第2話 学園
翌日、丹波裕樹は憂鬱であった。学校があるからではない。昨日のことを思い出していたのだ。
昨日自分は変態痴女に遭遇した。それはまだいい。それについては僕は被害者だ。
だがどうだ、その女が落としていったと思われるフラッシュメモリーを拾い上げ、そして中身の予測が十分できたにもかかわらず、警察にも届けず、自分の家に持ち帰った――あまつさえ、それを使用してしまうとは!
おかげで授業内容もほとんど頭に入らなかった。念のためにセキルティーソフトを導入しフラッシュメモリーにはパスワードをかけてきたが、あんなものが手元にあるのでは落ち着くわけがない。
ふと横で女子たちが会話をしているのが聞こえた。
「ねえ、石見さん、このあとクラスの親睦を深めるために、カラオケに行くんだけど、行かない?」
まだ入学式から数日とたってはいなかった。オリエンテーションが終わり授業が始まったところである。まだクラスの人物の顔と名前は一致しない。で、あるから親睦会を開こうと考えたのである。
だが少女の答えは冷淡であった。
「ええと」石見と呼ばれた少女は答えた。「私はパス、ちょっと用事があって……」
「無駄よ、晴海」声をかけた女子生徒が別の女子から言われる「この子、中学の時から、ノリ悪いから」
「ええと、そういうつもりではないのだけれど……」石見は言った。
「まあいいわ、また今度ね」
二人の少女は石見から離れていった。
丹波裕樹は彼女の方をふと見た。彼女の席は窓側にあった。
石見は荷物をまとめて立ち上がろうとしていた。彼女もまた丹波裕樹と同じ町の出身であった。しかし中学校は違ったため面識はない。
彼女の黒いストレートの髪は背中の中ほどまであった。眼鏡をかけていて、落ち着いている素振りとあわせて理知的に見える。背は160センチほどで、スカートは膝程度、ワイシャツも第一ボタンを締めた、模範的な女子生徒であった。
お堅そうだな、きっと用事も習い事か何かなんだろうか、そう思いながらぼーっと彼女の方を見つめていた。
視線に気づいたのか、ふと石見がこちらを向いた。
彼女の顔は、たちまち驚愕に変わった。目を見開いている。
そして次には顔を真っ赤にしたかと思うと、駆けるように教室から出ていったのである。
丹波祐樹は何が起こったかわからず唖然としていた。周囲がややざわついた。
「よう、裕樹、何かしたのか? あの娘に」
話しかけてきたのは岡田――彼の中学からの同級生だった。いわゆる悪友というやつかもしれない。
「いや、何も」裕樹は答えた「会話もしたことないし」
「ふーん、するとあれは、俺が思うに」岡田はもったいぶるように言った「一目ぼれだ」
「はぁ?」裕樹は言った「あんな一目ぼれがあるか。しかも一目散に逃げていったぞ」
「それはきっと恥ずかしいんだろう。明日朝にはラブレターが下駄箱に届いているぞ」
「絶対違うと思うけどな」裕樹は言った。
「ところで、だ」岡田は言った「お前は行くの? カラオケ」
「僕はパスするよ、そういうところ苦手だし。そもそも歌が上手くない」
「やっぱりそう言うと思った」岡田は言った「そういうところだぞ、だから友達増えないんだ」
「ほっとけ」
こうして丹波裕樹はカラオケの誘いを断ったわけであるが、しかし、それはカラオケが苦手であるからだけではない。昨日のフラッシュメモリーのことが気がかりで、それどころではなかったのだ。
「あら、丹波さん、おこしにならないのね」
上品な声がした。顔を上げると、美人が立っている。軽くウェーブのかかった髪に、極めて整った顔立ち。背は同性と比較してもやや高い方であった。
「山城委員長……」裕樹は言った。
山城花音。つい先日、この紫苑学園高等学校1年B組の学級委員長に選ばれた少女である。父親は警視庁に勤めたエリート官僚で、現在は県警本部長となっていた。入学時すでにしてその存在は有名であり、1年生にして次期生徒会長候補と言われている。
「山城さん、でいいわ」花音は言った。「みんなで親交を深める良い機会だと思うのだけれど」
「いえ、ちょっと、本当に申し訳ないんですが、今回はちょっと」裕樹はできるだけ慇懃に断る。彼女には中学の時から一緒の取り巻きがいて、それが親衛隊を名乗っているという噂があったからである。彼女に嫌われたりするのは避けたかった。
「あら、残念です」そして彼女は岡田の方を見た「あなたは?」
「俺はもちろん行きますとも!」岡田は力強く答えた。そして席を立つ。
「じゃあな、裕樹」彼は言った「俺は行ってくるから」
「楽しんできてね」裕樹は言うと、カバンの中を整理した。そして学校をあとにしたのである。
紫苑高校があるこの街は近年政令指定都市にも指定された大都会であり、古代は街道の通る交通の要衝、中近世に至っては城下町、そして維新後は県庁所在地として栄えてきた。中央駅には新幹線も停車し、駅前は繁華な賑わいを見せている。
一方で丹波裕樹の住む隣町は各駅停車で3駅の距離である。人口は2万に満たぬ程度であるが、隣の大都市のベッドタウンとして栄えており、合併の話も聞かない。なおそのベッドタウンとしての性格ゆえか町に高校はなく必然として越境進学を余儀なくされる。
裕樹は夕方のラッシュの真っ只中にある中央駅の人混みをかき分けると、電車に乗った。本来ならもう少し学校にとどまって入るべき部活を見定めたり、もしくは新たに日常を過ごすであろう中央駅の駅前を見て回るのもよい。
しかし彼にはもっと大事なことがあった。そう、USBフラッシュメモリーである。
彼は電車を降りると、家までの道を急いだ。いや、正確にはあの公園が目的である。
犯人は現場に戻るという。彼はそう思いながら公園に足を踏み入れた。そして置かれてあったベンチに腰を下ろす。
日はすでに沈んでおり街灯が桜を照らしている。昨日が満開であったのだ、やや葉桜が見え始めていた。
彼は植え込みの方をじっと見つめる。しばらく見つめたあと、はっとした。
(いやいやいや、僕は一体何を期待しているんだ!)
ブンブンと彼は頭を振った。冷静に考えて、流石に自分がいる状況で誰が服を脱ぐだろうか。もし見せつけるのが目的なら、あそこで見ろよ見ろよ~、と迫ってきても良いはずである。
しかし彼女は逃げた。しかも狼狽するように。
それに、もし彼女に出会ってどうするつもりだ。フラッシュメモリーを返すのだろうか。いや、あれは家に置きっぱなしだ。
では彼女の裸をもっと見たいのだろうか。あの写真だけでは満足できない、本物を眺めたいのだろうか。
(いや、それこそ変態じゃないか。彼女と同じように!)
丹波裕樹はすっと立ち上がった。自分は変態なんかではないと言い聞かせるように、また頭を振った。
そして彼は公園をあとにした。やや早足で、後ろへと引っ張るなにかを振り切ろうとしているかのようであった。