女傑登場
天霧は、長雨に言った。
「そんなに改装ばかりなのか」
「はい。父の主義のせいもあって、うちは最近そういう依頼が多いのです」
「主義?」
長雨は、周りをはばかるように咳払いをした。
「父はよく言えば旧習に囚われず、悪く言えば軽薄な人でして」
「流行に乗りやすいわけですか」
「まさに。すぐに考えを変えるのです」
夫婦がうなずいた。
「うちとしては、海外時計には税を余分にかけて、国内の職人を守って欲しかったのです。他の店も同意してくれて、連帯してお役所に訴える動きもあったのですが……義父様の反対で、結局立ち消えになってしまいました」
「しかし、舶来物を全て排除するのも無理な話。大旦那様には、先見の明があるのではないだろうか」
親を悪く言われて、気をよくする者は居ない。天霧は今後のために、少しおべんちゃらを使った。
「そ、そうかな」
「それに引き換え、婿の方はさっぱりだな。注意はしなかったのか? 義理とはいえ、ふた親の言葉には重みがある」
「情けない話ですが、私どもからはあまり強く言えませんで。あの男、振る舞いを変えていたのか、父には妙に受けが良くて」
「当主はあなたでは」
「使用人たちも父を慕うものが多くてね、正直戦うのは得策じゃないんです。私も家内も、娘のことだけなら口出しできても、そこは下手につつけないんですよ」
頭が二つあると、いろいろなところに軋みが生じる。天霧は苦言を呈したくなるのをこらえて、うなずいた。
長雨はそんなことは知らず、悔しそうに言う。
「父も昔は貧しかったと聞いていますから、自分と重ねて見ているのかもしれませんが……」
「私どもももちろん、何もしなかったわけではありません。叱っていただくよう、お願いしたことはあるんです。でも、生返事があっただけで」
桐も、子供のように頬を膨らませて怒る。
「かえって二人でなにやら遊びに出かけたりして、仲が良くなっただけでしたわ。婚儀の手配まで、おん自らなさって」
「あれは昔からの決まりだから、仕方ないじゃないか」
「仕方無くありません。あれは明らかに、私たちへの当てつけです」
「いやお前ね、そんなこと言っても……」
長雨は防戦一方になった。彼は視線をさまよわせた後、助けを求めるように天霧を見つめてくる。
「──協力、感謝する。大体のことは分かったから、近いうちに報告できると思う」
「本当ですか」
天霧は自信をこめてそう言い放った。その冷静な言葉を聞いて、桐が矛を収める。希望が宿る彼らの目を見て、天霧は改めて釘をさす。
「しかしそれは、家にとってまさに劇薬。ゆめゆめ、強い薬と心して受け取るように」
これは決して、誇張ではなかった。
☆☆☆
天霧の乗った車が仕事場に着くと、もう日が暮れていた。それでも待っていたらしい紫苑が駆け寄ってきた。枸橘も横に立っている。
「お待ちしておりました。小屋の検分書が届いております」
天霧にまとわりつく紫苑とは反対に、枸橘は淡々と話をした。
「抜け穴の類いはなく、何か装置があった形跡も見当たりません。ばね付きの針は、忘れた方が良さそうですね」
「ああ。そんなものは必要ないだろうな」
「見当がついたのですね」
天霧がうなずくと、枸橘はようやく笑顔を見せた。
「勉学は進んでいるか?」
天霧は紫苑に声をかける。小間使いの時間は終わり、今は彼自身の学びに使う刻である。彼には、小さいが勉強部屋も与えられているのだ。
訳あって公邸にいる子供は他にも数十人いて、彼らのための学校もある。小さい頃から官吏たちを見てきた彼らは、振る舞いにそつがなく優秀だ。中には、己が官吏になる者もいる。
「はい、今日は絵画をやりました。先生が来て下さって」
紫苑は帳面を広げてみせる。そこには、色絵の具をふんだんに使って描かれた魚が、所狭しと並んでいた。
「洞窟で見た魚か?」
「いいえ。自由に描いていいとおっしゃったので、想像です」
「魚が好きなら、一緒に来るか? 少々変わっているが、海には詳しい御仁に会いにいくのだ」
天霧がこう言うと、紫苑は喜んで後をついてきた。
「入るぞ」
当の人物の部屋までくると、天霧は声をかけると同時に扉を開ける。部屋の中央には、寝心地の良さそうな布団を満載した寝台。それの周りには食べかけの食事や書きかけの書類が放置してあり、枸橘がすぐにため息をついた。天霧は部屋の主の好物が桃の菓子であることを見て取ってから顔を上げる。
荒れ果てた寝台を囲むように、壁際は無数の水槽で溢れていた。大きい物から小さい物まで様々で、どれにも温度計がついている。そこに入っている魚も鮮やかな色彩でよく動く一団あり、逆に壁際からぴたりとも動かないものありと多種多様だ。
室内には、よく脂肪をたくわえた人間がいた。黒髪を長く伸ばしているので、辛うじて女と分かる。
彼女は顔面を水にくっつけそうにしながら、硝子鉢を覗きこんでいる。天霧はそれ以上近づくことなく、部屋の入り口で立ち止まった。それがここの作法なのである。
「あのう……」
どうしたらいいのか、紫苑がはかりかねて天霧に問うた。その声を聞いて、女性がわずかに動く。
「天霧。……もう一人、子供もいるのね」
「当たりだ」
天霧が返事をしても、彼女は前屈みの姿勢を崩さなかった。そのまま、ちょっときつそうな体勢でしゃべり続ける。
「ちょっとだけいい具合になるまで待ってて。あ、あと子供」
「紫苑です」
「紫苑。天霧が連れてきたからバカじゃないんだろうけど。万が一、私を押したりしたら──どうなるかくらいは分かるわね?」
「はい」
「忠告はしたわよ。やりやがったら、ゴメンナサイでは済まさないからね」
紫苑が天霧の足に抱きつく。目の前の巨体が動き出すまで、彼はその姿勢のまま固まっていた。
「よっこいしょっと」
四半刻たった頃、ようやく部屋の主が文字通り重い腰を上げる。彼女は特別に仕立てられた、特大の官服を着ていた。まじまじ正面から見ると、本当に円形に見える。肉にはさまれて三日月の形になった目で、じろりとこちらをねめつけた。
「悪かったわね。でも、繁殖が難しい魚が卵を産み始めたから」
天霧はわかっているという風にうなずいた。彼女は、この国きっての魚類学者である。
「普通は約束するんだがな。急に訪ねて申し訳ない、七扇。……だが、子供にはもう少し優しくだな」
「研究の邪魔をする奴は、年齢のいかんに関わらず敵とみなすわ」
女はしれっと天霧の言い分を無視した。取り付く島がないとは、こういうことを言うのだろう。天霧は諦めた。
「分かったよ。で、資料は?」
「そこにあるわ。適当に見てちょうだい」
女海洋学者は、机の一角を指さした。天霧は腰を下ろして、冊子をめくり始める。頭の中で、めまぐるしく思考が立ち上がり始めた。最初はおぼろげだったそれは次第に情報を得て、確証へと変わっていく。




