番外編:すいぞくかん
暗闇は多かれ少なかれ人間に原初的な恐怖心を抱かせる。普段よりも遅くなった帰り、何百回と往復して見慣れたはずの道に思いがけず暗くなった場所を見つけて、妙に不安な気持ちになった経験は誰しもあるのではないだろうか。
しかし何事にも例外はあって、逆に胸が踊るような、ワクワクする暗がりというものもある。たぶんそれは、暗闇への不安が未知の非日常への期待と紙一重だからなのではないだろうか……ミユキがそんな風に考えたのは、マシロを連れて水族館の暗い廊下を歩いているからだった。
「『波花湾のいきもの』だって。どんなのがいるか知ってる?」
「うーん、考えたこと無かったかも……」
二人が来ているこの波花水族館は、露草地区エリアEの波花湾に作られた人工島『波花テックアイランド』の上にある。
国内でも有数の規模の水族館であり、ここでしか見られない珍しい生物も展示されていて、遠方から来る来館者も少なくない露草地区の目玉スポットの一つだ。とはいえ、ミユキとマシロはわざわざ遠出してここまで来たわけではない。
というのも、水族館のある波花テックアイランドは"秘密基地"を中心に造成された人工島なのだ。
島の中央にあたるメック格納庫から出れば、バスに乗って水族館まで約15分。帰り道の途中とはいかなくとも、"お仕事"のあとで寄るには絶好の遊び場の一つだと言っていいだろう。
今日は平日ということもあってか他の客も多くなく、二人はゆっくりと館内を見て回っていた。
「おっ、見て見て!こんなのあるんだ、すっごー……」
床のライトがぼんやりと光る薄暗い通路の角を曲がると、やはり薄暗い、しかし一転して開けた空間が青い光に照らされていた。
その光の源は、高さ5m、幅はその倍はあろう壁一面を覆うような大水槽だ。
パッと見ただけでも、大きなエイにウツボ、キラキラと銀色に光るイワシの群れや、映画で見るようなサメをそのまま小さくしたような(それでも2〜3mはありそうだが)ものまで、種々様々な肴が所狭しと泳ぎ回っている。
巨大なスクリーンで海中を切り取ったようなその光景は、これがここの水族館の目玉か、少なくともその一つだろうと確信できる壮大な展示だった。
「ホントだ、すごく綺麗……」
『キレー』という語尾が伸びたようなものではなく、『きれい』としっかり発音するのは、やっぱりマシロの育ちの良さ故だろうか。
『君の方が綺麗だよ』なんてジョークで茶化してみようかとも思ったのだけど流石に自重して、
「マシロはどれが好きとかある?お気に入りの魚とか、海の生き物で」
「え?」
なんとなく、他愛のない話題のひとつとしてそう尋ねた。しかし、マシロはさも意外という顔で瞬きをふたつして、
「ええっと……」
大水槽の方に視線をやってから、
「あ、ほら、ウミガメ!ああいうの、好きかな。かわいいじゃない、カメって」
やや大袈裟に指をさしてみせながら言った。
その先には確かに大きなウミガメが、甲羅の白い腹側を見せながらゆったりと泳いでいる。しかしそれを『怪しい』とミユキは感じた。
近頃、マシロの態度が妙によそよそしいように思えてならないのだ。
今の不自然な間はそれが顕著に出たもので、好きな生き物という些細な雑談でも、何か"正解"というか、"こう言うべき"というものを探しているような気がする。ミユキは単にマシロの好みが知りたかった……いや、それも実際のところそう重要ではなくて、ただ普通の会話をしたかっただけなのに。
マシロのことだから何か気を遣っているのだろうけれど、ミユキにとってそういうのは嬉しくない。気を遣われるような覚えもないのだから尚更だ。
一度そう考えてしまうと、そもそも水族館にも来たくなかったのではないか、こちらに気を遣って行きたいような素振りを見せたのではないか、という疑念もよぎり始める。
けれど、
「ミユキちゃんは?何が好き?」
「ん……やっぱりサメかなぁ。もっとデカいやつとかいれば面白いんだけど、メガロドンみたいな」
「あは、それはちょっと恐いかなぁ、私は……」
口許に手を当ててお上品に笑うマシロに、ミユキは歯を見せる笑顔で応える。
今は貴重な"デート"の時間、モヤモヤと思い悩んでもいいことはない。マシロの態度のことはまた後で考えよう、それより今はマシロが楽しめるようにフォローしてあげる方が建設的というものだ。
本当にマシロが何か気遣ってるんだとしても、それが責められるほど悪いことかというとそうでもないのだし……なんだか自分に言い聞かせているようだ、と自覚はしているけれど。
「ま、実際、大きい生き物は好きかなぁ。やっぱりシャチとかさ」
「テンション上がってたもんねぇ」
水族館に入場してすぐに見えたシャチの展示は、ショーをやっているプールの下部分を見せたものだった。シャチと言えば水族館でも大スターだろうに、それをいきなり見せてしまうのはなんとも贅沢というか、大きな水族館の余裕というものか。
「やっぱりああいうデカくて派手なのを見たら、遊びに来たぞー!って気になるし」
「そうなんだ……」
そう言ってゆっくりと水槽のアクリルの前まで歩いていったマシロが、
「私は小さいのも好きだけどな」
しゃがみ込んでそう呟いたのをみて、ミユキは『おっ』と思った。
マシロは手前まで一匹で泳いできた小さな魚(名前は分からないけれど、メバルとかそのあたりの仲間かなとミユキは思った)を眺めていて、その横顔は優しくて自然な笑みを浮かべていた。
そんな顔を見ていると、なんだか不思議な気持ちになってくる。『胸がキュンとなる』とか言うとちょっと直接的すぎて違う。嬉しいような寂しいような、もしかしたらこれがいわゆる"切ない"というやつなのだろうか。
「デカいのはもう見てるもんね、《カサブランカ》でさ」
何故か少し焦ってそう茶化してみると、マシロは魚を見つめたまま小さく苦笑して、
「そろそろ次行こっか。深海魚のコーナーだっけ」
立ち上がってこちらを向いた彼女はやっぱり笑っていて、しかしそれはさっきのような自然な笑みではなかった。
ミユキは自分がそこに何を感じたのか、自覚する前に、
「コーナーって、スーパーじゃないんだから」
「えっ、『コーナー』じゃないの!?じゃあ『エリア』?それもなんか変だし……」
そんな風な会話をしながら、努めて笑顔で次の暗い通路を抜けていった。