背景・背景
紫苑の疑問は当然だ。深窓の令嬢ともなれば、外出には必ず供の者がつく。露天の男など、声をかけることすらかなわない。
「それが、運命のいたずらとでもいうのかな」
ある日、かなり年をとっていた瑠璃の大祖母が亡くなる。生前付き合いがあった者が多く、非常に大がかりな葬儀となった。そのどさくさにまぎれて、元気があり余っていた瑠璃が脱走したのだ。
「普段ならありえないことだが、使用人が目を離したらしい」
街に出た瑠璃は生まれて初めての、完全な自由を満喫した。誰にも気兼ねすることがない。小さなことではしたないと叱られることもない。それがこんなにも楽しいとは。
瑠璃は、はしゃいではしゃいで──そして、地面が揺れるのを感じた。道端で転んだのだ。
「あら」
「そもそも走るということ自体しないお嬢さんだからな。うまい転び方も知らなかったらしい」
彼女はあちこちに擦り傷を作り、履き物の紐が切れてしまった。綺麗だった着物も、泥で無惨に汚れている。あんなに楽しかったのに、急に不安になってきた。街中に知り合いもおらず、瑠璃が途方に暮れていると……
「まさかそこで」
「ああ」
近くで露店を出していた虎杖が、あまりに派手な転びっぷりを見て瑠璃に声をかけた。その後、なんとか役所を通じて迎えを呼べたのだが、虎杖と一緒にいる瑠璃はずっと人が変わったようにぼんやりしていたという。
「ありがちですが、恋に落ちるには良い状況でしょうね」
自分は違う、という口ぶりで枸橘がつぶやいた。天霧は深くつっこまなかった。
「あとは一家を巻き込んだ大騒ぎだ。絶対に彼でなければ嫌だとごねる娘に、頼むから諦めてくれと泣きつく両親や親戚たち」
「……でも、結婚するってことは」
「両親が折れて、認めたんだ。結婚させてくれなきゃ死んでやる、と娘が言うのでな」
なんだかんだ言っても、目に入れても痛くない一人娘である。両親は虎杖が時計作りの道に進むことを条件に、婿入りを認めた。
「女の人は強いですねえ」
紫苑が及び腰になりながらこぼす。
「で、虎杖の方はそれでよかったのでしょうか。彼の両親は?」
枸橘が聞く。天霧は資料をめくりながら答えた。
「彼のことはあまり記載がない。両親とも死別していて、過去を保証してくれる人間が誰もいないからな──というわけで、虎杖と瑠璃の婚約が決まった。そして正式な儀式をあげることになったのだが、そこが特殊な環境でな」
瑠璃の生家が保有する、小さな島。そこには時を司る神がまつられており、結婚や出産で家族が増えた時は必ず出向くことになっているのだ。
「夫婦と供の者が島に渡り、婚姻の儀を行う……と。その儀式も、なんとも時代がかったものですね」
枸橘の言う通りだ。儀式のあらましはこうだ。深い海の中に、女性が珠を落とす。男が潜っていって、その珠を持って帰れれば正式な婿として認められる。
「これ、取れなかった場合は本当に追い出されるんでしょうか」
「建前だろう。どうせ結婚するのは決まっているんだから」
瑠璃の家系と結婚する相手だって、大半は今回と違って格式ある家だ。多分に政略的な意味も含まれている。冷たい水の中にさらして、大事な金の卵に何かあっては元も子もない。
「実際は浅瀬にでも投げて、それを持って帰る程度のものだろう。しかし、今回はなぜか古代の言い伝え通りに儀式を行った」
「どさくさに紛れて何かあれば、と思っていたのでしょうか」
「その可能性はあるな。今度の婿は認められていたとは言いがたい」
男が死んで娘だけ残ってくれれば、瑠璃の両親たちにとってこんなに都合のいいことはない。だから、悪意をもって虎杖が殺された可能性はあった。しかし、そうだとしたら謎が残る。
「しかし、娘まで死んでいるのが解せない」
「ですね。参考までに聞きますが、本当に他の子供はいないのですか? この規模の家なら、妾がいてもおかしくないでしょう」
妾が本妻の子を恨んで、というものものしい話なら確かにありそうだ。しかし、天霧は首を横に振った。
「ここでは難しいだろうな……」
瑠璃の父、現当主は職人肌の人間だ。技術はあれど人あしらいは苦手で、表を取り仕切っている妻に頭が上がらない。妻は使用人たちにも人気が高く、彼女に出て行かれたら家は成り立たないとの評判だった。
「そんな状況で、あえて危険を犯す意味はありませんね」
「家族仲も悪くなかったようだしな。妾の可能性はなさそうだ」
天霧はちらっと紫苑を見た。妾という存在は知っているが、どう答えたらいいのか分からなさそうに苦笑いしている。この話は、早めに打ち切ることにした。
「当主は、その両親と同居で?」
「ああ。三世代が同じ家で暮らしている。といっても、当主の母は腰がたたなくて寝たきりだから、嫁に文句を言う元気は残ってない。嫁姑の争いはないな」
「舅は?」
枸橘が言った。揉めるのは、女と女だけとは限らない。性別が違うと、相手の気持ちが分からないことはよくある。枸橘が言いたいのはそれだろう。
「それが、珍しく理解のある人のようだ」
亭主がどんなに不向きな性質であっても、年寄りは女が表に立つといい顔をしない。あくまで夫をたてる、という条件で影から権力を振るう方に持って行きたがる。しかし舅は、「したいようにさせておけ」と寛大な態度であった。
「本当に希な方ですね」
「細工物を扱う関係で、海の外とも付き合いがあるからかもしれん。家族構成については、このくらいでいいだろう」