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第三話 走らない歩き方

それからしばらく、彼女は走らなかった。

走れなかった、ではない。

走ろうと思えば、脚は動いた。

息も、少しずつ戻っていた。

それでも、彼女は走らなかった。

代わりに、立ち止まる時間が増えた。

一歩を踏み出す前に、風を見る。

地面の傾き、草の倒れ方、音の抜け方を確かめる。

急がない。

遅れない。

その違いを、彼女は身体で覚え始めていた。

村は、前よりも静かになった。

人の数が減り、声が減り、夜の闇が深くなった。

その中で彼女は、誰に言われるでもなく、

少し高い場所を選んで歩くようになる。

丘の端。

崩れた石垣の上。

風が通る場所。

そこに立てば、遠くが見える。

見えるというより、わかる。

誰かが近づく前に、気配が来る。

獣が動く前に、空気が変わる。

走らなくても、間に合う場所。

彼女は、その位置を探すようになる。

ある日、村の外れで、小さな騒ぎが起きた。

獣だった。

大きくはないが、人を傷つけるには十分な牙を持っている。

大人たちが集まり、囲もうとする。

彼女は、その輪の外にいた。

近づかない。

前に出ない。

その代わり、石を拾う。

風を読む。

獣の動きが一瞬止まる場所を選ぶ。

投げる。

石は、狙ったより少し外れた。

だが音がした。

獣の注意が、ほんの一瞬そちらに向く。

その隙に、別の大人が距離を詰め、

事は終わった。

誰も彼女を見ていなかった。

それでよかった。

彼女は気づく。

近づかなくても、

走らなくても、

影響を与えることはできる。

この頃から、彼女の歩き方は変わった。

一直線に行かない。

風上を取る。

見通しのきく場所を外さない。

速さではなく、位置で間に合う。

彼女の中で、

「走る」という選択肢が、静かに棚に上げられていく。

それは恐怖ではなかった。

逃げでもなかった。

一度、走って失ったものを、

二度と同じ形で失わないための、

ただの工夫だった。

彼女はまだ武器を持たない。

まだ戦う者ではない。

けれどすでに、

走らずに間に合うための思考だけは、

身体に染み込み始めていた。

風が吹く。

彼女は歩く。

遠くを見る癖は、そのままに。

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