黒い烏が鳴いたとき
「なるほど、人気者とは言いがたい御仁だ」
こうやって他人を追い詰めていたのだとしたら、翠玉が冷淡だったのも分かる。しかし裕福だった余暉に、これ以上金が必要だったのか。天霧はふと考えた。
金ではなく、求めていたのは忠誠だったのかもしれない。船団で一度成功を収めれば、余暉は次を期待する。しかし船主ほど膨大な利益を得られない乗組員たちの中には、危険な船旅に尻込みするものもいるはずだ。それを我慢させて確実な基盤が欲しければ、荒っぽい手段になるのもやむを得ない──
「天霧様?」
声をかけられて、天霧は我に返った。細工を握って考えているうちに、枸橘が帰ってきている。
「ああ、戻ったか」
「遅くなりました」
「よくぼーっとする男だなあ」
「考え事をしてらっしゃるのです。あなたの頭にはついていない能力でしょうけど」
枸橘が尋唯に皮肉を述べる。尋唯は泣きそうな顔になった。
「女。俺はお前を、なかなか悪くないと思ってげう゛っ」
「懲りない人ですね。今のは鳩尾だからなかなか痛いでしょう」
「拳はご褒美です……」
「枸橘。いらんやり取りは飛ばして報告を」
枸橘が尋唯を殴り殺す前に、天霧は止めた。
「医者から症状の経過と、施した処置を聞いてきました。特に怪しいところはありません。入った時にはほとんど死にかけていて、呼吸を楽にさせようとしてもすぐに亡くなってしまったそうです」
「そうか……他に進展は?」
「翠玉様に手伝っていただき、ここに来てから余暉さまと関わりがあった者を港の宿に集めてあります。調合師、護衛役、あとは遊女」
「遊女まではよくないか?」
余暉はこの港に着いたばかりである。殺しに発展するほど、深い仲になった遊女がいるとは思えなかった。しかし枸橘は首を横に振る。
「通常はそうでしょうが、彼女が気になることを聞いたというので」
「では、全員に会ってみようか」
「どの順でなさいます? 遊女だけは、早く店に帰りたがっていますけど」
確かに、彼女は客を引くための準備がいる。要望を聞いてもいいだろう。
「では彼女から呼んでくれ。あと、泰楊と尋唯は部屋から出るように」
「えええー」
「仕方無いですよ、僕たちは官吏じゃないんだから。鶴の一声には従いましょ」
もちろん子供じみた声をあげているのは尋唯で、抑えているのが泰楊である。大人ってなんだろうなと天霧は悲しくなった。
天霧が哲学じみた問いを頭に浮かべたところで、ようやく二人が出て行った。それと入れ替わりに、色白な女性が入ってくる。
着物も紅も派手だが、引き込まれるような深みや艶がない。あまり格の高い遊女ではなさそうだ。彼女はしゃなりしゃなりと、足を引きずるように歩く。その方が庇護欲をそそるからだろう。
「いいから普通に歩いてくれ」
天霧はもたもたした動きが嫌いだった。眉間に皺を寄せつつも、遊女は言われた通りに天霧に寄ってくる。彼女が頬杖をついた色っぽい仕草で座ってから、天霧は質問を投げかけた。
「余暉様とはどこでお知り合いに?」
「窓から客を引いてたらね、声をかけられたのさ」
「昨日? 一昨日?」
「昨日だよ。相当羽振りが良さそうだったから、落とすためにさんざん愛想良くしてやったのに」
そこで遊女は悔しそうに顔を歪める。
「他の娘にとられたか」
「それならまだ諦めもつくさ。──なにせ、相手は男だからね」
遊女の目が、恨めしげに光った。
「男娼もいるのか」
「そっちは専用の店がある。あの男、妾に店主は誰かと聞くのさ。そして教えたら、じいっと遠くから店主を見つめてる。気持ち悪い」
「美形の店主なのか?」
「油ぎった爺さ。あんなののどこがいいのかねえ」
遊女はおどけてみせる。
「客として顔を覚えさせたかった、とか」
「はん、それは無理さ。奴は船乗りなんだろう?」
遊女は鼻で笑う。天霧も自説を速やかに撤回した。
なんせ余暉は一時的に来ているだけで、通い続けることはできない。湯水のように金を使えば別だが、そんなことをしていたら次に船を出す金がなくなってしまう。
「それに、あの男は店主に話しかけもしなかったよ。ただ、離れたところから見てただけ」
「妙だな」
「そんで立ち去るときにぼそっと独り言を言ったのさ、黒い烏に見えないものはないって」
天霧はそれを聞いた瞬間、全身が強ばるのを感じた。書き付けをしていた手が震えないよう、意思の力でなんとか止める。やはり、ここにいたのか。
明らかに苦々しい表情になっていたのだろう、遊女が上目遣いで天霧の顔を見る。
「……どうしちまったのさ」
「いや、小さい頃から烏が大嫌いでな」
「そうかい」
遊女も本気にしたわけではない。彼女とて客商売の人間だ、相手の顔色を読む術を身につけている。触れてはならない話題だ、と悟ったのだろう。それ以上つっこんでこなかった。
「その後、余暉はすぐに帰ったんですか」
「ああ。まるで気抜けしちまって、あたしはいないかのような扱いだったさ。全く、気にくわない男だよ」
「分かった。帰って結構」
天霧が許可を出すと、来た時とうってかわって、遊女は小走りで扉の向こうに消えていく。しなだれかかる価値のない男だと思われたようだ。その予測は正しい。見ず知らずの女性と話してどうして楽しく思うのか、きっと一生天霧にはわからないだろうから。
天霧が次を呼ぶと、ナマズのような顔をした男が入ってきた。顔が無理矢理横に引っ張られたようで、円と言うより楕円に近い。そして珠のように丸くて大きい目が中央についていた。一旦見たら、なかなか忘れられない顔だ。
男は一礼してから、天霧の前に正座する。
「名前は……」
「調合師の伊吹と申します。主は死んでも、他の方の薬を用意せねばならないので先にしてもらいました」
伊吹は話す間も、ひどくすまなそうにする。順番を譲ってもらったのを気に病んでいるようだ。
「腕が良いから忙しいんだな」
「私は結局、主の命を守ることはできませんでしたが……」
「今、それについて調べているところだ。もしかしたら、毒が原因かもしれない。お話を聞いてから、判断させてもらう」
天霧が釘を刺す。伊吹はもごもごと口内で何かつぶやきながら、背筋を伸ばした。
「余暉にはどんな薬を?」
「元が丈夫な方ですから、そうたくさんお渡しはしていません。熱発と、足がつった時の薬くらいです」
そう言いながら、伊吹は懐から書き付けを取り出した。
「杏仁、桂皮、麻黄、甘草、芍薬……確かに、ありふれた物ばかりだな」
天霧が見た薬の中身とも一致する。ここに書いてある方法と量で作ったのなら、毒にはならない。
「いつもと内容を変えたりは?」