第三十七話 決行 ~あえて、言おう、主人公は俺だと!!~
***アルテア・ヴィルガ***
ついに、カエデの方でも光源の設置が終わった。通路は、並んだ蝋燭の灯に照らされて、明るくなっていて、奥の方に立っているカエデの姿をはっきりと見て取ることができた。いよいよ、足止め用の火を点けるときだ。
私は設置した蝋燭の列の真ん中に来た。これから、ここに油を撒き、火を点ける。そうしたら、もう、引き返すことはできない……。
ちろちろと燃える蝋燭の火をじっと見つめる。いまだ、ケイブベアに動きはない。ケイブベアは本当にそこにいるのかしら。ケイブベアを至近で目撃して以来、誰もその存在を確認していないのよね。すでに去っている可能性もあるかしら。いないなら、いないに越したことはないけれど……。
これからのことを考えると、流石に緊張しないと言えば、嘘になる。私は、ケイブベアと至近で出遭ったとき、恐怖に駆られ、みっともなく、冷静さの欠片もなく、逃げ出した。あれは、到底、理性的、合理的な行動とは言えなかったわね。今、思い出しても、とても情けなく、感じるもの。自分の理性で抑えきれないほどの、凄まじい恐怖を感じ、理性が心に打ち負かされた。頭では、駄目だと分かっているのに、心がいうことをきいてくれなかった……。
私は、どうやら、思った以上に、理想と現実の差に酷く、打ちのめされているようね。これから、私は理想的に振舞うことができるかしら。前回は、不意を衝かれたけれど、今回は、こうして、心の準備をしている。大丈夫……ではないわね。いまも、あの聳え立つような巨体を思い返すだけで、己が身が、威圧され、戦慄するのを感じる。おそらく、また、私は、無様に、見苦しく、逃げるのでしょうね……。
この恐怖は、もしかしたら、生理的、本能的な物であって、理屈でどうにか、できる物ではないのかもしれないわ。不意に、大きな音がしたら、人は、いや、動物は反射的に驚く。人間固有の現象ではないことを鑑みても、これは生理的、本能的な反応といって、差し支えないでしょうね。生理的、本能的な行動を抑制する術など、あるのかしら。少なくとも、私は、それを知らないわ。
まあ、いいでしょう、避けられないと分かっているのならば、それを想定して、行動するだけよ。精々、盛大に、無様に、みっともなく、見苦しく、情けなく、逃げることにしましょうか……。
カエデの方を見る。彼女は準備万端、後は、私の合図を待って、弓を引くだけだった。私は手振りで、カエデに合図を送った。カエデは、毒矢を番え、弓を、ゆっくりと、ゆっくりと、引いていく。刻の流れが急に遅くなったように感じる。息詰まる長い時間は、ついに終わりを告げ、カエデは弓を引き切った。
私は蝋燭を背にして、油を撒いた後、隣に離れて立っている蝋燭の方まで、移動した。丸めた紙くずに火を付けた後、油の方に投げる。紙くずが油の上に落ちた瞬間、油はあっという間に、ごうごうと燃え立ち、その熱気を身に感じた。
待避口に続く通路の方で、何か、極僅かな音でもすまいかと、全神経を働かせて、窺う。ここまで、やっても、やはり、何の動きもない。本当にいない!? そうしたら、助かるのだけれど……。
私は燃え盛る火を尻目に、丁字路の交差点に向かった。角に、ついに辿りつく。いよいよだ。身が竦むのを感じる。
私の体は……震えていた。くそ、事を起こす前から、これか。我が事ながら、本当に参ったわね。でも、事ここに至っては、最早、やらないという選択肢はないわ。
私は大きく、息を吸い込んだ。角の先に顔を出し、叫ぶ。
「なにもしないで!」
曲がり角の先は真っ暗で何も分からない。音だけが頼りだわ。必死に耳を凝らすと、闇の中で音がした。
それを聞くや否や、反転し、脱兎のごとく、逃げ出す。ケイブベアの立てる地響きに追われながら、撒き菱を、火を、兎が如く、飛び越えていく。背後で、獣の叫声が二度、立て続けに、轟ろいたような気がした。ただただ、待避口を目指して、全身全霊で、我武者羅に走り続ける。曲がり角で必死に減速し、また、必死に加速する。それをひたすら、馬鹿みたいに繰り返す。合理的ではないとわかっても、止められない。止められるわけがないわ。
ついに、待避口の手前の角が見えてきた。やったわ! 心がいくらか落ち着き、いままで、圧倒的に劣勢だった理性が、私という人間の主導権を、ようやく取り戻す。私は角の手前から、緩やかに減速し始め、綺麗に角を曲がり、そのまま、加速せず、進み、待避口のほぼ、前で静止した。間、息を容れずに、屈んで、待避口に這い退く。
待避口の中でぜえぜえと肩で息をする。なんとか、無事に逃げおおせることができたわね。外の様子を窺う。ケイブベアの足音は聞こえない。追ってきていない!? カエデはケイブベアに毒矢を打ち込むことに無事、成功したのかしら……。
もし、罷り間違って、ケイブベアが彼女の方を追いかけたのだとしたら、不安の種は尽きない。しかし、私に今できるのは、ただ、待つことだけだわ……。私は目を閉じ、床に仰向けに横たわり、疲れを癒すことに努めることにした。
二時間が経過したころ、人の足音が聞こえてきた。耳を澄ます。異なるリズムの音が混ざっている。一人じゃないわ。この時間に人が来るということは、カエデは毒矢を打ち込むのに成功したのでしょうね。私は安堵の溜息を吐いた。




