第4話 全裸道
紗綾は紫苑学園全裸道部といったが、そんな明らかに非合法な部活が公然と存在するわけはない。もちろん非認可の地下部活動なのである。だからアジト=部室も学校の中にあるわけにはいかない。
紗綾に連れられるままやってきたのは中央駅前のアーケード商店街である。さすがに夕方だけあり賑わっていた。見回すとドラッグストアや居酒屋、大型電気店、メンタルクリニックなどがある。このメンタルクリニックにこの露出狂を放り込んでやろうかと裕樹は一瞬思った。露出癖はICD-10にも記載された立派な病気である。こいつには警察もそうだが医療の介入も必要だろう。
そんなことを思っていると、紗綾は角を曲がった。そして商店街から細い路地へと一本入ったところに、その店はあった。
それは、おんぼろな、のれんも半分破れた中華料理屋であった。かすれた文字で「営業中」と書かれている。
中に入る。中年くらいの店主が一人いた。それだけで、二人のほかに客はいなかった。
紗綾はカウンターに座った。
「マスター、いつもの」
彼女はそう言った。店主は、何も言わずに棚から透明な液体の入ったボトルを出すと、それをショットグラスに注いで、彼女に出した。
「ちょ、ちょっと。それは」裕樹は驚いて言った。しかし紗綾は気にする素振りもない。
「安心して。ノンアルコール白酒よ」
彼女はそういって、中身をくいっと飲み干した。
「ふ~、これよね! 五臓六腑に染み渡るわ」
上機嫌に彼女は言う。心なしか顔が紅潮してきているように見える。制服と相まって明らかに見た目はよろしくない。完全なる非行である。
「本当にノンアルコール?」
「もちろんよ。マスター、再一杯!」彼女はショットグラスを差し出す。それに再びノンアルコール白酒が注がれた。
「で、あなたはどうするの? 何を飲む? 食べる?」
「ええと、僕は……」裕樹はやや困ったように言った「どうしようかな、じゃあ、油淋鶏定食を……」
「飲み物はもちろん白酒でいいわね。油淋鶏、それから白酒一杯!」
「ちょ、ちょっと」
裕樹は抗弁しようとしたがそんな間もなく彼の目の前にグラスに入ったノンアルコール白酒が置かれた。
「さあ、門出の祝よ。くいっといっちゃって、くいっと」
「ええっ」
裕樹は固辞しようかと思ったが、紗綾がじーっとみつめて来るので、仕方無しに口に含んだ。
そしてむせた。
「ゲホゲホゲホ! なんだこれは!」
「美味しいでしょ?」
「どこが、洗剤みたいな味がするぞ」
「どこが洗剤よ。というか洗剤の味なんて知らないでしょ」
「そりゃしっ……いや知らないけど、でもそんな感じだよ」
なお丹波裕樹は洗剤を口に含んだことがある。これには理由があるが、別にいじめられていたなどというわけではない。一部の声優オタクの内で声優愛用のシャンプーを文字通り味わうことが流行したとき、「女の子の匂いはシャンプーや石鹸もあるがきっとその可愛い服を洗う洗剤の影響あるに違いない」と考えて女性用下着を洗うための洗剤を口に含んだことがあるのである。結果として得るものより失う健康が多いだろうと判断されたのでやめることにした。これは彼一人の秘密である。
「それよりだよ」裕樹は紗綾の耳元に顔を近づけて言った「アジト、っていうのはここなの?」
「ええ、そうね」彼女は言った。「私達の活動の話をしましょう。でも、その前に……」
ちょうどその時彼女の目の前にレバニラ炒めが運ばれてきた。彼女はいつも日替わりを頼んでおり、黙っていても日替わりが出てくるのである。
「食事をしましょう。お腹が空いていると、いい話し合いもできないしね」
食事が終わって、その後白酒をもう一杯無理やり飲まされたあと、裕樹は店の二階に通された。
店の二階は外からは「テナント募集中」という張り紙が見えるが、中は小さな会議室や倉庫になっていた。その会議室の一つに、紗綾は裕樹を連れて入る。
紗綾が部屋のドアの鍵を閉めた。
「えっ」裕樹は思わず振り向いた。
「念の為よ。ここがアジトだしね」
「いや、店の主人は……」
「もちろん知っているわ。安心して。彼は県の全裸道連盟の理事よ」
残念ながらなにも安心できる要素はなかった。すなわち変態のお仲間ということである。というかそれ以前に気になることがある。
「ねえ、今更なんだけど聞いてもいいかな」裕樹はおずおずと尋ねた。
「ええ、もちろんよ」
「全裸道って、なに?」
「え?」紗綾はキョトンとして返した「知らないの? 全裸道、だよ」
「そんなあたかも知ってて当たり前みたいな言い方やめて」
「だって、あの、全裸道だよ」
「知るわけ無いだろう、そんな変なもの!」
「はあ」紗綾はため息を付いた「仕方ないわね、あなたも全裸道に入門したからには、無知ではいられないわね。今から話すわ」
そう言うと、彼女は部屋の本棚から一冊の本を取り出し、それを広げながら説明し始めたのである。
全裸道――この歴史は19世紀末のドイツに遡る。
当時ヨーロッパを震源地として全世界を覆わんとしていた近代科学文明と合理主義に反発する形で、禁酒や菜食主義といった自然回帰が叫ばれるようになった。裸体主義もそのひとつである。すなわち人工的な装いである衣服を捨てて、地位も立場も捨てた一人の人間として大地と向き合い、そして自然のパワーを吸収するのである。
この運動ははじめドイツから広まった。全裸主義――ドイツ語でFreikörperkultur(FFK)と称するこの運動はナチス政権も生き延び、戦後東ドイツで花開くこととなる。平等を唱える社会主義と、衣服を脱ぎ捨てれば皆平等と主張したFFKは相性が良かったのである。キリスト教の影響が強く保守的であった西側と違い、東側ではFFKは市民権を獲得し、ヌーディストの一団がホーネッカーの前をパレードするに至ったのである。
そんな全裸主義が日本に本格的に流入したのは、戦後のことであった。
日本もかつては裸体に対して羞恥心を抱いていなかった。幕末期に訪日した外国知識人が日本の銭湯の混浴や軒先での行水について驚きをもって記述しているのは周知のとおりである。
だがやがてやってきた明治維新がすべてを変えた。
維新政府は裸体を非文明的なものとして否定した。そして混浴も一部を除いて禁止され、また屋外での裸体の露出は厳罰をもってのぞまれることとなる。
そして敗戦後、GHQの統治後、裸体主義はついに日本に上陸する。東欧を経て、社会主義運動の一部として。
我が国の裸体主義者が賢明であったのは、早々に暴力的な左翼運動と袂を分かったことである。権力との暴力的衝突を好まず、また70年代に流入したヒッピー文化とも距離をおいて地下に潜伏した我が国独自の裸体運動は、やがてひとつの果実を産み落とした。
それが「全裸道」である。
そのものの思想は裸体主義の着想と似てはいるが、やや異なる。全裸となることで初めて世間のしがらみから逃れ、自分自身と向き合うことができると考えたのである。そして道場は大自然そのものであり、屋外で自分自身をさらけ出すことで、梵我一如の境地を得ることも叶うと考えられたのだ。
それが、伝統的な「全裸道」であった。
「わかった? これが、全裸道成立の歴史よ」
彼女はそうやって今開いた本『民○書房刊 全裸道秘史』の図説を見せてくる。そこには年表が書かれていた。
「そうやって全裸道が成立したのが1990年代よ」
「ふーん、なるほどね」裕樹は無理やり納得する。したことにした。
しかし今の説明では大きな疑問が残る。
「でも、それは公園で露出する理由付けにはならないんじゃないか。公共の場で裸になるのは犯罪だよ。屋外で裸になりたいのなら、私有地を使うとか、道はあるんじゃないか?」
「そこなのよ。それこそ、私達がぶちあたった問題だったの」
紗綾はびしっと人差し指をのばして言った。
「本来であればどこでもかしこでも自分本来の姿をさらけ出すべきよ。残念ながら、アリストテレスが看破したように、私達は社会的動物(zoon politikon)よ。ひとりの人間として存在し、かつ社会との関わりを保つ。私達にとっては一人の人間であるということは、すなわち、裸でいるという意味。すなわち公共の場で裸になることは、私達はこの本来の姿で社会に参加する、何ら恥ずべきところはない、と高らかに宣言するの!」
まったくもって支離滅裂な論理である。頭がどこかに行ってしまって尻だけが残っているような論理である。
「そして全裸道は変貌したわ。再び権力に対抗して、人間の尊厳をかけた戦いを行うことになったわけ」
念の為申し添えておくが、ここで言う「人間の尊厳」とは全裸でいる自由のことである。衣服を着用している状態という一般的な意味とは異なる。
「それが、露出だと言いたいわけ?」
「そうよ。公共の場で露出する。そしてこの社会運動は思いがけず全裸道のスポーツ化をもたらしたの」
裕樹はそろそろ頭がくらくらしてきた。自分自身の常識のほうがおかしいんじゃないかと思えるほどであった。
「そして設立されたのが日本全裸道連盟。ここ、紫苑学園高校全裸道部アジトも、連盟の支部のひとつ。部員は私一人だったのだけれど、これからはいっしょに露出の道を極めていきましょう。よろしく、丹波君」
彼女はそう言って手を差し出す。もはや意味不明な言葉の畳み掛けで正気を失いそうになっていた裕樹はその手を握り返すしかなかった。
紗綾はにっこりと笑った。全裸道部が、名実ともに活動を始めた瞬間であった。
ノンアルコール芋焼酎(焼酎とは?)があるのでノンアルコール白酒があってもいいかもしれません。
露出症のICD10コードはF65.2です。