追いついた手
「はっ!」
気合いと共に、女の腕が動いた。見えない。まるで動きが分からない。投げられると分かった時には、もう遅い。両足が宙に浮いていた。一拍遅れて、衝撃がやってくる。
背中をしたたかに打って、月下はうめいた。この速さだけなら、白い烏の中で筆頭となる石蕗にも負けない。わずかに開いた目の中に、満足そうに微笑む女が映っていて──それが妙に癪だった。
「捕縛!」
ここで護衛たちがやってきた。高らかなかけ声と共に、月下の両手に枷がかけられる。女に名残を惜しむ暇も無く、動きを封じられてしまった。
しくった。月下は内心でそうつぶやいた。しかし、それを表に出すようなことはしない。大丈夫だ。自分が白い烏の一員だという証拠はない。
ここに来た時から、言い訳はいくつも考えてある。慌ただしく動き回る官吏たちを、月下は悠然と見守っていた。
「やっと姿を見せたか。お前は誰だ?」
奥の間から、長身の男がやってきた。黒衣に、神経質そうな細面の顔。すでにこの男の正体を知っている月下は、迷うことなく涼しい顔でこう切り返す。
「天霧様、私めは灰廉様にお仕えしている、緑柱と申します」
礼儀正しい答えが予想外だったのか、出迎えた天霧はわずかに顔をしかめた。月下があげた名前は、架空のものではない。実際に勤務している高官の名だ。
「灰廉様か……」
「確かめていただければ、すぐに分かるかと」
調べられても問題ない。緑柱という官吏は実在するからだ。月下は彼に変装している上、本人を連絡が取れないところに押し込めてある。
「どのような用件でここに?」
「灰廉様は栄養学に力を入れておいでで。病人回復の助けになれば、とおっしゃっておいででした。それで、私がここへ」
これも本当のことだ。灰廉にもすでに手を回してあった。彼はなんの疑いもなく、天霧の要請に応じて部下が動いただけだと信じている。
「ふうん」
男は、顎に手を当てて何やら考えている。諦めた様子がないのは気にくわないが、攻め手はもうないはずだ。あとはのらりくらりとごまかして、この場を離れる。
そうすれば、また機会はやってくる。後は普通に官吏として接近し、公式に証言される前に生存者の口を封じてしまえばいいのだ。
「気持ちは嬉しいが、連絡くらいよこすのが筋だろう」
「申し訳ございません」
「次から気をつけるように」
「はっ」
月下は平伏した。しかし、内心では天霧に向かって舌を出している。そろそろ枷をとってもらえるだろうから、逃げ出す準備をしないと。
顔を上げ、相手の機嫌をうかがう。しかし天霧は男は両手を組み、仁王立ちの体勢だ。枷の鍵を出す気配がない。
ずいぶんもったいぶる。そう月下が思った、次の瞬間。信じられない光景が、網膜に焼き付いた。今まで組み上げてきたものが、全て崩れ落ちる。
「なんで」
その衝撃で口がもつれる。理性の歯止めを、月下の本能が振り切った。
「なんでお前が、ここにいる!?」
言ってしまってから月下は後悔したが、もう遅かった。
☆☆☆
ついにボロを出した。天霧は目の前の男を見ながらにやつく。上手く中年の官吏に化けていたが、これで終わりだ。
引っかけるつもりで罠を仕掛けたのだが、かかりようがここまで盛大だと、笑いがこみあげてくる。この男、攻めだけに特化していて守りがザルだ。
「おや。どうした? 幽霊でも見たような顔をして」
「なっ……な、何でもっ」
「いやあ、何でもないってことはないだろう。枷をつけた罪人が出歩いているくらいで、どうしてそんなに驚いたのかな」
「元々、こういう性格でして……」
天霧はその苦しい言い訳を聞いて、笑った。
「さっきまではそつなく答えていたじゃないか。えらく変わってしまったな」
下手な芝居だ、と天霧は思う。強がっていても、地金はもろい男なのだ。
──だからこそ、白い烏と一緒には飛べなかったか。身内から切り捨てられた男を見て天霧は嘆息し、先を続ける。
「それだけ衝撃をうけるということは、知っていたのかな。守宮様が生死の境をさまよっているという情報を」
おののく男を見下ろしながら、天霧はほくそ笑んだ。
「しかしおかしいな。そのことは固く口止めされていて、まだごく一部の者しか知らないはずだが」
「それは……」
「もちろん、君の上司である灰廉様にも伝えていない。それなのに、どうやってそのことを知ったのか。答えは、一つしかない」
天霧は芝居じみた仕草で、両手を広げた。
「お前が下手人だからだ。そうだな?」
緑柱もどきは顔を真っ青にしている。部屋にいる全員が、彼を冷たい目で見つめていた。それでも、偽物は残された気力を振り絞って答えた。
「そんなの証拠にならない。言いがかりをつけないでくれ」
「ほう、まだ粘るかね。嘘というのは、時が経つほどボロが出るぞ」
天霧には妙な確信があった。白い烏が彼を群れから切るつもりなら、そろそろ仕掛けてくるはずだ。こちらはその報告を待てばいい。
「天霧様。実は、奇妙なことがありまして」
程なくして、百日紅が天井から下りてきた。寄り添うように佇む彼に、天霧は視線を向ける。
「話せ」
「街外れの小屋で──その男と、全く同じ顔をした者が見つかったと」
「おかしいな。それでは、同じ人間が二人いることになる。物理的にありえないぞ」
「それが、昨今は面白い技術がありましてね。準備しておけば、ほら──」
百日紅は緑柱に近づく。そして一気に、顔の皮を剥ぎ取った。
枸橘が、はっと息をのむ。さっきまでのくたびれた中年男の顔はどこにもなく、若く、鋭い目つきをした青年がそこにいたからだ。