寝首をかかれる
天霧が立ち上がると、紫苑もそれについてきた。
「やあ」
天霧が声をかけると、見張りの官たちはそろってぎこちない礼をした。
「守宮は」
「奥に」
確かに彼らの指さす先には、難しい顔をした守宮が座っている。相変わらず青白い顔をしているが、健康に別状はなさそうだ。
「ああ、良かった」
「あの」
天霧がほっと息をついていると、後ろから声がかかった。
「──まだ、刑は確定していません。ですから、守宮様と」
そう訴える彼らの顔には、悲しみの色がにじみ出ていた。彼らの忠誠に嘘はない、と天霧は判断する。
「ああ、済まなかった。守宮様のご様子で、何か変わったところはあるか」
「食事が合わないのが、お辛いようです」
兵士が一人、そう言って目を伏せた。
「もともと食べられるものが限られている、というのは聞いたが……」
ある程度の配慮はされているが、家にいる時のように無制限というわけにはいかない。多少、合わないものがあるのは我慢してもらうしかなかった。
「獄中ですから……何もかも自由にはなりませんよ」
紫苑がいさめると、兵士たちは一様に悔しそうな顔をした。
「極悪人のような扱いだな」
「現場に立ったこともないくせに」
「子供連れで偉そうだ」
徐々に敵意が場に満ちていく。天霧は方針を変えることにした。
「食事の件については、上に報告しておく」
居心地が悪くなったので、天霧は紫苑を連れて早々に退散した。
☆☆☆
兵に与えられた四人部屋。その中で、一人の男が立ちつくしている。
すでに朝となっており、日の光が男の背中に降り注いでいる。しかし、彼は死ぬ寸前のような強張った表情を崩さない。
「大丈夫……大丈夫」
言葉で自分を必死になだめている。しかし身体は硬直したままで、指の動きもぎこちない。
「あっ」
男の指が滑って、危うく持っていた小瓶を落としかけた。しっかり握り直してから、ふっと息を漏らす。
(危ない。今度やったら、粉々になるかもしれない)
肝心なのは、今からだ。それで、全てが決まる。
後ろめたい気持ちがないと言えば、嘘になる。しかし、これだけが全てを丸く収めるただ一つの方法なのだ。
(もう、戻りたくない。絶対に、戻ってたまるものか)
男は瓶の蓋をあけ、中に入っている粉をじっと見つめた。
☆☆☆
「困ったな」
翌日、身支度をすませた天霧はため息をついた。身内からあんなに反発されると、やりにくい。
「でも、守宮様にとってはいいことですよね。あれだけ思ってもらえれば」
紫苑は大してこたえた様子なく言った。案外、天霧より肝が太いかもしれない。
「それを喜ぶか……」
「あら、アンタ。また会ったわね」
「帯占」
部屋を出ると、この前世話になった魚類学者が廊下にいた。悪い人間ではないのだが、一度ぴしゃりとやられている紫苑が怯える。
「礼を言おうと思ってたのよ。希少種の採取許可がさっさと下りたの、あんたの口添えでしょう? ありがと」
「どういたしまして」
「そっちの子供にも、高い巻物買ってあげたんだって? 気前のいいことするじゃない」
どこから聞きつけたのか、と天霧はつぶやく。しかし、帯占は意に介さなかった。
「魚関係の情報にはうるさいのよ」
「……まあ、魚の絵を描くのは好きだよな」
何気なく話を振った天霧だったが、紫苑は「裏切り者」と言いたげな表情をしている。心底関わりたくないようだ。
「あら、将来有望じゃない。こっちにいらっしゃい」
嫌と言う間も与えず、帯占は天霧たちを部屋に引きずり込んだ。今日は魚の繁殖を行っていないらしく、神経質なことは言われない。
紫苑も実物の魅力には抗えないようで、書物や水槽にくっついて好奇心を満たし始めた。
(子供は素直でいいねえ)
自分にもあんな頃があったかしら、と思いながら天霧は水槽を見つめた。
色とりどりの魚たち、それを守るようにゆったりと揺れる水草──そしてその間に浮かび上がる、ひげ面。
「ぐふっ」
いきなり異質なものを見てしまい、天霧は激しく咳き込んだ。帯占と紫苑も、侵入者に気付いて目をむく。
「探したぞ」
「入るとき、鍵を閉めたはずなのに」
「俺は将軍だぞ。全部の部屋の鍵を持ってる」
「ちっ」
「今の舌打ちは、特別に聞かなかったことにする」
将軍が言っても、帯占は特にありがたがることはなかった。面倒なのが来た、としか思っていないようだ。
「私に何かご用ですか」
ふざけているように見えるが、今の将軍には一時たりとも無駄にできる時間などないはずだ。嫌な予感が、天霧の全身を駆け巡る。
帯占もそれを悟ったのか、紫苑を呼び寄せた。
「よし、外の水槽を見に行こう」
「天霧様は?」
「いいのよ。いらっしゃい」
紫苑は何度もこちらを振り向きながら、部屋を出て行った。
「ああ。困ったことになった」
「囚人に何か?」
「白斑は無事だが、守宮がいきなり変な呼吸をし出してな。今のところ意識不明──ということになってる」




