第一話 遠くを見る子
その子は、いつも少し高い場所にいた。
村外れの岩の上。
崩れかけた見張り台の梁。
誰も使わなくなった風車の土台。
登る理由を聞かれても、彼女はうまく答えられなかった。
ただ、そこに立つと――遠くがよく見えた。
風が来る。
草が揺れる順番が、地面を走るみたいにわかる。
音も、匂いも、少しだけ早く届く。
その頃の彼女に、戦う理由はなかった。
手にするのは、風に揺れる景色と、遠くの気配だけだった。
その日も、風は静かだった。
空は高く、雲は薄く伸びていた。
村はいつも通りで、大人たちは畑に出て、子どもたちは川で騒いでいる。
――おかしい。
彼女は、風の中に混じる違和感に気づいた。
音が、ひとつ多い。
岩の上から目を凝らす。
森の縁が、わずかに揺れた。
心臓が跳ねる。
「……来る」
誰にともなく呟いて、彼女は岩を飛び降りた。
村の縁を越えて、黒い列が動いていた。
軍隊だ。
心臓が跳ねる。
迷いはなかった。
走れば間に合うと思った。
村へ向かって、全力で走る。
最初は声が出た。
「来るぞ!」
「森から――!」
でも息が追いつかない。
足は速いのに、胸が焼ける。
視界が狭くなっていく。
叫ぼうとして、咳き込む。
音が、風に切り刻まれて散っていく。
その時、背後で空気が変わった。
振り返ると家屋の屋根から煙が伸び、風が火を煽る。
間に合わなかった。
彼女は立ち止まり、ただそれを見ることしかできなかった。
走ったのに。
全力だったのに。
遠くを見ていたのに。
風が吹く。
叫び声が、遅れて届く。
彼女は、その場に立ち尽くしたまま、拳を握った。
――遠くにいたから、見えた。
――でも、近づいたら、何も見えなくなった。
その瞬間、何かが心の奥で変わった。
恐怖も、焦りも、迷いも――すべて燃え尽きたかのように消えた。
残ったのは、今この瞬間の感覚だけ。
音、匂い、風の微細な変化――
すべてが、生き延びるための情報に変わる。
その日、彼女は初めて知る。
走るという行為が、すべてを救うわけではないことを。
そしてまだ、この時の彼女は知らない。
この「届かなかった距離」が、
やがて彼女の立ち位置を決め、
名前を奪い、
遠風と呼ばれる日につながっていくことを。
戦争は、無邪気な日々を奪った。
家族を、街を、そして大切な人を――一度に失った日がある。
だが風だけは、何も言わずに吹き続けていた。




