狸の衣替え
空に向かって吐き出す息が白く燻るようになりました。
まだ雪は降っていないとはいえ、本格的な冬到来です。
そんな領主様のお屋敷では、秋口から少しずつ準備を始め(いえ、勝手に生え変わり始めるのですけれど)、とうとう冬支度が終わった狸が一匹。
満を持して領主様の前に立っておりました。
ふっかふかの冬毛に覆われた魅惑のもふもふぼでぃです。
どうですか!
子狸はきらきらとした目で領主様を見上げました。
(いや、どうですかと言われてもな……)
円らな眼差しだけで伝えられた言葉を正確に受け止めて、領主様は沈黙しました。
そもそも、傍にいないことの方が少ない二人です。
昨日と今日のもふもふ具合の違いが判らない領主様に非はないでしょう。
だと言うのに、愛が足りないのか? と、少しばかり悩んでしまっているのは、彼が迷走中なだけなのです。出来る男なはずなのですが、子狸が絡むとちょっぴりポンコツになる領主様です。
そんな主の後ろで我慢し切れなくなった従者がお腹を抱えて笑い出しました。
「足短っ」
毛足の長い絨毯の上に、どどーんと立つ狸。
柔らかな冬毛に、耳も足も埋もれたまん丸仕様。堂々と四足で絨毯を踏みしめているものですから、黒く短いおみ足が絨毯に沈んでお腹が付きそうになっています。
はて、という顔をした子狸が自分の足元を見下ろしますが、残念ながら自身の冬毛で足元が見えません。前脚を上げてみました。
……………見なかったことにして下ろしました。
良いのです!今は冬毛のお披露目なのです!
期待を込めて見上げれば、迷走から抜け出した領主様が身体を屈めて子狸の前に膝を突きました。いつもの様に抱え上げた子狸は、まだまだ軽く小さいですが、出会った頃に比べれば少しだけ大きくなったでしょうか。
ふかふかな毛並み越しに伝わってくる子狸の体温に、領主様の口元がほんの少し緩みました。
「温かいな」
その言葉に期待の籠った子狸の眼差しが、きらりと輝きます。
子狸には大層甘い領主様です。基本、子狸の希望には全力で応える彼ですけれど、しかし、その期待には応えるわけにはいきませんでした。何故ならば、
「冬毛装備はわかったが、外套は仕立てるからな?」
子狸の希望は新しい外套の注文を撤回することだったから、です。
ネリはがんっとショックを受けたように固まりました。
そんな狸を不思議そうに見ていた従者が、首を傾げて領主様をみれば、彼は軽く肩をすくめました。
「外套の金額を知って、食費に換算したらしい」
「なるほど」
従者は納得しました。すごく納得しました。
領主様が仕立て屋に依頼する外套です。当然ですが安いものであるはずはありません。それもネリのために仕立てるのです。値段は推して知るべし。
外套一つで、余裕でひと冬を越えられるご飯が買えると知った子狸は戦々恐々、がくがくぶるぶるし、必死で外套を仕立てる必要がないことをアピールし始めたのです。
確かに冬毛を着込んだ子狸は見ているだけでも温かそうですから、外套は不要かもしれません。しかし、人の姿になってしまえば、その冬装備は狸の姿と共にどこかにしまわれてしまうのです。
つまり、どれだけ立派なもふもふであろうとも、それはそれ。
これはこれ、なのです。
その点を突いてみれば、全くもって考えていなかったのでしょう、子狸がはっとした顔をして、人の姿になりました。
着ているのはいつもの可愛らしいお仕着せ。
当然、冬仕様ではありません。ネリは愕然とした顔で領主様を見上げました。
「冬毛がなくなったのです!」
「いつもだろう」
「そうでした!」
人が着替える以上の気軽さで狸になったり人になったりしている子狸ですが、人になるとき必ず洋服を着ています。おそらく狸の毛皮替わりなのでしょう。
けれども、流石に衣替えの対応まではしてくれません。
まあ、人になる度、すっぽんぽんにならないだけで十分有難いことですから、そんな高望みはしませんけれど。
人間にはちゃんと衣替えという習慣があるのですからね。
さて、その日のうちに、ネリは外套いらないとは言わなくなりました。
切っ掛けは単純。従者が、窓を全開にするという強硬手段に出たのです。
冬装備なしでは生きていけないと悟った子狸が陥落するのはあっという間でした。
愛ある厳しさで子狸を諭す従者。
彼を見て、屋敷の使用人たちは、皆一様にして思いました。
そこに、『母狸』がいる、と。