とある高貴な男と、彼の愛したモノの話
月の見えない宵闇の中。
雨の音の狭間から、草を踏む足音が聞こえた。
「私の紅」
「……月の君」
呼びかける声の甘さに、思わず頬を染める。
今夜もまた、彼の方がおいでくださった。
「愛おしい、私の紅」
低く囁く声は艶めいて、私の胸ははしたなくも期待に高鳴っている。
「今宵もまた、私だけのために歌っておくれ」
「あぁ」
吐息とともに零れ落ちた声は自分のものとは思えないほどに切なく揺れている。
「愛しているよ」
雨に濡れて匂い立つ男の名を、私は知らない。
***
「探したよ、私の愛おしいひと」
月が全てを照らすほどに、眩く輝いていた夜。
突然庭に現れて、彼の方は言った。
そして姿を隠すことすらできず固まっている私に、ゆるりと美しい笑みを浮かべた。
「紅を纏うそなたを、私だけの紅と呼ぼう」
それはまるで、神の降り立ったような、神々しい微笑だった。
ただ見惚れて、頷くこと以外は何もできぬほどに。
決して名を告げぬ御方を、私は「月の君」と呼んだ。
たとえ月のない暗い夜であろうとも、その方が現れると、家の中は満月に照らされたかのように、明るく光るのだ。
まるで体のうちから月の光を放っているとしか思えないほどに、その姿は煌めいていた。
彼の方は、いつも微笑んでいる。
ほとんど感情がないのではないかと疑うほどに、完璧に麗しい流線形に唇を整えている。
けれど、時折、私の仕草に驚いたように目を見開くことがある。
そして、嬉しそうに、懐かしそうに表情を崩すのだ。
その時だけは、普段の端正な仮面のような顔が、くしゃりと歪む。
人外と言われても信じてしまいそうな玲瓏とした美貌が、驚くほど柔らかくなり、私は悦びと切なさに瞳を潤ませるのだ。
二夜と空けずに、彼の方は私の住処へ訪れる。
私は心底不思議であった。
これほどまでに美しく、一目見て知るほどに高貴な御方が、なぜ私を寵してくださるのか。
生まれた時から誰からも疎まれ、人目を逃れて宇治の外れに隠れ住む身なのだ。
私に関われば、悪しき宿運に巻き込まれてしまうかもしれない。
胸が張り裂けるほどに悲しかったけれども、私は涙を零しながら伝えた。
「貴方様は輝く世が似合いの御方。私の暗き宿運にかかずりあってはなりません。
どうかもう、私の元へはいらっしゃいませんよう」
「これは、異なことを」
しかし彼の方は愉快そうにくすくすと笑い、私の頤を細く長い指先で持ち上げた。
「私は、月の宮。この夜を照らす者。
この私に、照らせぬ闇があろうものか」
堂々としたお言葉に、私は言葉を失くした。
茫然としたまま顔を見つめれば、優艶な流し目をくださる。
照らす月の明るさのために、瞬く間に赤く染まった顔を隠すこともできず、私は思わず逃げるように顔を背けた。
「私の可愛いひとは、いつまでたっても、随分と初心なままのようだ」
可笑しそうに唇を緩めた彼の方に、そっと背中から抱きしめられる。
「紅を好むものに、悪しき者はおらぬよ」
父に疎まれ、母に隠された私の未来に、これほど素晴らしい幸運が隠れていたとは、今もどこか信じられない。
この上なく美しく優しい殿方に、夜ごと夢のような言葉を贈られ、気の遠くなるほどの愛で息の根を止められそうになるのだ。
「照れているのかい、愛おしい方」
恥じ入り火照る頬へ柔らかな接吻が落とされる。
「あぁ、可愛い紅」
女とはお思えぬような固い肢体を、彼の方は心地よいと好む。
「誰よりも、何よりも、愛しているよ」
女とは思えぬような低い声を、彼の方は鈴を転がすようだと好む。
「お前は、お前だけは、私のものだ」
女とは思えぬような太い首を、彼の方は絞めてしまいたいと好む。
「もう二度と、手放しはせぬ」
たとえ、誰かの身代わりなのだとしても。
「愛しているよ、私の紅」
私は、この上なく幸せなのだ。




