片腕の令嬢に何ができる?
本作は、全八章で構成された異世界恋愛短編小説です。
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
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第一章 再出発
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右袖が、空のまま揺れている。
それだけが、ノワ・アルヴィスにとっての「今」だった。
馬車が石畳の上を滑っていく。窓の外、新しい学園の正門が近づいてくる。石造りの堅牢な門柱。その上に掲げられた校章——今日から、ここがノワの学び舎になる。
深く、息を吸った。
決めてある。今度こそ穏便に生きる。争わない。目立たない。誰かを傷つけない。ただそれだけを守って、卒業まで静かに過ごす——それだけでいい。贅沢を言える立場ではないことは、分かっている。
義手はつけていない。
医師にも、父にも、すすめられた。でも気が向かなかった。正確に言えば——隠す気になれなかった。隠したところで、変わらないものは変わらないから。この空の右袖は、ただの事実だ。半年前に自分がしたことの、ただの結果だ。
正門をくぐると、視線が来た。
直接声に出す者はいない。ただ囁きはある。
「転校生?」
「伯爵家らしい」
「あの袖……何があったの」
「前の学園で何か——」
ノワは前を向いて歩いた。見られることには慣れている。前の学園でも、いつも見られていた——あのころとは、全く違う理由で。
手続きを終えて寮の部屋に荷物を置く。窓から中庭を見下ろすと、生徒たちが群れて歩いていた。
ノワはその様子を眺めながら、止めようとしても止められない何かを感じていた。誰と誰が近く、誰と誰の間に距離があるか——見ているだけで輪郭が浮かんでくる。この目だけは、なくせなかった。半年経っても、まだ残っていた。
「今度は……使わなくて済むようにする」
誰に言うでもなく、呟いた。
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第二章 標的
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一週間で、学園の権力地図が頭に入った。
物理的な廊下の配置ではなく——誰が誰に影響力を持ち、どこに張力があり、どこが緩んでいるか。そういう構造を読むのは、もはや呼吸と同じだった。昔から、そうだった。
頂点にいるのは、ロゼア・ランヴェル侯爵令嬢。
親の代からこの地域に根を張る名家で、容姿も社交の作法も申し分ない。廊下を歩けば生徒たちが道を開ける。教師でさえ、彼女の前では一拍置いてから話す。そういう立場の人間だった。
ただ——その目の奥にある冷たさだけは、隠しきれていない。少なくとも、ノワには見えた。
ロゼアが最初に目をつけたのは、ノワではなかった。
転校三日目の廊下で、ノワはエリス・テランという少女がノートを床に散らされているのを見た。平民の名字。制服がお古。ロゼアの取り巻き二人が扇で口元を隠して笑っていた。「気をつけてくださいね、テラン嬢。手が滑りやすいのかしら、平民はみんなそうなの?」。エリスは黙って、一枚ずつ拾った。
「私は大丈夫ですから」
誰に言うでもない、小さな声だった。
ただ、その目は諦めた色をしている。過去の記憶から——この色を知っていた。
ノワは通り過ぎた。関わらない。そう決めていた。
☆
ロゼアがノワに目をつけたのは、転校から十日後だった。
昼食の食堂でロゼアが取り巻きのジュール・ハーヴェとクレア・モレを連れて近づいてきた。その表情にノワは見覚えがあった。格下と判断した相手を前にするときの、あの顔だ。昔——自分がよくしていた顔だった。
「ノワ・アルヴィス様? ご転校、歓迎しますわ」
「ありがとう」
「前の学園でご事情がおありとか。詮索するつもりはないのですけれど——」
視線が、右袖に落ちた。一秒だけ。それから戻って、作ったような同情の顔をした。
「お気の毒に、と思って。ご不自由もあるでしょうに、ご立派ですこと」
「お気遣いなく」
ノワは無表情のままそれだけ言った。ロゼアが期待していた反応——泣く、怒る、縋る——そのどれも起きなかった。面白くなさそうな顔をして、ロゼアは去っていった。
(懐かしい構図ね)
何が懐かしいのかは、自分でもはっきりと言葉にしなかった。
☆
翌日から、嫌がらせが始まった。
最初の一週間は小さかった。実習の補助道具が棚の上段に置かれていた——片手では届きづらい高さだ。廊下でのすれ違い際、右側から肩をぶつけてくる者がいた。よろけても右手はつけない。その事実を笑って楽しんでいる声が背後から聞こえた。「あらあら、お気をつけて」。
ノワは耐えた。穏便に生きると決めた——それだけのことだ。
(これは、代償のようなものよ)
何の代償なのかは、突き詰めなかった。当然のことを受けているような感覚があった。
そして二週目——ロゼアは、一段上の手を打ってきた。
☆
「社交作法の授業」という名の、公開処刑だった。
週に一度、茶会の作法を学ぶ実習がある。その日の授業の冒頭、ロゼアが教師に向かって言った。
「先生、アルヴィス様はまだ学園に不慣れでしょうから、今日は給仕の実習をお手伝いいただくのはいかがでしょうか。社交の場では、片手でも美しく振る舞えることが求められますし」
教師が頷いた。「そうですね、いい練習になるでしょう」
テーブルに運ばれてきたのは、縁まで満たされたスープの大皿と、六客分の銀製のカップが乗った重い盆だった。片手で持てばバランスを保つのが難しい。少し傾けばスープは溢れる。少し滑れば銀盆は落ちる——そのことを、用意した側は全員分かっていた。
教室中が静まった。三十人近い生徒が全員、ノワを見ていた。
ノワは立ち上がった。
左手で銀盆を持った。重かった。カップが微かに揺れた。スープを一皿ずつ配る。一歩、一歩、慎重に。傾けない。零さない。
全員に配り終えた。
一滴も零れていなかった。
教室にかすかなざわめきが起きた。ロゼアが扇を閉じた。少し、面白くなさそうな顔をした。
しかしそれで終わりではなかった。
「では次は、お代わりの紅茶を。ポットはあちらの棚に」
ロゼアが教師に言った。教師が頷く。
棚に置かれていたのは、注ぎ口の長い、重い銀製のポットだった。しかも——棚の上段だった。片手では届かない、あの高さに。
☆
ノワは棚の前で止まった。
左手を伸ばした。あと、十センチ届かない。つま先を上げた。九センチ。八センチ。
届かない。
背後で、笑い声がした。抑えた笑い声だが、確かに聞こえた。
ノワは表情を変えなかった。踏み台になる椅子を引いてきて、上に乗り、ポットを取った。
降りる際、椅子の脚が軋んだ。教室の誰かが息を飲んだ。ノワは転ばなかった。降りて、椅子を戻して、紅茶を配った。一人ずつ、丁寧に。
終わった後、ロゼアが「ご苦労さまでした」と言った。笑顔で。その目が笑っていないのは、ノワだけが見えていた。
(懐かしい。昔、私もこういう顔をしていた)
ノワは何も言わずに席についた。
☆
それから三日後の朝礼の場で——最も悪質な出来事が起きた。
ロゼアが朝礼の場に現れたとき、後ろに使用人を二人連れていた。その手に、木箱があった。
「先生、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
ロゼアが教師に向かって言った。
「実は先日、アルヴィス様のことが気になっておりまして。ご不便なままでは学業に支障も出るでしょうし——ランヴェル家から、少しばかりご用意させていただいたものがあるのです」
木箱が開けられた。
中に入っていたのは、義手だった。
金や銀の装飾が過剰に施された、派手な義手。一目で分かる——これは使うためのものではない。飾るためのものだ。それも、安っぽく派手に。手首の合わせ目には安物の宝石がちりばめられ、指の部分は人形のように不自然に固まっている。実用性はゼロだ。
「不憫ですから、ランヴェル家からの贈り物として、皆さんの前でお渡しできればと思いまして」
ロゼアが朝礼の場にいた全校生徒に向かって言った。声が通るよう、少し張って。
教師が「ランヴェル様のお心遣いを……」と頷いた。
生徒たちが振り返った。三十人、五十人——廊下にいた者も足を止めた。全員が、ノワを見ていた。
「哀れな転校生への贈り物」を受け取る場面として、公衆の面前に晒されていた。
受け取れば——「施しを受けた片腕令嬢」として記憶される。断れば——「好意を拒んだ礼儀知らず」として記録される。笑えば虚勢に見える。泣けば格好の餌食になる。どう動いても、ロゼアの掌の上だ。
よく設計された罠だった。
ノワは前に出た。
木箱を一瞥した。義手を見た。それから、ロゼアを見た。
「ありがとうございます、ランヴェル様。ご厚意は確かに承りました」
受け取らなかった。
「ただ、私には不要です。ご厚意は、本当に必要な方へどうかお回しを」
ロゼアの目が、わずかに細くなった。
「でも、ご不便でしょうに——」
「不便は感じておりません」
ノワは一礼して、席に戻った。
背後で、ロゼアが取り巻きに何か囁くのが聞こえた。それ以上は聞かなかった。
拳を、膝の上で握っていた。
(耐える。まだ耐える。穏便に、と決めた)
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第三章 二人で耐える
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孤立した者は、自然と同じ場所へ流れる。
図書館の奥の席に、エリスがいることが多かった。最初は互いに無言だった。同じ場所に座っているだけで、それ以上でも以下でもなかった。
ある午後、エリスが魔法理論書を難しい顔でにらんでいた。同じページを何度もめくって、また戻して。
「どこで詰まっているの」
声をかけると、エリスが驚いたように顔を上げた。
「この理論式の展開が……三行目から先が、どうしても」
ノワは手を伸ばしてページを見た。一目で分かった。
「係数の扱いが違う。符号を整理して」
エリスが鉛筆を走らせた。しばらくして「あ」と小さな声が出た。
「……そういうことだったんですね」
「理解できた?」
「はい。ありがとうございます」
顔を上げたエリスの目に、諦めた色がなかった。何かが解けたときの、素直な明るさがあった。その目を見て——ノワは何か、うまく言葉にならないものを感じた。
それから、並んで本を読む時間が増えた。
魔法理論式の展開、歴史書の読み方、記述問題の組み立て方。ノワが一言指摘すると、翌日には自分で応用していた。
「あなた、頭はいいのね」
ある日、ノワが言った。
「そんな……」とエリスは言ったが、否定の続きが出てこなかった。
「謙遜は要らないわ。事実を言っているだけ」
エリスがうつむいた。ノワはしばらく考えてから、左手をエリスの頭にそっとのせた。ぽんと、一度だけ。
「よく頑張っている。それは本当のことよ」
エリスの目が潤んだ。しばらく何も言わなかった。それから、小さく言った。
「……なぜ、そんなことを言ってくださるんですか。ノワ様には、関係のないことなのに」
「事実だから言ったまでよ。それ以外に理由が要るの?」
エリスが何も言わなかった。でも——その目から諦めの色が、また少し薄くなっているのを、ノワは見ていた。
☆
ノワとエリスが一緒にいるのをロゼアが見てから、嫌がらせは二人が対象になった。
最初は小さかった——同日に二人の課題が「紛失」した。エリスの教材に汚水がかかった。ノワの実習用魔法石が砕かれて机の上に粉になって置かれていた。
それが次第に、執拗になっていった。
ある昼食の時間、ロゼアが食堂でエリスに近づいた。「テラン嬢、少し席を詰めていただけるかしら」と言って、エリスのトレイを押しやった。スープがこぼれてエリスの制服の袖を濡らした。「あら、ごめんなさい。不注意で」とロゼアが笑った。
その場にいた生徒が三十人はいた。誰も何も言わなかった。
エリスが静かに立ち上がって、ハンカチで拭いた。「大丈夫です」と言った。声が震えていなかったのは、震えを殺す練習を積んだからだろうとノワには分かった。
別の日、廊下でエリスが三人に囲まれた。ノワもその場にいた——二人で図書館から戻る途中だった。
「テラン嬢、少し聞いてもいいかしら」とジュールが言った。「奨学生って、毎学期試験で上位を取らないといけないんですよね。今回の中間で下位を取ったら、どうなるんでしたっけ」
「……資格の審議が入ります」
「まあ大変。でも、あなたみたいな頭では心配ですわね。ノワ様に教えてもらっても——限界があるでしょうし」
クレアが「そもそも平民が魔法学園なんて、無理に決まっているのよ」と笑った。
エリスが俯いた。唇を噛んでいた。
ノワはその隣で、前を向いて立っていた。何も言わなかった。言えば——「危険人物が暴れた」として処理される。言わなければ——エリスが折れる。どちらにしても、今は動けない。
三人が行ってしまった後、エリスが小さく言った。
「私は大丈夫ですから、ノワ様は——」
「大丈夫ではないでしょう」
ノワは言った。「慣れることと、大丈夫なことは、別よ」
エリスが少し目を丸くした。それから、作り笑いをやめた。ただ、俯いた。
ノワは何も言わなかった。ただ——まだ耐える、と、もう一度決めた。
☆
嫌がらせはさらに続いた。
ある週の月曜日、ノワは自分の机の上に紙を見つけた。丁寧に折られた便箋。開くと、こう書いてあった。
「片腕で学園に通い続けるとは、ご立派なことですが——周囲の方々はさぞご不便でしょうね。お気の毒に」
署名はない。
火曜日、実習の班分けでノワは一人にされた。三人組が二つと四人組が一つになるはずのところを、教師が「アルヴィス様は一人でも大丈夫でしょう」と言った。ロゼアが満足そうに頷いていた。
水曜日、図書館でエリスが泣いているのをノワが見た。テーブルの上に、提出済みのはずの課題の写しが置かれていた。全部白紙だった。「未提出のものが出てきた」と担任から呼び出しを受けた後だった。
「提出したのに」とエリスが言った。涙声ではなく、ただ疲れた声で。「提出したはずなのに、なくなっていて。先生は信じてくれなくて」
ノワは向かいの席に座った。
「あなたが悪いのではない」
「でも証拠が——」
「あなたが悪いのではない」
もう一度言った。エリスが顔を上げた。
「……ノワ様」
「今日は帰りましょう。明日また考える」
エリスが頷いた。
帰り道、二人並んで廊下を歩いた。日が傾いて、廊下に長い影が伸びていた。エリスが「どうして、私のそばにいてくれるんですか」と言った。
ノワはしばらく黙って歩いてから、言った。
「さあ。自分でも、よく分からない」
正直なところだった。
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第四章 半年前の中庭で
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夜、自室で右腕があったはずの空間を、ノワは見た。
痛みはない。もうない。あるのは記憶だけだ。
今日、廊下で肩をぶつけられた感触がまだ残っていた。壁に左手をついた感触も。
目を閉じた。
☆
半年前の話だ。
ノワ・アルヴィスは前の学園で、完璧な地位を作り上げていた。生まれつきの家格に、自分で積み上げた情報網と評判と影響力を加えて——誰にも崩せない頂点を、設計していた。
頂点を維持するためなら、何でもした。
気に入らない令嬢がいれば、証拠を作って「不正」を暴いた。醜聞を仕立て上げた。家族への圧力をかけた。そうして何人もの生徒が学園を去っていった——転校、退学、休学。いずれも「自分の意思で」という形をとって。ノワが直接手を下したことは、一度もなかった。
それがノワのやり方だった。
傷つけるのではなく、追い出す。汚すのではなく、消す。本人が「もう無理だ」と思うまで追い込んで、自分から去らせる。
それを、正しいことだと思っていた。頂点を守るために必要なことだと思っていた。
シルヴィア・オルレが入学してくるまでは。
☆
魔力量が高く、容姿が優れ、笑顔が人を惹きつけた。それだけなら、これまで追い出してきた令嬢と変わらない。しかしシルヴィアには——別の何かがあった。
正義感、と言えば簡単だ。しかしそれだけではなかった。シルヴィアは「おかしいと思ったことをおかしいと言う」人間だった。力があるかないかに関わらず、正しいと思ったことのために動いた。だから人が集まった。友人の数ではなく——信頼の深さが、他の令嬢と違った。
ノワのいつものやり方では、通じなかった。
噂を流した。シルヴィアは正面から否定した、しかも証拠を持って。偽の証拠を積み上げた。シルヴィアの側も証拠を集めてきた。孤立させようとした。シルヴィアは一人でも揺らがなかった——むしろ、周囲がシルヴィアの方を信じ始めた。
一手打つたびに、二手返ってきた。
ノワは初めて、「相手が見えない」感覚を経験した。自分の網にかからない人間がいる——それが、恐怖というよりも、屈辱だった。
追い詰めようとするほど、シルヴィアは揺らがなかった。
そして——焦りが生まれた。
☆
禁忌魔法に手を出したのは、焦りからだった。
通常の手段では証拠を固められない。シルヴィアの信頼関係を崩せない。ならば——魔法で記録そのものを書き換えてしまえばいい。証拠を改ざんする、記憶の印象を操作する、そういう力を持つ術式が、禁忌の領域にある。
複雑な制御式が必要だが、一行省いて簡略化した。理論上は成立していた——そのはずだった。
シルヴィアを放課後の中庭に呼び出した。「あなたに見せたいものがある」と言って。
彼女が近づいてくる。その正面で、術式を発動した。
「見ていなさい」——そういう意図が、確かにあった。
一瞬だった。
制御が、逆流した。
右腕に集中していた魔力が——全て、消えた。腕ごと。
視界が傾いた。倒れる前に、石畳のひびを一本数えた。シルヴィアの足先が見えた。固まっている。声が出ない——そういう顔だった。
(一行削ったのが、誤りだったわね)
意識が途切れた。
☆
目が覚めたとき、右腕はなかった。
泣かなかった。叫ばなかった。やるべきことをやって、失敗した。代償が発生した——そのときは、ただそれだけのことだと思っていた。
しかし話はそこで終わらなかった。
禁忌魔法の発動は、学園に記録される。その調査の過程で——ノワがこれまで行ってきた数々の工作が、芋づる式に出てきた。過去に追い出した令嬢たちへの証拠操作。偽造した書類。圧力をかけた記録。
全部、出た。
退学になった。全ての工作が「ノワの意図的な犯行」として記録された。家格があったから刑事的な問題にはならなかったが——社交界への道は、実質的に閉ざされた。
誰も見舞いに来なかった。当然だと思った。
ただ一つだけ、想定外のことがあった。
退学の朝、廊下にシルヴィアが立っていた。
荷物を持って出ようとしたノワの前に、ただ立っていた。長い沈黙があって——それからシルヴィアが言った。
「……どうして、そこまでしたの」
答えられなかった。答えを声にする意味が、見つからなかった。廊下を歩いた。振り返らなかった。
☆
目を開けた。夜の自室だ。
窓の外に、月がある。
(どうして、そこまでしたの)
あの問いが、今も耳に残っている。答えを持っていない。頂点を守りたかった——それだけだろうか。そうかもしれない。でも、それだけだろうか。
分からない。
ただ——今日、廊下でよろけた感触が、手のひらに残っている。壁に手をついた感触。あの冷えた石の感触。
あの子は——毎日、こういう何かを受けていた。私が、そうさせていた。
それが「どういうことか」を、今ようやく、少しだけ分かり始めている気がした。
全部ではない。理解しきったとも思っていない。
ただ——目を逸らすのをやめた、それだけだ。
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第五章 限界
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中間試験で、エリスが実技の上位評価を取った。
それを境に、ロゼアの目が変わった。
嫌がらせに、設計が生まれた。
エリスの提出課題が「未提出」として処理され始めた。出席記録が書き換えられた。ランヴェル侯爵家の後援を受けている担任が、他の生徒の前でエリスを名指しして叱責した。「奨学生の条件は学業成績の維持ですが、テラン嬢は提出も出席も不安定なようです」と。全部、嘘だった。
ノワは廊下で扉越しにその声を聞いた。拳を握った。左手だけで。
——まだ、耐える。
そしてある朝——エリスの奨学金継続申請書が「記入不備」として差し戻された。提出したはずの書類に、エリスが書いたはずのない書き込みがあった。このままでは来学期から通えなくなる。
☆
図書館で夕方、エリスから話を聞いた。エリスは俯いて、手元の本を閉じたり開いたりしていた。
「証拠もないし……先生は信じてくれないし……お父さんとお母さんには心配させたくなくて」
声が震えていた。今日はじめて、声が震えていた。
「私がいなければ、ノワ様だって巻き込まれずに——」
「それ以上言わないで」
ノワは静かに、しかし揺るがない声で言った。エリスが顔を上げた。
「少なくとも私は、あなたにここにいてほしい」
左手をエリスの頭にのせた。ぽんと一度ではなく——ゆっくりと、少し長く。
「泣いていい。今は私しかいないから」
エリスが泣いた。声を殺して、でもちゃんと泣いた。
ノワはただ手をのせていた。誰かが泣いているとき、以前の自分は何も感じなかった。今は——感じる。それだけは変わった。
☆
翌朝、魔法実技の授業中に、事件が起きた。
「先生、テラン嬢が私の魔法陣設計図を写していました」
ジュールが手を挙げた。教室中が静まった。
教師が眉をひそめた。「写していた?」
「はい。昨日私が作成したものと、全く同じ構成でございます。先生もご確認いただければ——」
嘘だ。ノワには分かった。エリスの設計した陣は独自の簡略式を使っている。ジュールのものとは根本から違う。ただ表面の類似があれば——知識のない者には言い訳に使える。
エリスが青ざめた。
「違います、私は——」
「ではなぜ似ているのですか」と教師が問い詰めた。
「基礎部分が共通するだけで——」
「言い訳はよろしい」
教師が手を振った。周囲の生徒が囁き合った。
「やっぱり」
「奨学生なのに」
「不正してたのか」
「アルヴィス嬢も同様なのでは?」
エリスが俯く。拳が膝の上で白くなっていた。
その瞬間——エリスが立ち上がった。
「ノワ様は関係ありません」
教室が、もう一度静まった。
「私の陣の件を調べるなら、私だけを調べてください。ノワ様は何もしていない。私が——私が全部やりました」
庇ってくれているのだと、ノワには分かった。しかし庇ったことで、状況は悪化した。
「なるほど」とロゼアが、涼しい顔で立ち上がった。「自分でやったと認めるのですね」
「そういう意味では——」
「十分ですわ」
ロゼアが教師よりも場を掌握した声で続けた。
「先生、テラン嬢は以前から提出物にも出席にも問題があると伺っています。今回の件も含め、奨学生の資格そのものを改めて審議していただく必要があるのではないでしょうか。こういった不正を放置することは、真面目に学ぶ他の生徒への侮辱にもなりますし——いかがでしょうか、先生」
教師が頷いた。「……そうですね。一度、教務に確認を——」
エリスの顔が、真っ白になった。
奨学金が止まれば来学期はない。来学期がなければ故郷へ帰るしかない。エリスがここに来るまでにどれほどの努力をしてきたか——ノワは詳しくは知らないが、想像できた。
教室中が見ていた。誰も声を出さなかった。エリスは唇を引き結んで、目の縁が赤くなっていた。それでも泣かなかった。
諦めた目だ。
あの子も——こんな目をしていたのだろうか。私が作った場面で、何度もあの子が見せていた目。
ロゼアが最後に、こちらを見た。「片腕の伯爵令嬢に何ができるの」とでも言いたげな、小さな笑みを向けた。
ノワは椅子に座ったまま、前を向いていた。
膝の上で、拳を握っていた。
三ヶ月間かけて積み上げてきた「耐える理由」が、一枚ずつ剥がれていくような感覚があった。
(穏便に……もう次はないのだから……)
胸の奥で、何かが——冷えて、固まっていった。
怒りではなかった。怒りより深い、もっと静かな、もっと冷えた何かだった。
☆
授業が終わって廊下に出ると、エリスが「ごめんなさい」と言った。
「庇ったつもりが……余計に」
「あなたは何も悪くない」
ノワは答えて、歩き始めた。
一歩、二歩。廊下の突き当たりで止まった。
(穏便に生きる、という言葉が、もう頭の中にない)
目を閉じた。一秒。二秒。
「仕方ないわね」
声は静かだった。怒鳴らなかった。怒りでさえなかった——もっと冷えたところから来る声だった。
(本物の悪役令嬢を、見せてあげる)
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第六章 本物の悪役令嬢
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動くと決めたら、迷わない。
それだけは、昔から変わらない。
ただし今回の設計は、前とは根本から違う。相手を潰すために動くのではなく、正しいものを正しい場所に戻す。彼女たちが積み上げてきた「嘘」を、一枚ずつ剥がすだけでいい。
まず三日間、全ての情報を組み直した。
ロゼアたちが行ってきた工作の痕跡は、見る目があれば全部出てくる。書類の改ざん、記録の書き換え、教師への圧力——それぞれに証拠が残っている。ただしノワが直接動けば、ノワが動いたことになる。だから証拠を「正しい目に届くよう」、動線を一本だけ引く。
魔法は使わない。片腕でできることだけで組み立てる。
そしてもう一つ「片腕で動けるはずがない」という先入観が、今回は武器になる。ロゼアたちはノワを弱者だと思っている。弱者だと思われているうちは、誰もノワを疑わない。この三ヶ月、ずっと弱者に見られてきた。それが今日、全部役に立つ。
☆
【工作一:ジュールへの対処】
ジュールの書類改ざんは、筆跡という致命的な痕跡を残していた。ジュールは丁寧に見えて、詰めが甘い。ノワが教務室の書類の保管順序を一枚だけ変えた——提出書類の原本と書き換えられた版が、隣同士に並ぶように。
教務長は几帳面な人物だった。整理の際に必ず照合する。照合すれば、矛盾が出る。
それだけでいい。後は教務長が自分で動く。
☆
【工作二:担任教師への一言】
ランヴェル家の後援を受けた担任には、廊下ですれ違いざまに一言だけ届けた。
「先生——ランヴェル侯爵家の土地申告の件が、今週中に書記局で確認されるようです。後援を受けているご立場では、ご自身から動かれた方が傷が浅いかと存じますが」
教師の顔が変わった。
「それは……どういう」
「公文書の照合で出てくることです。私が調べたわけではない——ただ、確認が入れば自然に出てくる、そういう話です。先生がエリス・テランさんに対して行ったことも含めて、早めにご対応されることをお勧めします」
それだけだった。後はその人間が自分で判断する。翌日、担任が自ら教務へ申告したと聞いた。エリスへの一連の叱責が不当なものとして、永久記録に残ることになった。
☆
【工作三:ロゼアの公開崩壊】
これは工作ではなく——直接だ。
放課後の廊下。他の生徒が何人か通りかかる時間と場所を、計算して選んだ。ロゼアが取り巻きと歩いてくる。ノワはその正面に立った。
「ロゼア様、少しよろしいですか」
ロゼアが足を止めた。ジュールとクレアも立ち止まった。
「なんですの、アルヴィス様」
「エリス・テランの申請書類の改ざんと、出席記録の書き換えについてです。教務長が確認を始めているようですね」
ロゼアの目が揺れた。一瞬だけ。しかしすぐ笑顔を作った。
「私には関係のないことですわ」
「そうですか」
ノワは声の質を変えた。前の学園で使っていた声だ。半年ぶりだったが、喉はちゃんと覚えていた——抑揚がなく、静かで、有無を言わせない、あの声で、続けた。
「ランヴェル侯爵家の土地申告に虚偽記載があります。公文書を照合すれば出てくること。今週中に書記局の確認対象になります。お父様は——ご存知でしたか?」
ロゼアの顔から、血の気が引いた。
「な……それは、どこで——」
「公文書ですから。誰でも見られます」
「あなた、何が目的で——」
「エリス・テランへの不正を止めること。それだけです」
ノワは一歩、前に出た。
通りかかっていた生徒たちの足が止まっていた。廊下に人が集まり始めていた。ノワはそれを分かった上で、声を少し通した。
「ロゼア様、一つだけお聞きしてよろしいですか」
「……な、なんですの」
「あの義手の贈り物——あれを『哀れな転校生への贈り物』として全校の前で渡そうとしたとき、ランヴェル侯爵令嬢として、それが正しい行いだとお思いでしたか」
ロゼアが口を開いた。言葉が出なかった。
「片手で溢れやすいスープを運ばせたとき。棚の上段にポットを置いたとき。椅子に乗って取る私の様子を笑ったとき——それが、侯爵令嬢としての振る舞いだとお思いでしたか」
周囲が静まった。
廊下を通りかかっていた生徒の一人が、口に手を当てた。別の生徒が隣の者に何かを囁いた。
ロゼアの表情が、崩れていった。
「あなた方は悪役令嬢ごっこをしているだけよ」
ノワは微笑みながら続けた。
「標的を選んで、力の差を見せつけて、泣くのを見て気持ちよくなる遊び。それだけよ。本物の悪役令嬢が何なのか——まだ分かっていないようね」
「……っ」
「分かっていないなら、教えて差し上げます」
ノワは一礼して、廊下を歩いた。
☆
その後の展開は、静かに、しかし確実に進んだ。
教務長の調査で、エリスの書類が書き換えられていたことが確認された。筆跡の照合でジュールの関与が明らかになり、ハーヴェ男爵家から学園へ謝罪が入った。ジュール自身の出席記録と成績にも以前から不審点があったことが同時に発覚し、こちらも調査対象になった。
クレアの成績記録にも不審点が芋づる式に出て、モレ子爵家も対応を迫られた。
担任は自ら申告した。エリスへの叱責が不当なものとして永久記録に残ることになった。
ランヴェル侯爵家の土地問題は、週末に書記局が確認を開始した。
ロゼアは翌日から、登校しなくなった。
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幕間 ロゼアの部屋
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ロゼア・ランヴェルは、自室の窓の前に座ったまま動けなかった。
ジュールから連絡が来た。書類の件が全部出た、と。クレアからも来た。こちらも終わった、と。父から呼び出しの書状が来ていて——まだ開けていない。
どこで間違えたのだろう、とロゼアは思った。
あの転校生に目をつけたのは——軽率だったかもしれない。でも、そのときはそう見えなかった。片腕で、社交界を追われて、前の学園で何かあって来た令嬢。扱いやすい相手だと思っていた。
まさかあんな手を打ってくるとは。魔法も使わず、誰かに頼んだわけでもなく。でも全部崩れた。
廊下でのあの場面が、頭から離れなかった。
「片手で溢れやすいスープを運ばせたとき——それが侯爵令嬢としての振る舞いだとお思いでしたか」
あの言葉が、今も耳から消えない。
そのとき——以前、遠縁の者から聞いた話が頭をよぎった。
半年以上前、別の学園で事件があったという。名家の伯爵令嬢が禁忌魔法を使って腕を失い、退学になったと。被害を受けた側が公表しなかったため噂の域を出なかったが——「その令嬢は非常に優秀で、恐ろしい人物だった」と話していた者がいた。退学になるまでに、何人もの生徒を追い出してきたとも。
「……腕を失った、伯爵令嬢」
ロゼアは窓の外を見た。
ノワ・アルヴィス。伯爵令嬢。転校生。右腕がない。
全部、符合していた。
であれば——禁忌魔法を行使できる実力があった、ということになる。それだけではない。何人もの生徒を追い出してきた、ということは——今回も、本当はもっと苛烈な手段が使えたはずだ。なのにノワは、直接手を下さなかった。
(どうして、わざわざそんな回り道を——)
考えて——背筋が冷えた。
わざとだ。証拠を残さない形でやった。それが怖い。暴力より、怒号より、ずっと怖い。
「全部分かっている」という静けさが——世界で一番怖い言葉だと、今なら分かった。
(会いに行かなければ)
謝りたいわけではない。ただ——このまま放置していた方が、ずっと怖かった。
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第七章 本物
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事の収束から数日後、廊下でジュールに呼び止められた。
一人だった。蒼白な顔だった。
「ノワ様……あなたが、やったのですか」
「私が何をしたというの。証拠でも?」
「でも……どうして。私たちがあなたに何をしたというんですか。エリス・テランなんて、たかが平民ひとりのために——」
「たかが、と言った?」
声は静かなままだった。だからこそ、重かった。ジュールが口を閉じた。
「本物の悪役令嬢というのはね——」
ノワは続けた。
「標的を選んで安全な場所から石を投げるのではない。守ると決めた者のためなら、自分が何者と思われようが構わない。誤解も訂正しない。名誉も要らない。ただ、目的を果たす——それだけよ」
「……あなたは、以前」
「以前は間違えた。使う方向を」
ノワはジュールを見た。
「今回は、間違えなかった。それだけのことよ」
振り返らずに歩いた。
☆
数日後——ロゼアが登校してきた。
蒼白な顔だった。目が泳いでいた。ノワを廊下で見つけて、近づいてきた——最初は声が出なかった。しばらく立ち尽くして、ようやく口を開いた。
「……以前、他の学園で、禁忌魔法を使って腕を失った令嬢がいると、聞いたことがございますわ。学園を追われ、社交界を去った——とても恐ろしい方だと」
ノワは何も言わなかった。ただ、ロゼアを見た。
「まさか……あなたが、その方なのですか」
一拍の沈黙。
「さあ。どうかしら」
笑わない。怒らない。ただ、静かに言う。
「——ただ一つだけ、申し上げておきますわ」
ノワは一歩だけロゼアに近づいた。声を落として。
「今日ここで聞いたことを、誰かに話したとして。その先がどうなるか——あなたには、想像できるでしょう?」
ロゼアが息を呑んだ。
「私は何もしません。ただ——あなた自身のことを、誰よりも詳しく知っている人間が、この学園にいる。それだけのことよ」
ロゼアが一歩退いた。顔が白い。
あの日、「片腕令嬢に何ができるの」と笑って見せた口が——今は、一言も出てこなかった。
ノワは一礼した。
「どうかお健やかに」
廊下を歩いた。後ろを、振り返らなかった。
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最終章 失ったものと、守れたもの
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図書館に行くと、エリスがいた。
奥の席で、魔法理論書を開いていた。先週より顔色がよかった。目の奥に、あの諦めた光がない。
「ノワ様」
隣の椅子を引いて座ると、エリスが顔を上げた。
「邪魔だった?」
「いいえ」
自分の本を開いた。しばらく、二人で黙って読んでいた。エリスのページをめくる音が一定の間隔で続く。
「……ありがとうございます」
エリスが言った。
「何に対して」
「全部です。申請書類のこと、記録の件、それから——あの授業の日も」
「していないわ。証拠はないから」
「……そういうところです」
「何が」
「そうやって、笑わずに言うところが」
エリスが少し間を置いた。それから、真っ直ぐにノワを見た。
「あなたは、悪くありません」
静かな声だった。しかし、揺るがない声だった。
ノワは少し黙った。
「私は善人じゃないよ」
静かに言った。
「過去に人を追い詰めた。何人もの人間を、学園から追い出した。今もそれを言葉で謝れていない。あなたのために動いたのも——あなたを救いたかったのか、自分の後悔を埋めたかったのか、正直、自分でも分からない」
「それでも」
エリスが言った。
「私にとっては——大切な人です」
沈黙が落ちた。
ノワは何も言わなかった。ただ——左手が、わずかに動いた。テーブルの上の、エリスの手のそばへ。触れない。でも、触れる距離に。
エリスはそれを見た。何も言わなかった。ただ、笑った。
エリスからノワの手を触れた。
諦めでも我慢でも誤魔化しでもない——あの図書館の奥で、ノワが初めて見た、素直な明るさで。
☆
しばらくして、ノワは窓の外を見た。
夕方の光が差し込んでいた。ロゼアたちがどうなったか、今は興味がなかった。崩れたものは崩れた。それでいい。見届けるほどのことではない。
エリスがページをめくる音が、静かに続いていた。
ノワは本を読んだ。片手で、ゆっくりと。
失ったものは戻らない。右腕は戻らない。シルヴィアへの答えも、まだ言葉にならない。
あの問いに、今も答えを持っていない。どうして、そこまでしたの——と言われたとき、答えられなかった。今も答えられない。
でも——今日、少しだけ分かった気がした。
あの子がどんな気持ちで、毎日を過ごしていたか。少しずつ分かってきた。
全部ではない。理解しきったとも思っていない。
ただ——同じことは、繰り返さない。
「私は悪だ」
「それでいい」
心の中で、静かに言った。
隣でエリスが、また笑った。
それで——十分だった。
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