020 咆哮
ナイフを首に突きつけられた小さなエルフの娘は、持っていたステッキを手から落とした。
「お前の負けだな」
ヴォルクは冷たい声で言い放つ。
リルは魔導士として、火力、コントロール、素早さどれもが一級品であったが、経験が圧倒的に足りていなかった。
ヴォルクのように魔力の流れを読める相手への対応や、渾身の一撃を回避された後の対処など、今まで必要とされてこなかった能力が、備わっていなかったのだ。
だがしかし、自身のプライドを守るため、勝利に対する執着は十分過ぎるほどにあった。
彼女はまだ敗北を認めていなかったのだ。
ヴォルクが彼女の首元からナイフを離した瞬間だった。
リルは、普段は使わない攻撃用途のない風魔術を発動した。
「〈突風〉」
それは指定した場所に、強い風を起こすだけの魔術。できることは精々、物を吹き飛ばしたり人をよろめかせること。
ヴォルクは突風の魔術に対する知識があったため、一瞬身体を身構えさせはしたが、風はヴォルクに対しても、またリルに対してさえ吹いてはこなかった。
一体彼女はどこに対して魔術を放ったのか。ヴォルクが思考を巡らせた瞬間。
「あらいいの? お仲間が死んじゃうかもよ〜」
リルは満開の花にように美しい顔を、ぐにゃりと歪ませた。
ヴォルクは咄嗟に視線を上にやる。
同時に上空から少女の叫び声が降ってきた。
「ヴォルクさーん!!!」
リルの〈突風〉は、里の建物から二人を観戦していたエレインに対して使われていたのだ。
激しい風によりバランスを崩した彼女は建物から投げ出され、今まさにじたばたと手足を動かしながら地面へと落下していく。
ヴォルクは咄嗟に地面を強く蹴ると高く飛び上がり、空中でエレインを抱きかかえた。
屍鬼である彼女が落下によって損傷するかは分からなかったが、例え死ななかったとしても、彼女に無残な傷を負わせたくはなかった。
抱いた彼女を見ると怪我は負っていないようだが、どうも気を失ってしまったようである。
そういえば彼女は高所が苦手だと言っていた。
ヴォルクがふと安心をした瞬間、衝撃と共に脚に激しい痛みが走った。
彼の左脚には一本の矢が突き刺さっていた。
ヴォルクはエレインを抱いたまま地面に着地する。当然、着地の瞬間にはかなりの痛みがあったが、今は無視するしかない。
ヴォルクはエレインを地面に降ろすと、リルを睨みつけた。
「やっぱりアンデッドを助けたわね。その選択のおかげでお得意の足捌きはもうできなくなったけど」
ヴォルクは魔導銃を使わない戦闘において、軽妙なフットワークと一撃の破壊力によって戦いを優位に進めていた。
そのため防御力には比重を置いてはおらず、もし脚部に矢傷の一つでも受けてしまえば、それだけで戦闘が継続不能になってしまってもおかしくはなかった。
「風よ吹け〈ウインドスピア〉」
リルは残った右脚に狙いをつけ、何本もの風の槍を放つ。
ヴォルクは矢避の魔術も使いつつ懸命に避けるが、脚に突き刺さる矢が邪魔をし続け、ついには両脚に大きな傷をつけることになった。
並の使い手の魔法なら逃げることもできただろうが、やはり風魔法の使用において、リルが天才的な才能を持つことは間違いがないようだった。
ヴォルクは地に片膝をつき、動きを止める。
出血により地面は赤黒く染まっていた。
「ほーら、ここまで這っておいでワンちゃん。あたしの靴をしっかり舐めたらご褒美に耳を切り落としてあげるわ」
リルは心底愉快そうにヴォルクを煽り立てる。
「……」
しかし、ヴォルクはリルからの挑発を全て受け流し、ただ黙ったまま、地面を見つめていた。
「どうしたの、狼人? 負けたのが悔しくて何も喋れないのかしら」
「……」
「まあ、いいわ。あんたの耳を持っていけば師匠もあたしを認めるしかなくなるわね。殺しはしないであげるから安心なさい」
リルは戦いの勝者として余裕を持ちながら、圧倒的な敗者であるヴォルクへと近付いていった。
「風よ吹け」
彼女は戦闘経験こそ浅いものの、学習ができぬような馬鹿ではなかった。
ヴォルクは黙ったまま微動だにしないが、大方隙を見て攻撃を仕掛けてくる腹積りなのだろう。
勝ちを確信してはいるが今回こそは油断せず、事前に魔法の詠唱を行っておくことで、彼がいつ襲いかかっても串刺しにできるよう準備をしておいた。
彼女はヴォルクから十数歩の距離に止まると、背負った弓矢を取り出しヴォルクへと向けた。
「あんたに近づくのは嫌だから、ここから矢を射って耳だけ飛ばしてあげる。動いたら頭に突き刺さるからしっかり止まっておきなさい」
リルは自慢の弓の腕を披露し、彼に完璧に勝つつもりだった。それこそが彼女が自信を完璧に回復させる方法だったのだ。
「……」
ヴォルクは黙ったままだ。
リルがサディスティックな笑みを浮かべながら、矢を番えた瞬間だった。
ヴォルクはリルに向かい大口を開け、声帯を震わせる。
「ウオオオオオオォォォォン!!!!!!」
周囲に狼の咆哮が響き渡った。
それは聞く者全ての耳を砕くかのような大音声で、辺りの枝々は衝撃に身を揺らした。
里全体に轟く爆音は、それだけで兵器であるといえた。
リルはあまりの音量に仰天したが、気を取り直しすぐさま矢を放とうとした。
ヴォルクの前で数瞬でも隙を見せれば敗北に繋がることをよく知っているからだ。
――動かない……!
彼女は矢を放つためにその細い指を操作しようとしたが、指先は石のように硬く閉じ、自らの意思で動かすことはできなかった。
そして、硬直は指先だけではなかった。
腕から足先にかけて、首や顔、眼球に至るまで。
彼女はその身体全てのコントロールを失っていた。
「加護の使い方は分かっていたが、ほう。そうなるんだな」
咆哮を終えたヴォルクはぎこちない動きでその場を立つと、ピタリと動きを止めてしまったリルへと足を引き摺りながら歩き始めた。
「どうした、森人。負けるのが悔しくて何も喋れなくなったか」
「……」
リルは反論するために喉を動かすことさえできない。
形勢は再び、逆転した。
ヴォルクはナイフを抜き取り順手で持つと、リルの長耳へピタリと当てた。ヴォルクが手に少しの重さをかけるだけで、彼女の耳は頭から離れることになるだろう。
「さて、これで負けるのは何度目だ? ヤンには俺が死ぬまで従者として就くよう言われていたそうだな。耳を削がれるのとどっちがいい?」
リルの身体が恐怖により震えだす。咆哮による硬直が解けたようだ。
彼女の身体は極度の緊張により汗ばみ始め、甘酸っぱいような草の匂いがヴォルクの鼻腔をくすぐった。これがエルフの体臭なのだろう。
顔を涙で濡らし何も答えようとしないリルに対し、ヴォルクは空いた中指で彼女の耳をパチンと弾く。
「ひぃ!!」
突然襲ってきた自身の耳への鋭い痛みにリルは恐れ慄いた。今にも気を失いそうだ。
「ヴォルクさん! リルちゃんを虐めないであげてください!」
咆哮の硬直が解けたのは、エレインも同じだったようだ。
リルには今まで何度も殺されかけているはずだが、どうもエレインは彼女に優しかった。
それが彼女の性根なのだろう。
エレインはヴォルクに回復魔法を重ねる。彼の損傷した両脚はみるみると癒えていった。
ヴォルクは彼女に免じてナイフを懐にしまうことにした。
安心したリルは途端にその場へ崩れ落ちると、全身を脱力させた。耳に刃物を突き立てられることはエルフにとってそれだけ恐ろしいのだろう。
おそらくは尊厳の問題なのだとは思うが、エルフに対する脅しの一つとして良いことを知ったとヴォルクは思った。
「なるわ、あんたの従者に…… 寝込みでも襲わない限りもう勝てないって分かったもの」
従者になると言いながら、寝込みを襲えば勝てると宣言するのもおかしな話だったが、これで彼女も真に敗北を認めたのだろう。
やっとのことで聞き出せた敗北宣言であった。
「それでいい。だが、まずは遺骸の王を討伐しないとな。エルフ達からの依頼は必ず達成させる」
それはヴォルクが新たな仲間をパーティに加えた瞬間だった。
「それより獣人の寿命はどれくらいなの?」
新しい仲間の品性は、最悪だった。
彼女は自分の感情に正直すぎるのだろう。分かりやすくていいか、とヴォルクは前向きに考えることにした。
「六十を超えることは少ない。だが俺は冒険者だ。この仕事を続ける奴等に寿命などあってないようなものだろう」
「それを聞いて安心したわ! あんたが冒険者を続けられるように、最高のサポートをしてあげる! エルフの仲間なんて千人力よ、喜びなさい」
「リルちゃん、よろしくね! わたしのことはアンデッドじゃなくてエレインちゃんって呼んで?」
ヴォルクは一年前には想像もできなかったほど賑やな生活になったと感じた。
そして、その賑やかさを受け入れられるようになったことも、成長であるように思えた。
軍で起きたあの事件から、新しく仲間など作る気は起きなかったのだが、エレインと関わりを持つようになってから随分と考えが変わった。
ヴォルクはこの生活がしばらくは続いてほしいと願った。
「授かった加護を確認するために、あんた達に鑑定魔法をかけるわ。狼の獣人に与えられるのは〈魔狼の加護〉だってもう分かってるらしいけど、アンデッドであるエレインには何が与えられるか分からないからね」
リルは自身が与えられた目的を思い出し、鑑定魔法をかけることを提案した。
そもそも二人に会いにきたのはこれが動機だったのだ。
怒りに駆られるとすぐ目的を忘れてしまうのが彼女の悪い癖だったが、エルフの精神発達は見た目同様ヒューマンと比べれば遅々としたものである。
エルフの基準であればまだまだ子供であるリルは成長段階にあるのだ。
「鑑定が使えるのか、中級光魔法の一つだったろう。やるじゃないか」
ヴォルクは素直に彼女を褒めた。
自分が初級の光魔法を使えるのにもかなりの年数がかかった。しかしそれでも初級程度の使い手は、年数と金払いさえよければ誰でも取れる力であるため、街に掃いて捨てるほどいる。
致命傷や欠損の再生はできないが、怪我を負った際に出血死を防ぐ程度のことはできる〈ヒール〉や、戦闘を生業とする者に重宝される魔術〈加速〉、〈矢避〉などは、初級の光魔法習得で使えるようになるものだ。
ヴォルクのように手間をかけて修行を行い、危険が溢れるこの大陸で生き延びる確率を少しでも高めようと、皆こぞって訓練を積もうとしていた。
しかし、中級の光魔法となると話は変わる。
中級以上になると、神の権能によって凄まじい力を誇る攻撃魔法や、瀕死の重傷を負った者さえたちまち動き出せるようになる回復魔法。
また、相手の能力の詳細を把握できるようになる鑑定魔法や、敵からの魔法を遮断する〈障壁〉の魔術など、一つ使えるようになるだけで様々な役職から声がかかるようになるほどの強力な品揃えだ。
当然習得には長い年月と、神からの寵愛が必要になる。
つまり、訓練したとて神に目をかけられているような者でないと会得ができない力なのだ。
長い時を生きるエルフとて、それは同じである。悠久の時を祈りや修行に費やそうが、寵愛がなければ使えるのは初級止まり。
リルが鑑定魔法を使えるということは、それだけの修行と、神からの愛を受けているということだ。
彼女の性格からはあまり想像がつかないが、もしかすれば前世で素晴らしい徳でも積んでいたのかもしれないとヴォルクは思った。
「あたしは天才よ。経った百年でここまでの魔法が使えるようになったエルフなんて大陸中探してもいないでしょうね」
彼女はキラキラと輝く瞳で自惚れを語る。
ヤンが言ったようにこの里には彼女より強い戦士が数名いるそうだが、実際、総合力を抜きにした期待値で言えば彼女は本当に優れた才能を持っているのだろう。
「それで、鑑定をかけてくれるんだろう。やってくれ」
リルは気を取り戻すと、ヴォルクに向け鑑定魔法の詠唱を始めた。
「開く眼は、彼の者の真を見通すだろう。光を通し先を占う。闇に通じ後を守る。輿図を開き贖わん。〈鑑定〉」
リルの瞳が蒼く光りだし、ヴォルクの姿を捉える。
鑑定魔法によりヴォルクの持つ能力を見通しているのだろう。
リルは鑑定した情報を読み上げていく。
「ヴォルク、獣人。使えるのは火魔術土魔術光魔法に……あんた、なんて技能持ってるの!?」
リルは大声で彼の秘密を叫ぼうとした。
【Tips】光魔法。善の神々から与えられた権能の行使の総称。身体強化魔術や防護魔術、浄化魔法など様々な種類があるが、全て光魔法の習得の中で手にできる力である。同じ修行を行っても手にできる魔法に違いがあり、祝福をしてくれる神が違うためであるとされる。