ここで待っている
カラン、と店の入り口の鐘が鳴る。
「いらっしゃいませ!」
リディアはくるりと振り返り、新たな客に笑顔を向けた。
席へ案内し、水を置く。
注文を受け、軽やかに厨房へ声をかける。
その間も、笑顔は崩さない。
──どんな客にも、同じように。
*
鏡の前で、口の端に指を添える。
もう少し。
ほんの少しだけ、上に。
何度かそれを繰り返す。
頬が、わずかに引きつる。
「リディア、休憩は終わりだよ」
「はーい」
呼ばれて、表情を整えたまま階段を駆け降りた。
大きな街の、大きなレストラン。
リディアはそこで、働いていた。
昼も忙しいが、夜はさらに賑わう。
「リディアちゃん、注文いいか?」
「もちろんです!」
笑顔を向けると、客もつられるように笑った。
「いつも、ありがとうございます!」
「こっちのセリフだぜ」
「リディアちゃんを見てると、元気が出るよ」
元気な客には、元気な笑顔を。
静かな客には、静かな笑顔を。
いつしか、“看板娘”と呼ばれるようになっていた。
リディアは、そのことを──ひっそりと誇りに思っていた。
そしてその呼び名に、応え続けていた。
*
両親に先立たれ、途方に暮れていたところを拾ってくれたのが、この店の主人だった。
接客は、なかなか慣れなかった。
大きな声も出ないし、もたついてしまって客に怒られた。
「申し訳ありません……!」
声が震えて笑顔が崩れた。
「リディア」
店の裏。
同じ接客係の少女に、中指で額を弾かれる。
リディアは赤くなった額を押さえ、涙目で少女を見返した。
「痛い……何するの?」
「か、お。……硬すぎ。そんな顔で表に出るの、やめてくれない?」
リディアは思わず眉を下げた。
「でも……」
「裏方の仕事だってあるのよ。表に出るなら、せめて笑顔を維持しなよ」
ぎゅっとエプロンの裾を握る。
裏方は、無理だった。
手が滑ってしまい、皿を落としたことがある。
その時、無言で睨まれた。
手足が震えて、動けなかった。
以来──厨房長が怖くて仕方なかった。
せめて、表の接客を頑張ろうと思った。
でも、こちらでも失敗をたくさんした。
忙しさのあまり足がもつれ、テーブルにぶつかる。
酒の入ったグラスが倒れ、客の装備を台無しにしてしまった。
「気をつけやがれ!」
怒鳴られ、肩が震えた。
必死に謝り、顔を上げる。
でも、笑顔を浮かべれば──それ以上は何も言われなかった。
だから──その顔を覚えた。
口の端を固定したまま、今日も忙しく店内を巡る。
新しい客が来た。
「いらっしゃいませ!」
そのとき、自分が笑っているのかどうかも──わからなかった。
*
ある夜のことだった。
馴染みの客がやって来て、いつものように笑顔で迎える。
だが、様子がおかしかった。
酒ばかり注文し、あっという間に出来上がってしまう。
そして大声を出しながら、周囲に絡み出した。
店や他の客への迷惑になってしまう。
リディアは深く息を吸うと、ぐっと拳に力を込めた。
逃げ出しそうになる足を叱咤し、男のもとへ向かう。
「お兄さん」
声をかける。
椅子にだらしなく沈んでいた男が、ゆっくりと顔を上げる。
濁った目が、下から睨みつけてきた。
「お水、お持ちしましょうか?」
体の前で両手を強く握り、笑顔で言った。
「水なんていらねえ……酒を寄越せ」
低く、ねばつく声だった。
「少し、おやすみになったほうが……」
「なんだ……リディアじゃねえか。なあ、酌しろよ」
ぞわりと、全身に鳥肌が立つ。
「そういったおもてなしは……」
男の口元が歪む。
「俺の頼みが……聞けねえのか!?」
男が立ち上がり、椅子が倒れる。
空気が張り詰める。男が腕を振りかぶった。
リディアは身を縮め、歯を食いしばる。
──怖い。
ぎゅっと目をつぶった。
だが、衝撃はこない。
ゆっくり目を開けると、振り下ろされるはずだった腕は、途中で不自然に止まっていた。
いつの間にか背後に立っていた青年が、その手首を掴んでいた。
「ここは夜の店じゃない。辛いことがあったなら、俺が聞こう」
「あ?この、青二歳が……」
場の空気が一変した。
男は青年を殴ろうとするが、周囲が慌てて止める。
「おい、やめとけ。こいつ、金の……」
青年がわずかに首を傾けた。
その仕草だけで、場の空気がさらに静まる。
ぎり、と骨が軋む音がする。
男の顔が一瞬で歪む。
「水を頼めるかな?二人分」
「あっ……はい!」
反射的に返事をしていた。
リディアは慌てて水を取りに向かう。
戻ると、奇妙な光景が広がっていた。
向かい合って座るはずのテーブル。
だが、男は青年の隣に押し寄せるように座り、肩に腕を回して、そのまま縋りついている。
さっきまでの荒さはどこへいったのか。
重たい体を預けるようにして、男は途切れ途切れに言葉を吐き出す。
リディアはそっと、テーブルにグラスを置いた。
青年と一瞬目が合う。
彼は少しだけ眉を下げて笑うと、すぐ男に視線を戻した。
男の取り留めもない話を聞き、時折頷き、やがて腕を組む。
最後には男の肩を励ますように叩いていた。
それからというもの、青年の淡い金髪がふと目に入るようになった。
いろんな旅人に囲まれていて、笑うとすぐに場の空気が明るくなる。
そして気取らない言葉で、誰とでも軽やかに会話を弾ませる。
気づけば、少し離れたところから静かに見つめていた。
いつも──楽しそうだった。
*
旅人。
それは、村や街を巡り、魔獣退治をして糧を得る人たちの総称だ。
彼自身も旅人で、いつも灰髪の大きな男と共にいた。
「いらっしゃいま──せ……」
目の前に壁があった。
リディアはぎこちなく顔を上げる。
灰髪の男と目が合った瞬間、背筋がひやりとした。
視線だけで、足がすくみそうになる。
男の背後から顔を出した青年が、すぐにその肩に腕を回す。
「こいつ……この形でまだ十六、しかも俺より年下なんだ」
リディアは目をまん丸にした。
男が眉をひそめる。
「お前……暗に俺を老け顔と言っているのか?」
「そんなつもりはない。貫禄があると言っている」
青年は屈託のない笑顔で言い切った。
男の表情がわずかに緩む。
青年は──いつも笑顔だった。
気付けば、口を開いていた。
「ずっとその顔で……疲れないの?」
青年は虚を突かれたように、ゆっくりと瞬きをする。
「……人を笑わせたいなら、まず自分が笑わないとな」
そう言って、彼は蒼い瞳を細め、にっと笑った。
*
二人が食事を終えたのを見計らい、意を決して歩み寄る。
青年を見つめて、リディアは声をかけた。
「この前は……ありがとう」
青年は首を傾げ、背後を振り返る。
だが、そこには誰もいない。
「……お前だろ」
「ああ……俺なのか」
灰髪の男が、呆れたようにため息をつく。
リディアはいつもの笑みを浮かべた。
震えそうになる声で、なんとか伝える。
「助けてくれたから……何か、お礼がしたくて」
青年が顔を上げる。
「礼なんて、不要だ」
即答された。
あまりに予想外で、言葉が出てこない。
用意していたものはほどけて、指先だけが落ち着きなく動いた。
青年が慌てたように手を小さく振る。
「俺は、自分のできることをしただけだ。あなたの気持ちを無下にしたいわけではなくてだな……」
少し早口で補いながら笑みを戻す。
けれど、どこかぎこちない笑みだった。
リディアは少し考え、提案する。
「……賄いの試食とか、どうかな?」
「いいな、それにしよう」
横から、灰髪の男が食いついた。
「ちょっと待て、俺への礼だろ」
青年が抗議する。
「だが、不要と言ったじゃないか」
淡々とした言葉に、青年の動きがぴたりと止まる。
灰髪の男は、温度のないしらけた視線を向けた。
青年は一瞬だけ口を開きかけて、何も言えずに閉じる。
やがて、小さく息を吐いた。
観念したように、こちらをまっすぐ見つめる。
「だったら……心から笑ってほしい」
一瞬、息が詰まった。
まるで胸の奥に釘を打ち込まれたようだった。
「あなたの笑顔は、どこか……作り物のようだ」
口元がぎこちなく揺れる。
取り繕おうとすればするほど、いつもの表情の作り方がわからなくなる。
灰髪の男がふっと鼻で笑った。
「気障な奴」
「お前……」
眉がぴくりと跳ねる。
「価値をつけられないものの価値を、知らないだろ」
青年の声はいつもより少し低く、それでいて少しだけ荒く響いた。
──眩しかった。
違う世界の人間だな、と思った。
きっと、そういう場所に立っている人だ。
思わず、言葉が口をついた。
「……二人とも……若くして有望だって、旅人の間で噂だよ」
だが、青年はふっと視線を落とした。
普段の笑顔は影を潜め、口元には小さな笑みがひっそりと浮かぶ。
「俺は、兄に家の全てを任せきりにして放浪する、情けない弟だ」
その言葉は、あまりに彼らしくなかった。
だから──場を和ませるための冗談だと思った。
「リディア、いつまで立ち話してるんだい」
「あっ……はい!今戻ります!」
踵を返しながら、青年を横目で見る。
すでにいつも通りの笑みで、灰髪の男と会話していた。
──心から笑う。
どうすればそれができるか、わからなかった。
別に、作り物の笑顔でも。
それで喜ぶ人がいる。それの、何がいけないのだろうか。
青年と目が合った。
笑って手を振ってくれる。
眩しくて、思わず目を細めた。
*
その夜、店長から釘を刺された
「旅人と……ずいぶん仲良くしてるようじゃないか」
誰かを特別扱いしているつもりはなかった。
決めつけるような言葉が、胸にずしりと重くのしかかる。
言い返す勇気も出ないまま、ぎゅっと手を握った。
「必要以上に親しくなるのはやめときな。旅人なんてね……いつ、ぱったり来なくなってもおかしくないんだよ」
弾かれたように顔を上げる。
ゆっくりと首を横に振る。
どうしてそんなことを言うのか、わからなかった。
「店長の旦那さんも、旅人だったらしいわ」
後から、接客係を長く務める女性が教えてくれた。
「ある日を境に、連絡が途絶えて……それきりなんだって」
持っていたトレイが滑り落ちる。
ガラン、と音が響いた。
そういえば最近、あの馴染みの客の姿を見ていない。
あの人も──旅人だった。
*
街の中にいると、感覚が麻痺してしまう。
街の外に出る旅人は──また会えるとは、限らない。
だからこそ。
無事に戻ってきた彼らを、温かく迎えたい。
ほっと一息つける場所でありたい。
その時に、偽物の笑顔を──向けるの?
カラン、と店の入り口の鐘が鳴る。
リディアはくるりと振り返った。
灰髪の男と話しながら入ってきた青年と、視線がぶつかる。
息をひとつ、吸った。
「おかえりなさい」
青年は少しだけ目を見開いて。
それから柔らかく目を細めた。
「ただいま」
帰りたいと思ってくれますように。
その想いを、そっと乗せて。
今日も──ここで待っている。




