狙うべきもの
月下は夜道を歩いていた。屋台で買った面を脱ぐついでに、自分の変装も脱ぎ捨てる。また素早く顔を変えてから裏路地に入り、早足で歩き続けた。二度とこの通りに戻ってくることはないだろう。目的は達成されたのだ。
守宮は重体、と発表されていた。それが死亡を意味することを、月下は知っている。高官が死ぬと仕事の引き継ぎや公式行事があってばたばたするから、その時間稼ぎをしているだけなのだ。
守宮の容態に関しては、問題ない。薬の効果は確認済みだ。しかし、彼の名誉を守るためには……仕事がまだ残っている。
月下の顔が、怒りで強張った。手でなでつけて、無理矢理それをゆるめる。ここまで動揺してしまうのは、生存者がいるという報告を聞いたからだ、いるはずのない、惨劇の証人。最初はガセだと思ったが、調べるうちに本当だとわかった。
人の口には、戸が立てられぬ。このことが公になれば、守宮たちが隠したがっていたことは全て明るみに出てしまうだろう。仕事はあくまで完璧に──が信条の紫丁が、そうなるのを望むはずがない。
月下は、仮面姿の首領を思い浮かべた。途端に憂鬱になるのが自分でも分かる。優しそうな声とは反対に、あの男は一から十まで細かすぎる。自由や裁量など認めてくれず、ただ依頼人が望む最後のために万全を尽くす。
「殺しが絡んでなきゃ、慈善家そのものだ」
月下にとっては、その完璧さがひどく鬱陶しい。もっと簡潔に、効率的にしていけば、こなせる件数は今の比ではないはずだ。ぼやぼやしているから、黒い烏に出し抜かれる。そう月下が言っても受け入れられず、かえって周囲からは疎まれた。
この件を無事にやりとげれば、御三家はじめ高名な者たちにも月下の名が知れる。そうなれば、紫丁にとってかわれる日も遠くないはずだ。
だからこそ、今回の証人は生かしておくわけにいかない。月下はぐっと顔を持ち上げ、夜空を見た。
証人は、毒殺官たちにとってはかけがえのない存在である。隠された居場所をつきとめられたのは、幸運と言うしかなかった。生存者の命をつなぎとめようと、珍しい治療法に手を出してくれたおかげだ。
点滴。容器に入っている薬剤を、徐々に血中へ投与していく方法。弱った患者にも効果があるが、血管へ針を差し込むため感染の危険が常についてまわる。ゆえに、どこの誰でもできることではない。当然、点滴用の物品を請け負っている商人の数も限られる。
総当たりしてもたかが知れている。その中から、最近になって発注があった取引先を探せばよかった。そして今、月下の手には必要な情報がある。
場所を移される前に、追いつかねばならない。今日、勝負を決める。月下は闇にまぎれて、さらに足を速めた。
☆☆☆
「ん……ここか」
月下は都を離れ、山を越え、国境の近くまでやってきてようやく足を止めた。眼の前にあるのは、大きな宿だ。
しかし華やかな都の建物になれていると、目の前の茅葺き屋根に土壁の家は、広さはあっても地味に感じてしまう。
まあ、田舎の宿ならこんなものか。そう考え直して大きな宿に近づき、玄関の板木を鳴らしてみた。しかし、家の中はしんと静まりかえったままだ。
「……おかしいな」
この規模の宿なら、下働きがたくさんいるのが普通である。まさか、もう勘づかれたか。月下は小さく舌打ちをした。それならここまで来たのは、無駄足だったことになるが──
「はあい? 誰だね、こんな夜中に」
月下が考え事をしている間に、腰の曲がった老婆が目の前に立っていた。小柄で動きが鈍く、明らかに戦闘要員ではない。挨拶すらまともにしない彼女に戸惑いつつ、月下は口を開く。
「お上の使いで来たのですが」
「ああん? すまんが、もうちょっと大きな声で話してくれんかね。年をとると、耳が遠くなってね」
それで板木の音にも、すぐ反応しなかったのか。月下は不安が霧散していくのを感じながら、大声で怒鳴る。
「お上のぉ。使いで参りましたぁ」
「はあはあ」
「大事な薬を、お届けにっ」
「はあ~、まあ奥へどうぞ」
老婆はもたもたと動き出した。今まで走ってきた時間より、このわずかなやりとりでどっと疲れてしまった。月下は力なくうなだれながら、奥へ向かう。
玄関入ってすぐ右側に、茶の間がある。囲炉裏では鉄瓶がぐつぐつ煮えていて、それを囲みながら目つきの鋭い男たちが雑談していた。月下が彼らの近くを通ると、一瞬彼らが落ち着かない雰囲気になる。
男たちは四人。護衛だ。月下は彼らをやり過ごし、大人しく廊下を進み、奥座敷へ向かった。縁側は障子でなく、硝子窓になっている。
庭は薄暗いが、所々灯がともっている。そこにちらちら人影がうつるのを、天霧は確かに見た。思ったより人員が厚い。強行突破しなくてよかった、と月下は胸をなで下ろす。
「こちらでございます~」
老婆は奥の戸を指さすと、それを開けもせずにさっさと立ち去ってしまった。文句を言ってやりたかったが、あの冗長なやり取りをもう一度繰り返すことになる。
月下は嘆息して、障子戸を開けた。その途端、鳥肌が立つ。部屋を走り抜けた殺気を、全身に感じた。
いる。自分と同じ匂いのする人間が、確かに存在する。
黒い髪を結い上げ、灰色の装束をまとった女が一人、手を前に出して構えをとっていた。それだけで達人の域なのだと分かる。女は美しかったが決して油断は出来ない。
ただし、彼女の手に武器はない。背中ごしに、大きな点滴の袋が見えた。押せば行ける、と月下は踏んだ。
護衛が来れば不利になる。月下は一気に彼女に近づき、胸ぐらをつかんだ。相手の体勢を崩そうと、腕に力をこめる。
しかし次の瞬間、女の手刀が月下の右腕に食い込んだ。月下が押せば押すほど、踵が宙に浮いていく。
女が月下の後ろに回り込んだ。その時にはすでに、月下の体が反っている。




