執念
「過去に誰かにひどいことをしたことはありませんか」
占い師にそういわれ、考えるまでもなく康雄は即答した。
「ありません」
「おもしろ半分に何かを殺めたことは」
「ありません。……子供のころに虫を殺してしまったことならあるかもしれません」
しっくりしないように、占い師が何度も首をひねる。
「はっきりいって、私にもよくわからないのです。ですが、あなたが何かにとり憑かれていて、それがあなたの運命と深い関わりをもっていることは確かです」
少し前から、康雄は自分の身に起きた異変を感じ取っていた。
常に体がだるく、力が入らず、目の前がぼんやりとしたり、幻のようなものが見えたりする。
医者に診てもらっても、診断の結果は異常なしだった。
何かがわかるかもしれないと知人から紹介されたのが、目の前にいる高名な占い師だった。
占い師は康雄の顔を見るなり、即座に死相が出ていることを指摘した。
近づきつつある死期のあらわれかもしれないともいわれ、怖くてたまらなくなった。
病気でないとすれば、事故にまきこまれて死ぬのか。
何がどうしてどうなるというのか。
意味のない自問自答を繰り返す。
「かなり強い意志をもっています。あなたに相当の恨み……、思い入れがあるのでしょうね」
そして占い師はしめくくった。
「あなたがそれを思い出すことが、その何かの供養になるのかもしれません……」
帰りの道中、占い師の言葉がずっと康雄の頭からはなれなかった。
今にも雪が降り出しそうな曇天の空の下、かすかな気配を感じ取り振り返る。
小さな影のようなものが、視界の片隅で動いたような気がしたからだ。
(またか……)
深く息を吐き出し、吹きぬける木枯らしに身をぶるっと震わせた。
いつの間にか雪がちらつき始めていた。
数年前、子供のころに住んでいた今の町にまた引っ越してきたのだが、そのあたりから妙な気配を感じるようになっていた。
ずっと何かに後をつけられているような気がしていたのである。
身体の不調を訴えるようになったのも、ちょうどそのころからだった。
あるいは、それこそが自分に取り憑いた何かなのではと思い始める。
何らかの理由で恨みを持ち、取り殺そうと機会をうかがっている忌まわしいものかもしれない、と。
それがいったい何なのかは見当もつかない。
どうすればいいかわからぬまま、不安と畏怖だけが雪のように積み重なっていった。
その時、目の前を子供用のボールが転がっていくのが見えた。
それから、ボールの後を追いかける小さな女の子の背中を、康雄はぼんやりと眺めていた。
ブオオオッ!
大型車両のエンジン音が急激に近づきつつある。
『あ、危ない!』
そう思うと同時に、無意識のうちに康雄は走り出していた。
女の子を押しのけ、まだ車とは充分な距離があることを確認した後、逃げようとしたら足が動かなかった。
頭が考えるよりも、残された時間ははるかに短かったのだ。
ああ、俺は死ぬんだな……
ゆるやかに流れる意識の中で康雄はそう思った。
「……」
ふいにおとずれた静粛に振り返ると、車両が目の前で停止していた。
急制動が間に合う距離ではない。それは凍りついたように目を見開くドライバーの顔を見ればわかる。
白い雪のかけらが、浮遊したまま静止していた。
時間が止まっていたのだ。
「!」
一人の青年が康雄を見つめていることに気づく。
すべてが動きを止めたその空間で、彼と康雄の思考だけが活動していた。
康雄は瞬時に理解した。
黒い衣服を身にまとった彼が、死後の世界からの使いであることを。
しかし、すでに覚悟を決めた康雄の顔を懐かしそうに眺め、青年は意外なことを口にしたのだった。
「私のことを覚えていますか」
康雄がゆっくりと首を振る。
すると青年が少しだけ淋しそうに笑った。
「無理もありませんね。もう十年以上も前のことですから。もっと早くあなたに会いたかった。せめて一度だけでも。でもそれはできなかったのです」
康雄はずっと青年の顔に注目していた。
初めて見る顔なのに、どこか見覚えがあるような気がしていたからである。
しかし、いくら記憶をたどっても、どうしても思い出すことができなかった。
とまどいを隠せずにいる康雄に、ふっと笑って青年が手を差し出した。
「私がかわりましょう」
「え」
「さあ、早くそこからはなれて」
「何をいっているんですか。どうしてあなたがかわってくれるというのですか」
「そのために、これまで死に切れずに待っていたからです」
彼の言葉の意味がわからず、ぼうぜんとその顔を見続けることしかできなかった。
そんな康雄の気持ちを察してか、青年は穏やかに笑いながら続けた。
「あなたが若くしてこの世から去らなければならないことを、私は知っていた。私の寿命があなたよりさらに短かいことも承知していました。それでも、どうしてもあなたを助けたかった。守りたかった。だから、あなたがこの町からいなくなってからも、ずっとあなたのことを探し続けてきたのです。一時は見失ってしまいましたが、またここに帰ってきてくれたことで、なんとか見つけ出すことができました。そしてついに今日、その願いを果たすことができます。ようやくあなたに、恩を返せる」
「何をいっているんですか。わからない。僕があなたに何をしたというのですか。どうしてなのですか。わかりません。僕は何もしていない。あなたにかわってもらう理由は何もない」
「あなたが思い出せなくても、私の気持ちは変わりません。ずっと前から、そう心に決めていましたから」
気がつくと康雄は、青年がいたはずの場所に立っていた。
そして、車の前に立ちつくす彼を、身動きもできぬまま見守っていた。
「どうして。何故です。あなたは誰なんですか」
「あなたはまるでかわっていない。昔のままですね。私を助けてくれた、少年のころのままです」
「あなたを、助けた……」
「さようなら」
「あっ!」
青年は目を細め、にっこりと康雄に笑いかけた。
「よかった。最期に、またあなたと会うことができて……」
ブオォォォーン!
路上の雪を巻き散らしながら勢いよく車両が通り過ぎていくのを、康雄はぼんやりと眺めていた。
意識が覚醒し、それが一瞬の白日夢だったことに気づく。
「いっちゃったよ」
振り返ると、ボールを抱きしめた女の子が寒そうに母親の顔を見上げていた。
「そうね。ひどいクルマね」
「ネコさん、かわいそう……」
女の子の目線の先に、康雄が顔を向ける。
道路の隅に一匹の黒猫が横たわっていた。
薄汚れやせ細ったそれは、おそらくはもう、手の施しようがない状態だった。
まばたきすら忘れ、康雄の心がその姿に釘づけとなる。
それは記憶の片隅に見つけた遠い日の想い出に、あまりにも似ていたからだ。
子供のころ、一度だけ猫を飼ったことがある。
今日のような雪がちらつく冬の寒い日に、川で溺れて死にかけていた子猫を拾いあげ、康雄は懸命に介抱した。
その甲斐あって幸いにも子猫は一命をとりとめ、クロと名づけて家で飼うようになった。
よくなつき可愛がっていたのだが、やがて死期が近づいたせいか、クロは康雄のもとから姿を消した。
もう十年以上も前のことである。
大人になるにつれ、しだいに康雄もクロの存在を忘れていった。
当時を思い返すと、自然と涙があふれ出てきた。
とまどいつつも猫に歩み寄り、康雄がその顔をのぞきこむ。
舞い落ちる雪がすべてを覆い隠そうとしていたため、それがクロなのかどうかはわからなかった。
しかし猫を見る康雄の表情は、少年のころのままだった。
声にならない想いがこぼれる。
涙が止まらなかった。
猫は目も開けずに、それでも康雄がそばに来たのがわかったのか、綿のような白雪に抱かれながら小さくニャアと鳴いた。
しごく満足そうな顔だった。
了
かなり昔に書いたものを手直ししています。