敵は甘えを突く
三日目の朝、演習場の空気は明らかに変わっていた。
張り詰めている、というより――苛立っている。
第一軍団の陣地から漂ってくるのは、そんな気配だった。
「……昨日の結果、納得いってない顔ですね」
演習指揮所で魔導盤を確認しながら、レインがそう呟くと、隣に立つディアは肩をすくめた。
「彼らにとっては“勝てたはずの戦”だからな。
補給制限と行軍規定さえなければ、正面から押し切れていた」
「でも、それがルールです」
「分かっている。分かってはいるが……」
ディアの視線は、第一軍団の布陣へと向けられていた。
整然としているが、どこか“攻めきれない”配置。
昨日までの演習で、仮想敵はその隙を容赦なく突いてきた。
――そして、今日。
「来ますね」
レインが魔導盤の表示を見て言った。
第一軍団が、規定より早い段階で前進を始めている。
本来なら、補給確認が終わるまで待つはずの時間だ。
「……決行したか」
ディアの声が低くなる。
「補給線を無視して、強行突破。
短期決戦で仮想敵を叩くつもりだな」
「ルール違反ですよね?」
「演習規定上は“非推奨行動”だ。
完全な違反とまでは言えん。だが――」
ディアは言葉を切った。
「実戦だったら、賭けだ」
その直後だった。
魔導盤の表示が、不穏な色に変わったのは。
仮想敵が、第一軍団の進軍速度に合わせるように、
“嫌な動き”を始めたのだ。
「……側面?」
「いや、後方だ」
レインの指が震える。
「補給路を“敵”が把握しました。
行軍が速すぎて、隠蔽が追いついていない」
「戦研の仮想敵は、そういうところを見逃さない」
ディアの言葉通りだった。
第一軍団の主力は前線で善戦している。
だが、背後では補給部隊が次々と“撃破”判定を受けていく。
――気づいたときには、遅い。
「補給、遮断……」
レインが呟いた。
「前線部隊、残弾・魔力低下。
このままだと……」
「包囲されるな」
その瞬間だった。
演習場の外れ、影の中から、ひらりと小さな影が現れた。
「……あーあ」
軽い声。
次の瞬間、第一軍団の背後に“気配”が走る。
仮想敵の索敵判定が、次々と無効化されていく。
「隠密機動隊、介入……?」
レインが目を見張る。
現れたのは、マントのような翼を広げた小柄な少女――フェリスだった。
「ルール上、後方撹乱の想定行動だからね。
ちょっとだけ、お邪魔しまーす」
軽口とは裏腹に、その動きは正確だった。
仮想敵の追撃が一瞬鈍る。
だが、それでも――
フェリスは、第一軍団の前線を見て、ため息をついた。
「……ねえ」
通信魔導具越しに、彼女の声が響く。
「今の、実戦だったら死んでたよ?」
その一言で、空気が凍った。
「補給切れてるのに前に出る。
後方確認もしない。
“勝てる時の癖”が、そのまま出てる」
フェリスの視線は冷静だった。
「相手が仮想だから、ここで止まっただけ。
本物だったら――」
彼女は、翼を畳んで言った。
「もう、帰れない人が出てた」
第一軍団の動きが、止まる。
魔導盤上で、戦況は“敗北”判定へと傾いていった。
ディアは静かに息を吐く。
「……これが、三日目の答えか」
レインは、盤面を見つめながら思った。
この演習は、勝つためのものじゃない。
負け方を、覚えるためのものだ。
そして第一軍団は、
そのことを、ようやく理解し始めていた。
演習終了を告げる魔導灯が消えた後も、第一軍団の陣地は静まり返っていた。
怒号も、言い訳もない。
あるのは、重たい沈黙だけだった。
「……補給が、完全に読まれていたな」
第一軍団の中堅指揮官が、低い声で呟く。
「前線の判断が早すぎた。
“いつも通り”をやっただけなのに……」
「だからだろ」
別の者が、かぶりを振った。
「いつも通り、が通じない相手だった」
仮想敵。
だが、今日の盤面はあまりにも生々しかった。
補給路が断たれた瞬間。
魔力残量が減っていく表示。
前に出た部隊が、後ろを失っていく感覚。
「……フェリスの言葉、刺さったな」
誰かがそう言うと、誰も否定しなかった。
――今の、実戦だったら死んでたよ?
軽い口調だった。
だが、内容は致命的だった。
「俺たちは……勝てる戦しか、見てなかったのかもしれん」
沈黙の中で、その言葉だけが残った。
一方、演習指揮所の外れ。
魔導盤の片付けを終えたレインは、深く息を吐いていた。
「……正直、怖かったです」
ぽつりと漏れた声に、隣で壁にもたれていたフェリスが耳を動かす。
「へえ。文官くんが?」
「はい。
数字が、あんなふうに“人の生死”を示すのを見たのは初めてで」
フェリスは少し考えてから、くすっと笑った。
「でも、止めなかったでしょ?」
「止められませんでした。
ルールの中で起きたことですから」
「それでいいよ」
フェリスは翼を軽く揺らした。
「止めちゃったら、演習にならない。
……それに」
彼女は第一軍団の陣地をちらりと見る。
「今日は、ちゃんと“聞いてる顔”してた」
「聞いてる顔?」
「うん。
怒る前の顔でも、開き直る顔でもない。
“ああ、やっちゃったな”って顔」
レインは少し驚いたように目を瞬かせた。
「そんなの、戦場で見るんですか?」
「よく見るよ。
生き残る人の顔」
フェリスは、あっさりと言った。
「死ぬ人はね、もっと単純。
“自分は悪くない”って顔してる」
レインは、その言葉を胸の中で反芻した。
「……じゃあ、今日の第一軍団は」
「まだ、間に合う側」
フェリスはそう言って、マント代わりの翼を広げる。
「だからさ。
あんたの仕事、無駄じゃないよ」
「え?」
「ルール作る人、嫌われるでしょ。
でもね――」
彼女は少しだけ、真面目な目をした。
「ルールがあるから、戻ってこられる人もいる」
それだけ言うと、フェリスは軽く手を振った。
「じゃ、私は夜間警戒。
演習でも、油断する人いるから」
去っていく小さな背中を見送りながら、レインは思った。
剣も魔法も振るえない。
だが、今日――
確かに、戦争の“縁”に触れた気がした。
そして第一軍団もまた、
その縁の危うさを、初めて自覚し始めていた。




