プロローグ
ある作家は言った。
未だ遂げられぬ恋の物語に語る価値あれど、成就した恋愛を語ることは無価値なり、と。
なるほど、一理ある。
私達人間は男女問わず、他人の恋愛物語を好む。それは平安時代に書かれた源氏物語――いや、誰が書いたかも知れぬ竹取物語の時代から続く、人類不変の救いようのない性である。
創作、現実問わず、人々はそこに恋の臭いを嗅ぎつければ、根ほり葉ほりしその恋路を丸裸にするであろう。
さて、恋愛物語にはゴールがある。それは想い人に、秘めたる熱烈な感情を伝えることだ。もしくは、想い人と通じ合い、人生を共にすると誓うことでもよい。もちろん、悲恋に終わる物語もそれ相応にある。ハーレム物などというものは、登場人物ごとそれぞれに、様々な結末が用意されている。
しかし、恋愛物語において、終わり方というのは大して問題ではない。人がそれを好むのは、その過程が――恋路そのものが面白いからだ。
登場人物がどうして相手を想うようになったか。
どのように悶々としたか。
どのようなすれ違いがあったか。
そして――どうして想いを告げるに至ったか。人はこれに注目し、そして物語の終わりにおいてカタルシスを感じることを欲する。
そしてこの観点からすれば、成就した恋愛を語るのに意味などない。他人の不幸は蜜の味と言う。ならば幸福は毒だ。世間で惚気話が忌み嫌われるように、成就した恋愛のエピローグを、誰が聞きたがろうか。
だが待て、しばし。
確かに昨今の恋愛物語では、告白し、受け入れられるというのが流行りである。そしてエピローグでは大抵、その後も順調に付き合っていたり、はては破廉恥なことをして、子供をこさえている姿が描かれている。あな妬ましや。
失礼。話がそれた。
私はここで、提起したい。恋愛のゴールとは果たして、「両想いになる」で正解であろうか。
上記で言うエピローグ――そこには大抵、成就した後に「何の問題」もなかった場合のみしか、描かれていないだろうか。
幸せでしかない物語に、語る意味などない。そんな下らない物を聞きたがる者は、よほど幸福に飢えているのだろう。手遅れになる前に、全てを放り出して自身の幸せを探しに行くべきだ。
恋愛の成就というものは、確かに幸せなものだ。だが、成就後の恋愛は、必ずしも幸せだけで構成されていない。幸せだけであるなら、破局という言葉はこの世に存在しない。
私は提起する。恋愛とは、成就した後がスタートであると。
「好きだよ」「私もよ」と愛を交わし、3ヵ月後には「何か違った」と別れてしまっては、それまでの苦労が全く報われない。
何?
すぐに別の恋人ができるから問題ない?
そんなことをのたまった輩には、ここにある私の彼女の手作り弁当をあげよう。是非家で完食して頂きたい。
失礼。話がそれた。
ここまでうだうだと語ったが、これから語られるのは成就した恋愛――その後のお話である。主人公はこの私と、後輩である彼女だ。
自慢になるが、私の彼女は素晴らしい。その容姿は、抱きしめたいほどに可愛らしい。学力は高く、私が必死になって入った大学にも余裕で合格した。さらに、幼いころから空手を習っており、邪な気持ちで彼女に近づこうものなら、即座に天へと召されるであろう。
再度言おう。私の彼女は素晴らしい――ただ一点だけを除いては。何が問題かは、ここでは言わない。それは物語を語る上で明かになるだろう。すぐにでも知りたい方は、彼女と私の初デートに関する手記を読んでくるとよい。
もう一度言おう。恋愛とは成就した後が本当の始まりである。ほのかに感じていた熱を告白しあった後、永遠に冷めることのない熱い炎へと変えるまでが、恋愛である。
そしてこれは、私と彼女が、その熱を確かなものへ変えるまでの物語である。