敵はそこにいない
演習初日の朝は、驚くほど静かだった。
太鼓も鳴らなければ、鬨の声も上がらない。
第三軍団の野営地には、緊張よりも戸惑いが漂っていた。
「……で、敵は?」
誰かが、ぽつりと呟いた。
正面には、だだっ広い平原。
人間軍の姿も、魔力反応も、何もない。
「仮想敵だ」
ディア=ヴァルクが、全体に聞こえる声で告げる。
「本演習は、第一段階として
仮想敵との交戦を想定した行軍・補給・指揮の検証を行う」
ざわめき。
「なんだ、机上かよ」
「拍子抜けだな」
第一軍団の兵士たちの間から、隠す気のない声が漏れる。
――分かっていた反応だ。
俺は、少し離れた指揮用天幕で、地図と魔導盤を見下ろしていた。
盤の上には、光の点で示された“敵”がいる。
見えないが、存在している。
「レイン」
ディアが近づいてくる。
「第一軍団は、納得していません」
「でしょうね」
「それでも、予定通り行います」
彼女の声は、揺れない。
「……最初は、
誰も“敵が怖い”とは思わない」
俺は、魔導盤を指でなぞった。
「問題は、
敵が見えないのに、被害が出始めたときです」
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午前九時。
演習開始。
第一軍団は、予定通り前進を開始した。
整然とした隊列。
迷いのない速度。
さすが、としか言いようがない。
「順調だな」
誰かが言う。
だが――
「補給担当より報告!」
文官が駆け込んでくる。
「第一軍団、想定より三割早く前進しています!」
「……来たか」
俺は、ペンを取る。
「予定通りです。
補給は、時間割に従って停止」
「止めるんですか!?」
「はい」
文官が一瞬ためらう。
「仮想敵なのに?」
「仮想敵だから、です」
実戦なら、もっと容赦なく切れる。
今は、まだ優しい。
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昼前。
第一軍団の前線で、異変が起きた。
「おい、弾薬が少ないぞ」
「魔力回復薬は?」
「まだ来ていない!」
敵はいない。
斬り結ぶ相手もいない。
それなのに、
戦える余裕が削れていく。
「ふざけるな!
敵もいないのに、
なんで止まる!」
怒号が上がる。
だが、返ってくるのは無情な報告だけ。
「補給は、次の時間帯まで再開されません!」
指揮官が、歯噛みする。
――ここで、強引に進めば。
仮想敵は、即座に“反撃”する。
魔導盤の上で、
敵の光点が、静かに動いた。
「……敵、接近?」
第二軍団の監視役が、声を上げる。
「いや、想定反撃行動だ!」
仮想敵は、
こちらの“無理な前進”を見逃さない。
現実よりも、正確で、冷酷だ。
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夕刻。
初日の演習は、
大きな衝突もなく終了した。
だが、誰も「楽だった」とは言わなかった。
「……なんだよ、これ」
第一軍団の兵士が、地面に腰を下ろす。
「敵、いなかったよな?」
「いたよ」
別の兵士が答える。
「見えなかっただけで」
その言葉が、妙に重く残った。
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指揮天幕で、
俺は静かに報告書を書いていた。
「初日評価」
そう書いて、少し考える。
「敵は存在しなかった。
だが、戦場は確かに存在した」
ディアが、背後から言う。
「不満は?」
「山ほど」
「離脱者は?」
「ゼロです」
彼女は、小さく頷いた。
「では、成功です」
「……まだ、初日ですよ」
「だからこそ、です」
ディアは、外を見た。
兵士たちは、敵のいない空を睨んでいる。
明日、
この“見えない敵”は、
もっと厄介な顔をして現れる。
そして、やがて――
人が動く敵に変わる。
軍事演習は、
静かに、しかし確実に、
本性を現し始めていた。
――軍事演習第一段階で使用される「仮想敵魔導盤」について
本編中で登場した、軍事演習第一段階における「仮想敵」は、
単なる机上演習や想像上の敵ではありません。
魔王軍が保有する魔導装置
《戦域再現魔導盤》
――通称「演習盤」によって再現された存在です。
この魔導盤は、魔王軍魔導局の中でも
特に軍事・戦術魔導を専門とする部署、
魔王軍魔導戦略研究院(通称:戦研/せんけん)
によって開発されました。
戦研は、過去の戦争記録、前線から集められた報告、
人間軍の行動傾向、補給速度、士気の変動などを魔導的に解析し、
「最も起こりうる敵の行動」を演算・再現する組織です。
戦域再現魔導盤の特徴は、以下の通りです。
地形・天候・視界条件を、ほぼ実戦同様に再現
敵軍の行動は固定ではなく、味方の動きに応じて変化
補給物資・弾薬・魔力資源は、実数値で管理される
無理な行軍や規定外行動は、即座に不利な結果として反映される
つまりこの演習では、
「敵がいない」のではなく、
「敵が、最も嫌な形で存在している」
という状態が作られています。
補給が遅れれば前線は不安定になり、
無理に進めば、仮想敵はそれを見逃さず、
現実の戦場と同じように“付け込む”。
血は流れません。
しかし、判断ミスと消耗だけは、確実に積み重なります。
魔王軍が戦争中にもかかわらず、この演習を行う理由は明確です。
実戦では、失敗できないから。
だからこそ、
失敗が「結果として可視化される」この魔導盤が用いられています。
レインたちが対峙しているのは、
安全な仮想敵ではありません。
それは、
これまでの戦争が生み出した
“最悪の敵の癖”そのものなのです。




