第二話 届かなかった声
風は、最初は静かだった。
彼女が村へ向かって走り出したとき、背中を押すように吹いていたはずなのに、
息が乱れ始めた頃から、風は正面に回った。
肺が焼ける。
胸が上下して、喉が乾く。
「……来る、ぞ……!」
声を出したつもりだった。
でも音は、途中でほどけて、風に持っていかれる。
足は止めなかった。
止めるという選択肢はなかった。
走れば間に合う――そう信じるしかなかった。
視界が狭くなる。
地面しか見えなくなる。
さっきまで感じていた風の流れが、わからなくなる。
彼女は気づく。
走っている間、遠くが消えていることに。
村の入口が見えたとき、
すでに遅かった。
叫び声。
獣の吠えるような音。
何かが壊れる鈍い衝撃。
彼女は足を止めた。
止まった瞬間、世界が戻ってくる。
音が、距離を伴って耳に入る。
風向きがわかる。
煙の匂いが、遅れて鼻を突く。
炎が上がっていた。
屋根の端から、
風に煽られて、
赤い舌が伸びている。
誰かが倒れている。
誰かが呼んでいる。
でも、今の彼女にできることはない。
近づこうとして、また一歩踏み出しかけて、
彼女は気づく。
――近くに行っても、何も変わらない。
その事実が、胸に落ちる。
彼女は、ただ立っていた。
遠くを見る癖のまま。
今度は、あまりにも近い惨状を、
遠くから見るしかなかった。
風が吹く。
煙が流れる。
叫び声が、ちぎれて届く。
その中で、彼女は学んでしまう。
走ると、
息が乱れる。
声が届かない。
見えるものが減る。
止まると、
すべてが戻ってくる。
この日、彼女の中で、
何かが静かに折れた。
それは怒りでも、涙でもない。
もっと乾いた、冷たい理解だった。
――間に合うためには、
――速さだけじゃ足りない。
彼女は、風の向こうに目を向けた。
まだ知らない。
この理解が、
彼女を二度と「走らない」場所へ連れていくことを。




