第六話 弓という道具
それは、武器としてではなかった。
丘の向こうで、人が倒れていた。
正確には、倒れていたのは荷で、
その横に男が座り込んでいた。
旅の途中らしかった。
荷車の軸が折れ、進めなくなったという。
彼女は、いつもの距離で立ち止まる。
近づかない。
ただ、見る。
男の荷の中に、細長い木があった。
両端がわずかに反り、
中央に革が結ばれている。
彼女は、それが何かを知らなかった。
だが、風を受ける形をしていることだけは分かった。
男が気づき、手招きをする。
断る理由もなく、彼女は少しだけ距離を詰めた。
「弓だ」
短く、そう言った。
彼女は頷く。
分かったふりではない。
分からないまま、受け取る。
持つと、軽かった。
だが、空気を含む。
振ると、風が逃げない。
男は矢を一本、地面に置いた。
撃たせはしなかった。
ただ、引くところまでを見せる。
紐が張られ、
木が軋み、
空気が溜まる。
――音が、変わる。
彼女は、その瞬間に息を止めていた。
石でも、木片でもない。
風そのものを引き寄せているように見えた。
「遠くに触れる道具だ」
男はそう言ったが、
彼女は別の言葉で理解していた。
遠くへ行かなくても、
近づかなくても、
位置を変えずに、
先へ影響を残す。
それは、
走らずに間に合うための形だった。
彼女は弓を返した。
まだ早い、と感じたからだ。
自分は、これを持つ場所に立っていない。
だが、目は離れなかった。
反り。
紐の張り。
音の溜まり方。
すべてを、風として覚えた。
男が去ったあとも、
彼女はしばらく丘に立っていた。
弓は持っていない。
矢もない。
それでも、世界の見え方が少し変わる。
遠くは、触れないものではなくなった。
風が吹く。
彼女は歩く。
まだ走らない。
だが、
いつか触れるための距離だけは、
もう測り始めていた。




