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ここで待っている

掲載日:2026/04/01

 カラン、と店の入り口の鐘が鳴る。


「いらっしゃいませ!」


 リディアはくるりと振り返り、新たな客に笑顔を向けた。


 席へ案内し、水を置く。

 注文を受け、軽やかに厨房へ声をかける。


 その間も、笑顔は崩さない。


 ──どんな客にも、同じように。



 *



 鏡の前で、口の端に指を添える。


 もう少し。

 ほんの少しだけ、上に。


 何度かそれを繰り返す。


 頬が、わずかに引きつる。


「リディア、休憩は終わりだよ」

「はーい」


 呼ばれて、表情を整えたまま階段を駆け降りた。


 大きな街の、大きなレストラン。

 リディアはそこで、働いていた。


 昼も忙しいが、夜はさらに賑わう。


「リディアちゃん、注文いいか?」

「もちろんです!」


 笑顔を向けると、客もつられるように笑った。


「いつも、ありがとうございます!」

「こっちのセリフだぜ」

「リディアちゃんを見てると、元気が出るよ」


 元気な客には、元気な笑顔を。

 静かな客には、静かな笑顔を。


 いつしか、“看板娘”と呼ばれるようになっていた。

 リディアは、そのことを──ひっそりと誇りに思っていた。


 そしてその呼び名に、応え続けていた。



 *



 両親に先立たれ、途方に暮れていたところを拾ってくれたのが、この店の主人だった。


 接客は、なかなか慣れなかった。

 大きな声も出ないし、もたついてしまって客に怒られた。


「申し訳ありません……!」


 声が震えて笑顔が崩れた。


「リディア」


 店の裏。


 同じ接客係の少女に、中指で額を弾かれる。

 リディアは赤くなった額を押さえ、涙目で少女を見返した。


「痛い……何するの?」

「か、お。……硬すぎ。そんな顔で表に出るの、やめてくれない?」


 リディアは思わず眉を下げた。


「でも……」

「裏方の仕事だってあるのよ。表に出るなら、せめて笑顔を維持しなよ」


 ぎゅっとエプロンの裾を握る。

 裏方は、無理だった。


 手が滑ってしまい、皿を落としたことがある。

 その時、無言で睨まれた。


 手足が震えて、動けなかった。

 以来──厨房長が怖くて仕方なかった。


 せめて、表の接客を頑張ろうと思った。

 でも、こちらでも失敗をたくさんした。


 忙しさのあまり足がもつれ、テーブルにぶつかる。

 酒の入ったグラスが倒れ、客の装備を台無しにしてしまった。


「気をつけやがれ!」


 怒鳴られ、肩が震えた。

 必死に謝り、顔を上げる。


 でも、笑顔を浮かべれば──それ以上は何も言われなかった。


 だから──その顔を覚えた。

 口の端を固定したまま、今日も忙しく店内を巡る。


 新しい客が来た。


「いらっしゃいませ!」


 そのとき、自分が笑っているのかどうかも──わからなかった。



 *



 ある夜のことだった。


 馴染みの客がやって来て、いつものように笑顔で迎える。

 だが、様子がおかしかった。


 酒ばかり注文し、あっという間に出来上がってしまう。

 そして大声を出しながら、周囲に絡み出した。


 店や他の客への迷惑になってしまう。

 リディアは深く息を吸うと、ぐっと拳に力を込めた。

 逃げ出しそうになる足を叱咤し、男のもとへ向かう。


「お兄さん」


 声をかける。


 椅子にだらしなく沈んでいた男が、ゆっくりと顔を上げる。

 濁った目が、下から睨みつけてきた。


「お水、お持ちしましょうか?」


 体の前で両手を強く握り、笑顔で言った。


「水なんていらねえ……酒を寄越せ」


 低く、ねばつく声だった。


「少し、おやすみになったほうが……」

「なんだ……リディアじゃねえか。なあ、酌しろよ」


 ぞわりと、全身に鳥肌が立つ。


「そういったおもてなしは……」


 男の口元が歪む。


「俺の頼みが……聞けねえのか!?」


 男が立ち上がり、椅子が倒れる。


 空気が張り詰める。男が腕を振りかぶった。


 リディアは身を縮め、歯を食いしばる。


 ──怖い。


 ぎゅっと目をつぶった。

 だが、衝撃はこない。


 ゆっくり目を開けると、振り下ろされるはずだった腕は、途中で不自然に止まっていた。

 いつの間にか背後に立っていた青年が、その手首を掴んでいた。


「ここは夜の店じゃない。辛いことがあったなら、俺が聞こう」

「あ?この、青二歳が……」


 場の空気が一変した。


 男は青年を殴ろうとするが、周囲が慌てて止める。


「おい、やめとけ。こいつ、金の……」


 青年がわずかに首を傾けた。

 その仕草だけで、場の空気がさらに静まる。


 ぎり、と骨が軋む音がする。

 男の顔が一瞬で歪む。


「水を頼めるかな?二人分」

「あっ……はい!」


 反射的に返事をしていた。

 リディアは慌てて水を取りに向かう。


 戻ると、奇妙な光景が広がっていた。


 向かい合って座るはずのテーブル。

 だが、男は青年の隣に押し寄せるように座り、肩に腕を回して、そのまま縋りついている。


 さっきまでの荒さはどこへいったのか。

 重たい体を預けるようにして、男は途切れ途切れに言葉を吐き出す。


 リディアはそっと、テーブルにグラスを置いた。


 青年と一瞬目が合う。

 彼は少しだけ眉を下げて笑うと、すぐ男に視線を戻した。


 男の取り留めもない話を聞き、時折頷き、やがて腕を組む。

 最後には男の肩を励ますように叩いていた。


 それからというもの、青年の淡い金髪がふと目に入るようになった。


 いろんな旅人に囲まれていて、笑うとすぐに場の空気が明るくなる。

 そして気取らない言葉で、誰とでも軽やかに会話を弾ませる。


 気づけば、少し離れたところから静かに見つめていた。

 いつも──楽しそうだった。



 *



 旅人。

 それは、村や街を巡り、魔獣退治をして糧を得る人たちの総称だ。


 彼自身も旅人で、いつも灰髪の大きな男と共にいた。


「いらっしゃいま──せ……」


 目の前に壁があった。

 リディアはぎこちなく顔を上げる。


 灰髪の男と目が合った瞬間、背筋がひやりとした。

 視線だけで、足がすくみそうになる。


 男の背後から顔を出した青年が、すぐにその肩に腕を回す。


「こいつ……この(なり)でまだ十六、しかも俺より年下なんだ」


 リディアは目をまん丸にした。


 男が眉をひそめる。


「お前……暗に俺を老け顔と言っているのか?」

「そんなつもりはない。貫禄があると言っている」


 青年は屈託のない笑顔で言い切った。

 男の表情がわずかに緩む。


 青年は──いつも笑顔だった。

 気付けば、口を開いていた。


「ずっとその顔で……疲れないの?」


 青年は虚を突かれたように、ゆっくりと瞬きをする。


「……人を笑わせたいなら、まず自分が笑わないとな」


 そう言って、彼は蒼い瞳を細め、にっと笑った。



 *



 二人が食事を終えたのを見計らい、意を決して歩み寄る。

 青年を見つめて、リディアは声をかけた。


「この前は……ありがとう」


 青年は首を傾げ、背後を振り返る。

 だが、そこには誰もいない。


「……お前だろ」

「ああ……俺なのか」


 灰髪の男が、呆れたようにため息をつく。


 リディアはいつもの笑みを浮かべた。

 震えそうになる声で、なんとか伝える。


「助けてくれたから……何か、お礼がしたくて」


 青年が顔を上げる。


「礼なんて、不要だ」


 即答された。


 あまりに予想外で、言葉が出てこない。

 用意していたものはほどけて、指先だけが落ち着きなく動いた。


 青年が慌てたように手を小さく振る。


「俺は、自分のできることをしただけだ。あなたの気持ちを無下にしたいわけではなくてだな……」


 少し早口で補いながら笑みを戻す。

 けれど、どこかぎこちない笑みだった。


 リディアは少し考え、提案する。


「……賄いの試食とか、どうかな?」

「いいな、それにしよう」


 横から、灰髪の男が食いついた。


「ちょっと待て、俺への礼だろ」


 青年が抗議する。


「だが、不要と言ったじゃないか」


 淡々とした言葉に、青年の動きがぴたりと止まる。


 灰髪の男は、温度のないしらけた視線を向けた。

 青年は一瞬だけ口を開きかけて、何も言えずに閉じる。


 やがて、小さく息を吐いた。

 観念したように、こちらをまっすぐ見つめる。


「だったら……心から笑ってほしい」


 一瞬、息が詰まった。

 まるで胸の奥に釘を打ち込まれたようだった。


「あなたの笑顔は、どこか……作り物のようだ」


 口元がぎこちなく揺れる。

 取り繕おうとすればするほど、いつもの表情の作り方がわからなくなる。


 灰髪の男がふっと鼻で笑った。


気障(きざ)な奴」

「お前……」


 眉がぴくりと跳ねる。


「価値をつけられないものの価値を、知らないだろ」


 青年の声はいつもより少し低く、それでいて少しだけ荒く響いた。


 ──眩しかった。


 違う世界の人間だな、と思った。

 きっと、そういう場所に立っている人だ。


 思わず、言葉が口をついた。


「……二人とも……若くして有望だって、旅人の間で噂だよ」


 だが、青年はふっと視線を落とした。

 普段の笑顔は影を潜め、口元には小さな笑みがひっそりと浮かぶ。


「俺は、兄に家の全てを任せきりにして放浪する、情けない弟だ」


 その言葉は、あまりに彼らしくなかった。

 だから──場を和ませるための冗談だと思った。


「リディア、いつまで立ち話してるんだい」

「あっ……はい!今戻ります!」


 踵を返しながら、青年を横目で見る。

 すでにいつも通りの笑みで、灰髪の男と会話していた。


 ──心から笑う。

 どうすればそれができるか、わからなかった。


 別に、作り物の笑顔でも。

 それで喜ぶ人がいる。それの、何がいけないのだろうか。


 青年と目が合った。

 笑って手を振ってくれる。


 眩しくて、思わず目を細めた。



 *



 その夜、店長から釘を刺された


「旅人と……ずいぶん仲良くしてるようじゃないか」


 誰かを特別扱いしているつもりはなかった。

 決めつけるような言葉が、胸にずしりと重くのしかかる。


 言い返す勇気も出ないまま、ぎゅっと手を握った。


「必要以上に親しくなるのはやめときな。旅人なんてね……いつ、ぱったり来なくなってもおかしくないんだよ」


 弾かれたように顔を上げる。

 ゆっくりと首を横に振る。


 どうしてそんなことを言うのか、わからなかった。


「店長の旦那さんも、旅人だったらしいわ」


 後から、接客係を長く務める女性が教えてくれた。


「ある日を境に、連絡が途絶えて……それきりなんだって」


 持っていたトレイが滑り落ちる。

 ガラン、と音が響いた。


 そういえば最近、あの馴染みの客の姿を見ていない。

 あの人も──旅人だった。



 *



 街の中にいると、感覚が麻痺してしまう。

 街の外に出る旅人は──また会えるとは、限らない。


 だからこそ。

 無事に戻ってきた彼らを、温かく迎えたい。

 ほっと一息つける場所でありたい。


 その時に、偽物の笑顔を──向けるの?


 カラン、と店の入り口の鐘が鳴る。


 リディアはくるりと振り返った。

 灰髪の男と話しながら入ってきた青年と、視線がぶつかる。


 息をひとつ、吸った。


「おかえりなさい」


 青年は少しだけ目を見開いて。

 それから柔らかく目を細めた。


「ただいま」


 帰りたいと思ってくれますように。

 その想いを、そっと乗せて。


 今日も──ここで待っている。

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