平和憲法たる憲法九条について、「日本国が侵略戦争を永久に破棄する」ことと「日本国が国際法の範囲内で国家の権限たる自衛の権利を成すことを宣言する」ことの二つを盛り込んだ新平和憲法第九条を制定する必要がある。
これによって、日本国は例え大国に脅迫されようと毅然とした対応を取ることが出来る。
また、自国の領土を不法占拠をしている不義の国に裁判所に赴くように勧告してもそれに応じないときに国家の力を示し、その国に身の程を弁えさせることが出来る。
これは非難されるべきことではなく、日本が日本の権利の主体性を守りかつ国民の安全を守るための最善かつ最低限の行いなのである。
ならば、どうしてそれを行わないことがあろうか、いや、ないだろう。
後書きを書かせて貰いたい。
いや、弁明と言うべきだろうか。
私の拙い理論や意見を振り回したことをここで謝罪する。
しかし、私は昨今の日本を見て危機感を感じ、怒りを募らせている。
政府の対応の情けなさや迅速さに欠いた震災復興、愚行とも言える政治。
我々、日本人はいつからこのような愚者になったのだろうか。
福沢諭吉翁や伊藤博文閣下のような偉大な啓蒙思想家や英雄はもう日本人にはいないのであろうか。
いや、私は居るはずだと確信している。
ただし、そのような偉大な日本人となるには少々厄介な問題を解決しなければならない。
本文にあるように、日本人の誇りと愛国心の復興だ。
日本人の多くは偉業を成し遂げるための大事な基盤を失っている気がしてならない。
この少々厄介な問題を一掃する簡単な方法がある。
日本という国の成り立ちを一から学ぶことだ。
日本には万世一系の皇族が居られる。
そして、それは世界中、どこを探しても日本だけなのだ。
また、皇族は日本の建国に大きく関わっており、皇族を知ることは日本を知ることと言っても過言ではない。それらの日本の成り立ちと日本の歴史、文化を知ることは日本人の誇りと愛国心の復興に大きな役割を果たす上に国際人としての第一歩になる。
これをお読みになった人は日本建国を詳しく解説できるだろうか。
出来ない人が殆どのはずだ。
今まで日本自虐史を学んできたのだから。
そして、それが出来ないということは日本人としてこの上なく恥ずかしいことでもある。
アメリカ人がアメリカの独立戦争を話せないなんてことがあるのか。
イギリス人がイギリスの建国の経緯を知らないことが有り得るのか。
答えは否だ。
それらの自国の建国についての歴史は国際人ならば、知っていて当然であり、国際人でなくとも知っているのが常識なのだ。
私の危機感などを打ち晴らす第一歩には日本の正確な歴史認識をすることが一番重要である。
そして、それは何も恥ずかしいことなんかじゃない。
むしろ、格好のいいものだ。
自国の歴史や文化において誇れるところは誇り、反省すべき点があれば反省する。
その当たり前の行動を各人が起こしてほしい。
そうすれば、現在の消極的平和主義者の情報や詭弁に振り回されずに済む。
そして、それを実行するにあたって言葉を贈りたい。
陽はまた昇る
原子の黒煙が太陽を覆い落陽しようとも
震災の砂煙が何度太陽を包み隠しても
震災の波が太陽を飲み込もうとしても
日本が日本であり続ける限り
日本人が日本人であり続ける限り
何度、落陽を迎えても
陽はまた昇る
太陽は必ず日の本を照らす
これを出来れば胸に刻んで貰いたい。
長話をしてしまった無礼を詫びる。
では、失敬。
この文章はあなたにこの思想を強制するものではない。
また、あなたが文章を一つ一つ考え解釈し、信じるか馬鹿げた論理だと切り捨てるかしてほしい。